1968(上) の商品レビュー
長かった。ようやく読み終えた。 印象に残っているのは、職場を荒らされた挙句に、ひどい言葉を投げつけられれたことに怒り悲しむ事務職員のことばだった。 学生の語る概念としての〈労働者〉と現実に働く人の言葉の重みの違いが、この短いエピソードからにじみ出てくるようであった。
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1968感想 1968年あたりに起きた、学生叛乱、大学闘争の本。 正直、私の世代だと、そんなことあったんかいなという感覚。 めちゃめちゃ厚かったので、読むのに苦労しました。。。 印象に残ったところを列挙していくと。 ①膨大な文献、手記にあたっている点。 物語を読むような臨場...
1968感想 1968年あたりに起きた、学生叛乱、大学闘争の本。 正直、私の世代だと、そんなことあったんかいなという感覚。 めちゃめちゃ厚かったので、読むのに苦労しました。。。 印象に残ったところを列挙していくと。 ①膨大な文献、手記にあたっている点。 物語を読むような臨場感があると同時に、本来、歴史ってこうなんだよな、と思う。 (いろいろな思惑であったり、思いがあって組織や人が動いていく。教科書では、いつ、何が起こってとしか書いていないが。) Wikiとか見る限り、文章資料にしか当たっていないことで、批判対象になっていたりもするそうですが。 ②文章構成 序章や章のはじめで概要を知りたい人はこの章を飛ばしていいだとか書いてある。 その通りに読むと読みやすいのでありがたい。。 ③「現代的不幸」から闘争をした学生たち。 東大闘争に代表されるように、 本当は大学の民主化闘争だったものが、「自己の確立」「真の大学のための闘争」といったように闘争の形が変質していく。 そして当時はメンタリティを形成させる土壌があった。 その土壌としては ・日本がまだ発展途上国であった高度成長前に幼少期を過ごしたベビーブーム世代が持つ根底の文化や性規範が、高度成長後のものとはおよそ異なるものだった。 ・大学に進学した彼らが、マスプロ教育の実情に幻滅し、アイデンティティクライシスや生のリアリティの欠落に悩む。 何となく、分かるなとも思うし、もし自分がこの時代に大学生として生まれていたら、少なからず彼らに共感するんじゃないか。 何が不満なのか、言語化できないというのが、分かる。。 ④闘争、組織の在り方 当初は、明確な目標を掲げていた組織。 →無関心層、参加者の減少、疲弊、暴力手段で本来の目的を見失う。 政治的妥協ができなくなる。 セクトと呼ばれる「新左翼」の集団の介入によってどんどん目的から離れていく。 確かに組織って、本来の目的を見失うと、意味の分からない方に走っていきがちだし、内部からも修正が効かなくなる。 大学闘争という限られた場ではあるが、組織の変質という意味では、注目に値する。
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全共闘世代を親に持ちながらも、全共闘とは何だったのか、理解できぬまま来た。 けれど、アイデンティティ・クライシスだと定義すればよく分かるという点で納得であった。 そして、東大全共闘にかなり共感できてしまう自分がいるのを再確認するが、他方、(今なら)絶対に自分は参加しないという確信...
全共闘世代を親に持ちながらも、全共闘とは何だったのか、理解できぬまま来た。 けれど、アイデンティティ・クライシスだと定義すればよく分かるという点で納得であった。 そして、東大全共闘にかなり共感できてしまう自分がいるのを再確認するが、他方、(今なら)絶対に自分は参加しないという確信もある。と言うか、東大嫌で京大に行ったもんね。
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今第三章を読んでいる。著者によるスキップ方法にのっとり、第二章は飛ばした。第三章は慶大闘争の話だけど、当時の学生たちのバリケード内行動が、香港雨傘運動の中でみた光景とちょっと似ている。あと、今おもしろいと思う点は、慶大闘争から始まるあたりの学生たちは、戦後の民主教育を受け、かつ、...
