ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」 の商品レビュー
広島には、原爆遺構としての“原爆ドーム”がある。しかし、長崎には、原爆遺構がない。あるのは平和祈念像である。 原爆の傷を語る貴重な遺産となるはずだった長崎の浦上天主堂。なぜ浦上天主堂は取り壊されたのかに迫るノンフィクション。 消えたもう一つの「原爆ドーム」、それは、浦上天主堂...
広島には、原爆遺構としての“原爆ドーム”がある。しかし、長崎には、原爆遺構がない。あるのは平和祈念像である。 原爆の傷を語る貴重な遺産となるはずだった長崎の浦上天主堂。なぜ浦上天主堂は取り壊されたのかに迫るノンフィクション。 消えたもう一つの「原爆ドーム」、それは、浦上天主堂の廃墟を指している。 無残に破壊された浦上天主堂は、当初は、原爆の悲惨さを後世に伝えるはずの遺構として存続の方向で動いていた。しかし、一転、取り壊されることになる。 日本(あるいは長崎市)の思惑、アメリカ政府の思惑。 複雑に絡み合った事情と、“浦上”という“場所”が撤去につながった。 当初の目的地でなかった「浦上」。いろいろな偶然が重なり、原爆は「浦上」上空に落とされた。日本のカトリックの聖地的な場所「浦上」である。 原爆遺構として残されなかった「浦上天主堂」。 原爆が落とされたのも、廃墟となり取り壊されることになったのも、数奇な運命としか言いようがない。 出撃する前にアメリカ空軍内でミサが行われ、その後…、というのを考えても、人間の罪は深く、愚かであると痛感。
Posted by
広島と長崎。世界広しといえども、原子爆弾という人間が作り出した 悪魔の兵器の犠牲になった稀有な都市。 同じ被爆地だけれど、広島と長崎では何かが違うと感じていた。 それが本書のタイトルで腑に落ちた。 そう、広島には原爆の悲惨さを今に伝える原爆ドームがあるが、 長崎には平和祈念像...
広島と長崎。世界広しといえども、原子爆弾という人間が作り出した 悪魔の兵器の犠牲になった稀有な都市。 同じ被爆地だけれど、広島と長崎では何かが違うと感じていた。 それが本書のタイトルで腑に落ちた。 そう、広島には原爆の悲惨さを今に伝える原爆ドームがあるが、 長崎には平和祈念像はあるものの当時の姿のまま保存されて いる建物がない。 否、長崎にもあったのだ。爆心地にほど近い場所にあった浦上 天主堂の廃墟だ。原爆の記憶を留める天主堂の廃墟は、当初は 保存の方向で検討され、長崎市長自らが保存方法について 研究するよう指示を出している。 だが、ある時から市長は廃墟解体へ舵を切る。アメリカから唐突 に持ち込まれた長崎市とアメリカ・セントポールとの姉妹都市提携 の話。そして、それに基づく市長の渡米。 一体、何が市長の心を変えたのか。原爆投下を正当化して来た アメリカの圧力があったのではないか。著者はアメリカに渡り、 公文書館で資料を掘り起こし、天主堂廃墟解体の謎を追う。 廃墟保存から一転、解体派となった長崎市長の発言の変遷や、 姉妹都市提携と市長の訪米の経緯を追った部分はまるで ミステリーを読んでいるようである。 原爆の記憶を消したいアメリカの大きな力が働いたのではないか と、陰謀論紙一重に考えに取りつかれそうだが著者が断定して いないところがいい。 衝撃的な話もいくつかあった。アメリカの聖職者が来日の折り、 原爆投下について謝罪したところ、アメリカへ帰国後に司祭の 地位を剥奪されたそうだ。そこまでするか、アメリカ。 そして、アメリカでの長崎市長のインタビュー記事には目を疑った。 