神曲 煉獄篇 の商品レビュー
煉獄篇の最後辺りに天国編はより難解だから気軽に手出すんじゃねぇぞ?みたいな忠告があったのでひよって天国編を読まなかった過去がある(未だに未読)
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・これから先はおまえの喜びを先達とするがよい。峻嶮な、狭隘な道の外へおまえはすでに出たのだ。正面に輝くかなたの太陽を見ろ、草花や樹々を見ろ、ここではすべてが大地からおのずと生えている。
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煉獄とはなんぞや?地獄行きを免れた死者が天国を目指し七つの大罪を浄める贖罪の山である。鬼滅の刃は知らん。 地獄篇のビジュアルが印象強い「神曲」だが、煉獄篇も非常に映像的。地下に降りていった前篇から、今度は山を登っていくという流れになり、雄大かつ峻烈な風景が描かれる。おどろおどろ...
煉獄とはなんぞや?地獄行きを免れた死者が天国を目指し七つの大罪を浄める贖罪の山である。鬼滅の刃は知らん。 地獄篇のビジュアルが印象強い「神曲」だが、煉獄篇も非常に映像的。地下に降りていった前篇から、今度は山を登っていくという流れになり、雄大かつ峻烈な風景が描かれる。おどろおどろしさは薄れるものの、罪を償うべく過酷な労働を強いられる著名人が続々登場し感情移入を誘う。ダンテの額に肉、ではなくて七つのP(罪)の文字が刻まれ、七つの大罪に対応した環道を通過するごとに一つひとつ消えていく、というのもマンガ的で面白い。 先生との別れの情緒と、ようやく出会えた夫人から受ける叱責の強烈さが見事なコントラストをなしていて、ここが煉獄篇最大の見どころなのかも。というかSMすぎてワロタ。ダンテくんがM男というよりSすぎるんですよあの方……。 終盤の、美女がたくさん登場し癒やされる光景は文字通り地上の楽園という感じで、ダンテと共に旅をしてきた読者をなごませる。このあたりは天使やら幻獣やらが登場し、どファンタジーな映像を堪能できるので読んできたかいがあるというもの。続く天国篇はいかなる世界か楽しみだ。
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文学的美しさにおいては、平川祐弘訳の右に出るものなし。これをたった35歳の弱冠で訳し上げた平川先生はやはり学者としては超一級。
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地獄編同様、一日一歌コツコツ読んだ。 『神曲』を読む上で、思いつきで実行してきたこの読み方は案外有効なように思える。なぜなら、地獄〜煉獄を巡ることがいかに大変なのかを追体験できるからだ。途上でダンテは何度も挫けるが、その都度ウェルギリウスに励まされ、歩を進める。私も何度か読むこと...
地獄編同様、一日一歌コツコツ読んだ。 『神曲』を読む上で、思いつきで実行してきたこの読み方は案外有効なように思える。なぜなら、地獄〜煉獄を巡ることがいかに大変なのかを追体験できるからだ。途上でダンテは何度も挫けるが、その都度ウェルギリウスに励まされ、歩を進める。私も何度か読むことが億劫になったが、その度に自分で喝を入れて読んできた。 だからこそ、ダンテがベアトリーチェに再開するまでどれだけ苦労したのかが、現体験を通じて感じることができる。 閑話休題、煉獄編で特に惹かれたのはやはり美しい情景表現だ。第一歌から感動で鳥肌が止まらなかったのは鮮明に覚えている。これも地獄編をコツコツ読んできた後だからこそ味わえる感動である。 もちろん第一歌のみならず、全体にわたって美しくて的確な表現が止まらない。これに心動かされない者が果たしているのだろうか? 『神曲』の魅力は語り尽くせないくらいにはまだまだある。″3″を意識したゴシック調の形式、原語で音読したときに歌になる工夫、各編の行数の統一性などなど。『神曲』は知れば知るほど、その偉大さにひれ伏す。 こんなにも私の心を打った作品なので、本書の訳者である平川先生による『ダンテ神曲講義』を参考に再読しようと決意。その前に天国編へ!
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>詩行が独立して読むだけでは意味が通ぜず、興趣も湧 かず、註釈が必要とされるような部分は、詩的作品としては欠陥作品というべきであろう。残念なことにこの種の傾向は煉獄篇末尾から天国篇全体を通じて強まる傾向にある。 >君ら生きている人々はなにかというとすぐ原因を 天のせいにする、まる...