今第三章を読んでいる。著者によるスキップ方法にのっとり、第二章は飛ばした。第三章は慶大闘争の話だけど、当時の学生たちのバリケード内行動が、香港雨傘運動の中でみた光景とちょっと似ている。あと、今おもしろいと思う点は、慶大闘争から始まるあたりの学生たちは、戦後の民主教育を受け、かつ、旧来の「立派」な大学イメージを持ちながらマスプロ大学に入ってしまったということ。
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出来れば、僕なんかよりずっと若い人が、よくわからなにしても読んでほしい本。まあ、小熊さんの仕事のパワーは満喫できます。彼は省略しないんですよね。付き合う方は、なんかへたり込んでしまうのですが。
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私が高校生、大学生のときは、尾崎豊の歌が同世代から多くの支持を得ていた時代だ。「夜の校舎 窓ガラス 壊してまわった」…「この支配からの卒業」… でも当然と言えば当然だが、いくら私たちの世代の若者がこの歌に共感したからといって、実際に夜に学校に侵入して窓ガラスを破壊したやつなんてほ...
私が高校生、大学生のときは、尾崎豊の歌が同世代から多くの支持を得ていた時代だ。「夜の校舎 窓ガラス 壊してまわった」…「この支配からの卒業」… でも当然と言えば当然だが、いくら私たちの世代の若者がこの歌に共感したからといって、実際に夜に学校に侵入して窓ガラスを破壊したやつなんてほとんどいない。それは、そんなことしたって現実は何も変わらず、問題は何も解決しないことをみんな知ってたから。 “若者たちの叛乱”についてこの本で概括的に読んで、書かれた彼らの行動や発言と並んで私が連想したのは「オウム真理教」であり「イスラミックステイト」だ。こう書くと、当時運動にかかわった者は憤激し、私の無知を嘲笑しようとするかもしれない。 しかしそれなら、自分が正しいと思っているものを錦の御旗にし、それ以外のものを徹底的に排斥し攻撃しようとする姿勢という点で共通しているのではないかという私の疑問に、自分たちの正義を貫徹するという点以外にもっと広い視野からの合理性・必然性を具体的に提示できるのか? もちろん、著者の小熊氏は当時の運動への参画者を非難するためにこの本を著していないので、私も当事者を否定したり攻撃する意図はない。しかし、ケンカで難しいのは「敵を倒す」ことよりも、むしろ「味方をつくる」ことというのは必然の理だ。そして歴史的に見ても、勝利を得たと言えるのは、闘争に勝った者よりもむしろ共感を得て広く賛同を得られた者である。 この本の叛乱者も、“本当の”勝利を得たいのなら、ヘルメットをかぶってゲバ棒を振り回したりとかではなく、例えば徹底的な討論や地道なPR活動など、後の世代でも理解に耐えうるような形で歴史上の足跡を残すべきだった。 しかも彼らは大学生である。時代の空気や世代の共通認識がたとえそうだったとしても、もっと「謙虚たるべき」だったと、やっぱり私はそう思う。 とはいえ、当時の彼らも、昭和の終わりに大学時代を過ごした私も、そして現在の大学生も、基本的なものの考え方や行動パターンは大同小異なはず。(その証拠に、表紙のモノクロ写真の女の子なんか、ヘルメットを脱げば、今もキャンパスを普通に歩いてても不思議じゃないでしょ?) それなのになぜ、こんな支離滅裂なのか?意味のない残骸にしか見えないのか? 著者は従来の「この時代」の研究で広く行われてきた、当時の数々の運動の「断片」から帰納的に当時の運動の正体を得ようとはしていない。著者がとったのはまったく逆の発想だ。著者が当時を照射するために掲げたのが『現代的不幸』というキーワードだ。 現代的不幸とは「アイデンティティの不安・未来への閉塞感・生の実感の欠落・リアリティの稀薄さ」だと著者は言う(24ページ)。それらは現代に生きる私たちにも年齢層や世代を超越してかかわる、まさに現代的な問題であり、それゆえに当時を知らなくても、離れた視点で改めて見直すことにこそ意義が生じる。(ちなみに著者は1962(昭和37)年生まれで当時は知らないはずだが、逆にそれがいいのかも。) 現代的不幸は現代の私たちにものしかかる重くて不可避な問題だが、当時の若者が同種の問題を抱えるなかでどう考え、どう行動したか…それを考えることは現代人にとって大きなヒントとなりうるが、小熊氏の渾身の著作によって、私たちが何かに気づくきっかけになればいい、そういう視点で読むべきだと考える。 したがって、小熊氏の記述が当時の実態からみて合ってるか離れているかという「あら探し」に傾注してる人が多いが、そんなことは核心から見たら実はどうだってよいことだ。私たちにとって重要なのは、「正義」と「狂信」とをいかに分別するか、その視点をどうやって身につけられるのかを学ぶことである。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