何度も読み返した。「広島は原爆を政治的に利用している」との 批判だ。同じ被爆地の市長が何故?一体、彼に何があったと いうのか。 浦上の聖者と言われた永井隆の主張への疑問、キリシタンの 村としての浦上の歴史、天主堂建立までの苦難等も盛り込まれ、 日本の都市のなかでも特殊な歴史を歩んで来た長崎が背負って 来たものが分かりやすく書かれている。 「もう教会が結論を下したからしょうがない、むこうが建てるという のだからしょうがない、そういう消極的な態度ではなくしてこれを 単に長崎の観光地というけちな考えで残そうというのではなく、 全人類の二十世紀の十字架として、キリストのあの偶像が犠牲 性のシンボルであるならば──二千年前の犠牲のシンボルで あるならば、私はこの廃墟の瓦礫は二十世紀の戦争の愚かさ を表象sる犠牲の瓦礫である、十字架であるとそういう意味に おいて、唯物的な考えから申せば、市長がさきほどももうされ ましたように、そう大して残すほどのことではありませんが。 しかし、精神的に長崎を訪れる各国の人たちが、一瞬襟を 正して原爆の過去を思うその峻厳な気持を尊ぶ原爆の資料 だと信じております」 廃墟解体を主張する市長に対し、保存を強硬に主張する市会 議員の訴えだ。 二十世紀の十字架。原爆で破壊された廃墟は解体され、 浦上天主堂は再建された。広島の原爆ドームのように 天主堂の廃墟が残されていたら、長崎の取り上げられ方は 少々違っていたのかもしれない。
Posted by
原爆と聞いてすぐに思い浮かぶ映像は、広島ならば原爆ドーム、長崎ならば筋骨隆々とした平和祈念像でしょう。でも、原爆ドームが被爆した建物そのものであるのに対し、平和祈念像が作られたのは1955年、原爆が落とされて10年後のことです。 実は長崎にも、浦上天主堂という、原爆ドームに匹...
原爆と聞いてすぐに思い浮かぶ映像は、広島ならば原爆ドーム、長崎ならば筋骨隆々とした平和祈念像でしょう。でも、原爆ドームが被爆した建物そのものであるのに対し、平和祈念像が作られたのは1955年、原爆が落とされて10年後のことです。 実は長崎にも、浦上天主堂という、原爆ドームに匹敵する、実際に被爆した遺構が存在しました。無残に破壊された浦上天主堂は、広島の原爆ドーム同様、保存されて、原爆の悲惨さを後世に伝えるはずであり、長崎市もその方向で動いていたのですが、一転、取り壊されることになってしまいました。この本はそのような決定がなされた背景、事情を、当時の文書、議事録、長崎の歴史等から明らかにしていきます。 一見、平和の象徴であるような「永井隆」「姉妹都市」「フルブライト」などについてあらためて考察しながら、事実を拾い上げていく描写は、ミステリーを読んでいるようでした。自分の仮説の決定的証拠が発見できなかったことは著者自身が認めていて、その仮説を単なる憶測ととるか、貴重な調査ととるかは、読者次第でしょうが、戦争、平和、世界を多少なりとも考えるうえで、大変有益な本であることは間違いありません。 本書を読んだあと、英語の異常な隆盛やディズニーランドの異様な人気、こうした現象の背後に何があるのか、あらためて考えてみることをおすすめします。
Posted by
長崎には、広島の原爆ドームと同じく、原子爆弾の被害を浴びて、廃墟となった建物があった。それは、「浦上天主堂」という教会である。この廃墟は、保存する、という案があったにもかかわらず、アメリカとの関係を優先したために、取り壊されてしまったという。しかし、浦上天主堂は本当に取り壊される...