>詩行が独立して読むだけでは意味が通ぜず、興趣も湧 かず、註釈が必要とされるような部分は、詩的作品としては欠陥作品というべきであろう。残念なことにこの種の傾向は煉獄篇末尾から天国篇全体を通じて強まる傾向にある。 >君ら生きている人々はなにかというとすぐ原因を 天のせいにする、まるで天球が万事を 必然性により動かしているかのような口吻だ。 仮にそうだとすれば、 君ら人間の中には 自由意志は滅んだことになり、善行が至福を 悪行が呵責を受けるのは正義にもとることとなる。 天球は君らの行為に始動は与えるが、 万事がそれで動くのではない。仮にそうだとしても 善悪を知る光や自由意志が君らには与えられている。 そしてこの意志は初期の戦いでは 天球の影響を受けて苦闘するが、もし意志の力が 十分に養成されているならば、すべてに克てるはずだ。 君らは自発的に、より大きな力、より良き性質に 自由に服することができる。その性質が君らの中に もう天球が左右できないような智力を創り出す。 だから、現在の世界が正道を踏み外しているとするなら、 原因は君らの中にある。君らの中に求めるべきだ。(十六歌) >疲労困憊するなどと繰返して言いながら、私たちがここまで夢中になって『神曲』のなかを歩みつづけてこられたのは、結局は訳者平川祐弘の流麗明快で活気に満ちた訳文のみごとさによるものにほかならぬことに、あらためて気がつく 平川先生の訳と注釈の頼もしさ、さながらダンテを導くウェルギリウス先生の如しなので解説めちゃくちゃ分かるになった。そしてあらすじ知るだけなら漫画でもいいかと思ったけどダンテ達と一緒に歩く読書“体験”が重要だったと思うから「『神曲』のなかを歩みつづけ」るという表現にも共感
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読了 地獄で挫折すること度々だったので、煉獄自体が初めてで新鮮 地獄のクライマックスはサタンですが、煉獄のクライマックスはベアトリーチェ
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ダンテ著、平川祐弘訳『神曲 煉獄篇』河出文庫 読了。地獄めぐりに引き続く、七つの罪を浄化する煉獄山登頂の旅。煉獄の旅も地獄に劣らず厳しいが、罪がひとつずつ消滅するような爽快感があり、山頂には麗しい地上の楽園が待っている。ウェルギリウスとの離別は感慨深かった。天国の旅が待ち遠しい。...
ダンテ著、平川祐弘訳『神曲 煉獄篇』河出文庫 読了。地獄めぐりに引き続く、七つの罪を浄化する煉獄山登頂の旅。煉獄の旅も地獄に劣らず厳しいが、罪がひとつずつ消滅するような爽快感があり、山頂には麗しい地上の楽園が待っている。ウェルギリウスとの離別は感慨深かった。天国の旅が待ち遠しい。 2011/01/19
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2009年1月19日~20日。 面白さからいったら地獄篇の方が上かも知れない。 それでも、これは面白い。 ベアトリーチェってのもかなり自惚れが強い女性だし、ダンテも案外傲慢で情けなくて、甘えん坊。 キリスト教ってのもどうなの? 結局は神の復讐の訳でしょ。 ...
2009年1月19日~20日。 面白さからいったら地獄篇の方が上かも知れない。 それでも、これは面白い。 ベアトリーチェってのもかなり自惚れが強い女性だし、ダンテも案外傲慢で情けなくて、甘えん坊。 キリスト教ってのもどうなの? 結局は神の復讐の訳でしょ。 なんて読み方はやはり邪道だろうか。 訳者の平川氏の功績がやはり大きいと思う。 この作品を盲目的に賛辞するのではなく、きちんと俯瞰してダメなところはダメ、首を傾げるところはおもいきり傾げる。 そして懇切丁寧な注釈。 大抵は注釈なんて斜め読みするんだけど、ここでの注釈は本当に役に立つ。 痒いところにきちんと手が届くのだ。
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※このレビューにはネタバレを含みます
煉獄というのは、天国へ行く前に現世の罪を浄める場所。 これはカトリックだけの教えのようです。 プロテスタントには天国と地獄しかありません。 ここも天国ではありませんから、地獄ほどではありませんが苦しみに悶えながら罪を償っています。 本来罪を犯した人は地獄に行くのではないの? 一度の罪で地獄に落とされ永遠に地獄で苦しみ続けなければならない人と、煉獄でゆっくりゆっくりと罪を浄めて天国へ入れる人のちがいがわかりません。 だたし、どんな理由があろうとも罪を犯すのは結局本人の意思。 “天球は君らの行為に始動は与えるが、 万事がそれで動くのではない。仮にそうだとしても 善悪を知る光や自由意志が君らには与えられている。” 今話題の『沈黙』のテーマにも重なりますが、こんなことも。 “ 至高の神よ、口にするのも畏れ多いが、 神の正義の目はよそを向いておられるのか? それとも神の深謀遠慮は われわれの理解の及ばぬところで こうした禍を福に転じる用意を整えておられるのか?” “普通、正義を心に秘めている人は多いが、射るのは遅い、 議を経ずには矢を弓につがえぬからだ。” 議を経ないでやりたい放題の人、最近多いですね。 一昨年読んだゼイディー・スミスの『ホワイト・ティース』の中に出てきた疑問 “もし自分が神に許され楽園に行けたとしても、自分の足元に数え切れないほどの救われなかった人たちの屍があるとするのなら、それは本当に楽園と言えるのだろうか。” これに対する答えはまだ私の中にない。 天国篇を読んで答えは出るだろうか。 ダンテ以前とダンテ以後で大きく変わったと言われるヨーロッパの文学と美術。 それほどの芸術のきらめきが天国篇では薄れて、宗教色が強くなるらしい。 “詩行が独立して読むだけでは意味が通ぜず、興趣も湧かず、註釈が必要とされるような部分は、詩的作品としては欠陥作品というべきであろう。残念なことにこの種の傾向は煉獄篇末尾から天国篇全体を通じて強まる傾向にある。” と訳者が書いているのを読んで、日本では『神曲』を芸術作品として読んでいたのだと気がつく。 てっきり宗教作品だとばかり…。 だから明治の文豪たちがこぞって絶賛していたのか。今気がつきました。
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