1000頁を超える(脚注抜きで967頁)、しかも、頁内の文字数も圧倒的に多い超大作であり、とにかくその情報量に圧倒されます。その時代に高校生として生きていた自分の歴史と重ね合わせて、非常に充実感のある読書時間でした。それにしてもノンセクトラディカルなどという情緒的にかっこよさそうな言葉に憧れ、心情的に応援していた自分の知らない領域の話の多さに驚きです。セクト内ゲバについては中核派と革マル派の争いはあまりにも有名でしたが、その対決の本質は知りませんでしたし、学生時代に奥浩平「青春の墓標」という本があることを知りながら、読んでいませんでした。中核の奥が革マルの彼女との恋に悩んで、最後は自殺していくというあまりにも悲劇的な純粋な彼らに今さらながら共感し、心が動きました。また中核派メンバーの結婚式での騒ぎ・・・彼らが次第に過激に暴力学生と呼ばれざるを得ないところへ追い込まれていくところはドラマのように臨場感がありました。革マル派は文学部に勢力を張り、都会出身者が多く、理論派でありながら、批評が多く、行動しなかったために各派に嫌われたというところは面白かったです。一方、中核派は律儀で国鉄に乗る場合には必ず乗車券を買っていたが、3派を構成した社学同ML派、社青同解放派は無銭乗車を強行していたというのは楽しい逸話です。また各セクトの争いが純粋なことばかりではなく、自治会を押さえることによる資金の確保という意味合いがあったことは考えてみれば当然のことですね。日大の場合には膨大な資金になったようです。旧自民党の派閥と同じようなものです。65年・慶応大の学費値上闘争、66年の早稲田の闘争、横浜国大・中大その他、そして日大の封建主義的な古田体制打倒から全共闘が生まれ、東大医学部の待遇改善からスタートした全共闘誕生など、政治闘争というべきではなく、むしろ大学改革闘争であったという事実に、あまりにも無知であった自分が恥しくなります。あの頃問われた「大学とは」「自己否定」などがどこかへ行ってしまったことが淋しく、何がこのような現状に至らせたのかと空しい思いさえ起こってきます。1960年生まれの著者がこのような詳細な資料を調べているのはとにかく想像を絶する驚きです。
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膨大な文献資料を読み込み、その実証的研究手法は評価されるべきだろう。全共闘を取り上げた文献は、数々あるが、「現代的不幸」を視点としたところに、著者の斬新な立場が 現れている。ただ「マルクス主義」の用法は、ロシア的展開、つまり俗にいう「マルクス・レーニン主義」を継承した、日本版「マ...
膨大な文献資料を読み込み、その実証的研究手法は評価されるべきだろう。全共闘を取り上げた文献は、数々あるが、「現代的不幸」を視点としたところに、著者の斬新な立場が 現れている。ただ「マルクス主義」の用法は、ロシア的展開、つまり俗にいう「マルクス・レーニン主義」を継承した、日本版「マルクス主義」といえ、違和感を感じざるを得ない。あのころは、マルクスと関連する書籍は、「共産主義」という一面だけをとらえて、ローザ・ルクセンブルクや毛沢東など「政治」に関わる書籍がほとんどで、マルクス自身が「わたしはマルクス主義者」ではないと言っていることから、著者の今後の展開に不安感を抱いた。
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分厚くて、絶望感漂うが読みやすい。この時代と現代の共通点を見出していて、非常に面白い。最後の方の狂気っぷりもいい
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発売当初は評判になり図書館も予約が多く借りるのは諦めていましたが、今はすんなりと借りる事が出来ました。 これだけの資料が載っているのは貴重ですが、でもこんなに大きく厚くする意味が有るのかどうか、殆どが資料の2次利用で著者が直接話を聞いたりとかは無いようです。 実際には拾い読みしな...
発売当初は評判になり図書館も予約が多く借りるのは諦めていましたが、今はすんなりと借りる事が出来ました。 これだけの資料が載っているのは貴重ですが、でもこんなに大きく厚くする意味が有るのかどうか、殆どが資料の2次利用で著者が直接話を聞いたりとかは無いようです。 実際には拾い読みしながら興味のある所を読んだだけですが、その時代に生きてきた者にとっては特別に目新しい事もなく自分の過ごしてきた時代の再確認とはなりました。 重たいので下巻は読まなくとも好いかと感じています。
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