長崎には、広島の原爆ドームと同じく、原子爆弾の被害を浴びて、廃墟となった建物があった。それは、「浦上天主堂」という教会である。この廃墟は、保存する、という案があったにもかかわらず、アメリカとの関係を優先したために、取り壊されてしまったという。しかし、浦上天主堂は本当に取り壊されるべきものだったのだろうか。もしも今、存在していたら、原子爆弾の凄まじい破壊力を伝える建築物となっていただろう。また、非戦争体験者たちの心に平和を訴え、考えさせることに貢献していただろう。保存について、一時的ではなく長期的な視野をもって、話し合われる必要があった。アメリカとの関係を重視した結果、浦上天主堂という遺産が犠牲になってしまったことが、惜しいなと思う。
Posted by
私のルーツに関る本。 ただ、ルポルタージュとしてはエッジが甘い気がする。 不足しているのが文筆力なのか情報なのかは分からないけど。 浦上天主堂の遺構は、私も長崎に行く度に爆心地に移設されたものを見ていた。 でも、その場所にそのままあることの意味こそ大切だと、今更ながら知った。 ...
私のルーツに関る本。 ただ、ルポルタージュとしてはエッジが甘い気がする。 不足しているのが文筆力なのか情報なのかは分からないけど。 浦上天主堂の遺構は、私も長崎に行く度に爆心地に移設されたものを見ていた。 でも、その場所にそのままあることの意味こそ大切だと、今更ながら知った。 市の中心部と浦上は別物、と言う事は前から知っていたけど それがその、被害を受けた建物の保存に微妙に影響していたと言う一節に納得した。 私が子どもの頃は、帰省の度に母に原爆資料館に連れて行かれた。子供心に痛かった。辛くて悲しかった。私自身子どもを持ってから三度ほど訪れたけど、資料館には行っていない。 どうやって伝えればいいのだろう。
Posted by
図書館の新着棚で気になっていた本『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』。昨夏の原爆忌を前に出された本である。 暗くてわかりにくいが、カバー写真に使われているのは、「原爆で破壊された浦上天主堂廃墟」(撮影=石田寿)。被爆から13年、浦上の丘にあったこの廃墟は、そのごく一部を...
図書館の新着棚で気になっていた本『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』。昨夏の原爆忌を前に出された本である。 暗くてわかりにくいが、カバー写真に使われているのは、「原爆で破壊された浦上天主堂廃墟」(撮影=石田寿)。被爆から13年、浦上の丘にあったこの廃墟は、そのごく一部を原爆落下中心地公園(平和公園)に移築したほかは、取り壊され、撤去された。 消えたもう一つの「原爆ドーム」とは、この浦上天主堂の廃墟を指している。 著者は、1955年、被爆から10年たった長崎市に生まれた。長崎の原爆は、当初の目標投下地点ではなく、雲の切れ間のあった浦上の上空で投下された。もしも、当初の目標どおり、原爆が長崎市の繁華街に落とされていたら、著者の母はこの地上から跡形もなく消えただろうという。 浦上天主堂の廃墟が撤去されたことを著者が初めて聞いたのは、30年ほど前、社会人となってからだという。ずいぶんと昔の話だという気持ちが先に立ち、深く考えることもなかった浦上天主堂について、著者が取材を重ねてこの本をまとめるきっかけになったのは、天主堂の廃墟の写真を見たことだ。 表紙カバーのほかに、この本には数枚の廃墟写真が収録されている。 広島には原爆ドームがあるのに、なぜ長崎には浦上天主堂の廃墟が残っていないのか。しかも、市議会でも議論があり、市長の諮問機関であった原爆資料保存院会も「保存」という結論を出していた。市長も同意していたという。それが、あるときを境に、市長の「保存」の考えが「撤去」へと180度転換する。なぜだったのか。 市長が「撤去」の姿勢を鮮明にしたあと、市議会で、廃墟の保存を強く訴えた岩口議員の言葉が引かれている。 ▼「…これを単に長崎の観光地というけちな考えで残そうとするのではなく、全人類の二十世紀の十字架として、キリストのあの偶像が犠牲のシンボルであるならば──二千年前の犠牲のシンボルであるならば、私はこの廃墟の瓦壁は二十世紀の戦争の愚かさを表彰する犠牲の瓦壁である、十字架であるとそういう意味において、唯物的な考えから申せば、市長がさきほども申されましたように、そう大して残すほどのことではありませんが。しかし、精神的に長崎を訪れる各国の人たちが、一瞬襟を正して原爆の過去を思うその峻厳な気持を尊ぶ原爆の資料だと信じております」(144ページ) この本は、大切なものを失ってしまったのではないかという著者の衝撃と、「保存」方針が「撤去」へと転換した経緯への疑問を原動力に、長崎の浦上という地のこと、そして長崎に投下されることになった原爆のことを書いている。 12月に読んだ『ヒロシマの歩んだ道』に似て、この本は、私が知らなかった「ナガサキの歩んだ道」を教えてくれるものだった。 長崎は、中学校のときの修学旅行先だった。あの筋骨隆々とした像のことも、原爆資料館を見学したことも、ぼんやりとおぼえてはいるが、中学の修学旅行、長崎、といって私が一番おぼえているのは皿うどんである。修学旅行前のベンキョウの一環として、たぶん歴史調べのようなこともやったはずだが、私がおぼえているのは、長崎の味として皿うどんの調理実習をしたことと、帰ってからも、何度も晩ご飯にこしらえたことである。修学旅行で浦上天主堂へ行ったかどうかは記憶が定かではない。
Posted by
トランクの中の日本http://www.amazon.co.jp/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E2%80%95%E7%B1%B3%E5%BE%9...
トランクの中の日本http://www.amazon.co.jp/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E2%80%95%E7%B1%B3%E5%BE%93%E8%BB%8D%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%9D%9E%E5%85%AC%E5%BC%8F%E8%A8%98%E9%8C%B2-Joe-O%E2%80%99Donnell/dp/4095630132本は見ていませんがNHKの番組で写真を拝見してしびれるなぁ と思いました同じような写真が 日本にもあったそして 不審な理由で焼かれたのにかかわらずいくつか残っているということに 何かを感じました私は当事者ではないので あやまってほしいというのではないのですがひどいことをした と思っていないらしい 現状になにか 機会があったらまた 使うのでは? と思ってしまうのです不安です
Posted by
(2009.09.05読了) 広島には、原爆投下を一目で示すことのできる「原爆ドーム」というモニュメントが残されています。ところが、長崎にはそのようなモニュメントがありません。 長崎への原爆投下で破壊された浦上天主堂を破壊された状態のまま残すという動きがあったにもかかわらず、破壊...
(2009.09.05読了) 広島には、原爆投下を一目で示すことのできる「原爆ドーム」というモニュメントが残されています。ところが、長崎にはそのようなモニュメントがありません。 長崎への原爆投下で破壊された浦上天主堂を破壊された状態のまま残すという動きがあったにもかかわらず、破壊された天主堂が完全に撤去され、同じ場所に再建されています。 (破壊された残った天主堂の壁の一部は、原爆落下中心地公園に移築され残されています。) 破壊された浦上天主堂の写真を見て、衝撃を受けた著者は、見る者にこれほどのインパクトを与えることのできる天主堂がなぜ残されなかったのかという疑問を持ち取材を始めたのだそうです。 著者の努力により、幾つかの事実が明らかになりましたが、最も知りたいところがいまだ明らかになっていません。今後とも、残されたなぞを明らかにするまで、取材活動を粘り強く続け、増補改訂版、または、続編を出してほしいものと思います。 浦上天主堂のある地域は、キリスト教徒の多い地区で、江戸時代から明治の初めまで、何度も弾圧にあっています。浦上天主堂は、1895年に着工され、1925年に完成しています。浦上天主堂が建てられたところは、踏み絵が行われた庄屋の跡地で、庄屋が破産したので信者たちが買い取ったのだそうです。 信者たちにとっての歴史的意味合いの深い土地ということになります。 したがって、代替地での天主堂の再建ということには抵抗があったのではないでしょうか。 (これが一つの考え方です。) また、「長崎の鐘」の著者永井隆の考えの中に高瀬毅さんの言い換えを引用すると、 「膨大な犠牲者を生んだ原爆投下は、罪多き人類にとってはいたしかたなく、生贄として浦上が選ばれた。そしてそこで亡くなった信者は神に対して捧げものである」 というようなところがあるということです。 (このような考えも、破壊された天主堂を残す必要はないということにつながるのかもしれません。残しておけば、破壊した者への恨みにつながる。) 1955年、長崎市に対し、アメリカのセントポール市から姉妹都市提携の申し入れがありました。セントポール市は10月24日の国連デーに長崎市との姉妹都市提携を諸外国に向けて宣言し、田川市長の歓迎会を計画しているので、出席してほしいということでした。 外貨持ち出し制限のため、田川市長は、渡米できませんでした。 1956年8月18日、田川市長は、アメリカへ向かうために長崎を出発しました。22日に羽田空港からアメリカへとび立ち、9月下旬に長崎に戻ってきました。 このときの費用がどこから出たのかがまだ分かっていません。(少なくともアメリカ滞在費用は、アメリカ側から提供されたであろうことは、他の事例からの推測で、わかるようです。) 渡米前は、市の方針は、天主堂廃墟を保存する方向でしたが、帰国後の田川市長は、遺跡を撤去するという方向に変わっています。(アメリカで何があったのか分かっていません。) 市議会での質問に対し、田川市長は以下のように述べています。 「浦上天主堂の残骸が、原爆の悲惨を物語る資料としては適切にあらずと、率直に申し上げます。平和を守るために存置する必要はないと、これが私の考えでございます。」 一方、教会側の責任者山口司教は、再建資金を集めるために1955年5月から1956年2月まで約10ヵ月間、全米とカナダを回っています。再建の総工費は、6千万円と見積もられ、信徒から集められるのは3千万円、残りをアメリカ・カナダで集めるためでした。 長崎市と姉妹都市提携を結ぶ予定のセントポール市も訪問しています。 その時の新聞記事によると、山口司教は、天主堂の爆破の傷跡を消し去ることを望んでいると述べています。 著者 高瀬 毅 1955年、長崎市生まれ 明治大学政治経済学部卒業 ニッポン放送入社 1982年、ラジオドキュメンタリー『通り魔の恐怖』で日本民間放送連盟賞最優秀賞、放送文化基金賞奨励賞 1989年よりフリー (2009年9月6日・記)
Posted by
広島には三度行ったが、長崎には行ったことがない。そしてヒロシマの本は何冊か読んでいるのに、ナガサキの本をそう言えばきちんとは読んだことがないことにあらためて思い至った。 "No more Hiroshima, no more Nagasaki"とは言われても...
広島には三度行ったが、長崎には行ったことがない。そしてヒロシマの本は何冊か読んでいるのに、ナガサキの本をそう言えばきちんとは読んだことがないことにあらためて思い至った。 "No more Hiroshima, no more Nagasaki"とは言われても、ナガサキだけが独立して語られることの少なさ。それは第二の被爆地であるからだけではないのではないか、というのが、この本の着眼点である。 ヒロシマにあるシンボリックな「原爆ドーム」。原爆への思いを結集させる象徴が、一方のナガサキにはない。それはアメリカ側の圧力によって消されたのではないかという主張だ。 前半、ぐいぐいと引き込まれた。著者自身の母が被爆者であること、その母と浦上を訪れた思い出から、浦上の歴史、米軍の記録からたどる原爆投下位置が長崎市街地でなく浦上となった理由まで、視点が変わるたびに新たな発見があり、「そうか、そういう見方があるのか」とめまいに近い感覚を味わった。しかし、後半、おそらく著者がもっとも述べたかったのであろう、「なぜ浦上天主堂の廃墟(=ナガサキにとっての原爆ドーム)が残されなかったのか」をさぐる部分は、個人的には、「始めに結論ありき」の印象を受けた。 長崎市とアメリカの一都市が姉妹都市となることが決定し、市長がアメリカを訪れる。帰国した市長は、それまでの「天主堂を残すべき」という立場から一転、「廃墟を取り壊す」派に豹変していた。そこにアメリカの懐柔があったのではないかというものである。 著者は丹念に資料にあたっている。しかし、出てくるのは状況証拠と行っていい類のものに私には感じられた。まるで白紙の状態で資料にあたって、この結論は導き出せまい。 いや、懐柔があったのだとしても。 このとき、豹変した市長の言を跳ね返すほどの世論の高まりはなかった。 保存しようと努力する人々はいても、取り壊し決定から保存へと方針を覆させるほどの「空気」はなかった。そういうことだったのではないのだろうか? この本に限らず、謀略説を目にするたび、謀略を企てるサイドは、世論を含めた先まで読み通せるものなのか、いつも疑問に思う。変数が多くなればなるほど、予測は困難だ。 そして世論とは、とてつもなく大きな変数が動く、得体の知れない怪物だ。1つの力がおそらく働き、たまたまその力に有利なようにことが動いた。 起きてしまったことをふまえて、この先どうするかが重要なのだろう。 天主堂の廃墟が消えても、原爆が落ちた事実は変わらない。 著者あとがきの最後に掲げられた詩が胸を打つ。
Posted by
麦秋の 中なるが悲し 聖廃墟 (浦上を詠む) 水原秋桜子 そういえば、高校の修学旅行で行った広島の原爆ドームは、自らの痛々しい姿を生涯目に焼き付けさせようとするように激しく迫って私たちを迎えてくれましたけれど、長崎では、再建された浦上天主堂がまるで何もなかったかのよう...
麦秋の 中なるが悲し 聖廃墟 (浦上を詠む) 水原秋桜子 そういえば、高校の修学旅行で行った広島の原爆ドームは、自らの痛々しい姿を生涯目に焼き付けさせようとするように激しく迫って私たちを迎えてくれましたけれど、長崎では、再建された浦上天主堂がまるで何もなかったかのように美しい佇まいを見せていました。 確かに中で出会った、目のないポッカリ眼窩の空いた被曝したマリア像は、その時はゾクッとするほど衝撃的でしたが、時間とともに記憶の彼方へ消し飛んでしまっているかのようでした。 でも、10年ぶりかで浦上天主堂のフィルムを目にしたとき、実像が出てくる前に、あっ、という感じで思い出しはしましたが。 残骸になった浦上天主堂が保存されていたら、何の問題もなく、原爆ドームとまったく同じ歴史の証人となって、今も私たちに多くのことを語りかけてくれたことでしょう。 そうです、長崎が、どうしても原爆ドームのある広島に比べて印象が薄いのには理由があったことを、あなたはご存知でしたか? すべては、教会への誤爆、という真実を歴史から葬り去る目的で、アメリカ政府が動いて浦上天主堂を取り壊させたのです。 最初の計画の北九州・小倉上空が悪天候のために視界が効かず、第2目標の長崎へ向かい三菱兵器製作所めがけて原爆投下。それが誤ってキリスト教の教会である浦上天主堂を破壊し、信者8,500人をも虐殺したという事実を、キリスト教の国であるアメリカにとっては歴史に残る負のイメージを何としても拭い去らなければならないということで、強力な政治的圧力もしくはお金で頬を叩くみたいな懐柔策が働いたのだと思います。 田川務という当時の長崎市長が、保存をすすめていたにもかかわらず、アメリカから呼ばれて帰国後は一変して方向転換し取り壊すことに強力に動いたといいます。 この時、田川務長崎市長がアメリカで会った日本国連協会のウイリアム・ヒューズなる人物も、昨年の調査によると実在しないことが判明したり、1960年代初めのタイム誌に載った文面を見てみても、アメリカがいかに原爆の被害の小ささや投下の正当性を声高に叫んでいたか、盗人猛々しいとはこのことかと思うほどです。
Posted by
- 1
