アンナ・カレーニナ(4) の商品レビュー
アンナの最期は壮絶でした。 自殺する人ってあぁいう感じなのかな。 やっぱり後味はあまりよろしくなく。 個人的にはそんなに感情移入できませんでした。 疲れたー。
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まさかアンナが自殺してしまうとは。 そこに至るにあたってのアンナの壊れぶりが凄まじい。ここまで自殺者の心境に迫ったトルストイは、物凄く追い詰められたのではないかと思う。目に映るすべてが「負」としてしか捉えられなくなり、すべてが厭世を引き起こし、自己嫌悪の対象になるアンナ。環境...
まさかアンナが自殺してしまうとは。 そこに至るにあたってのアンナの壊れぶりが凄まじい。ここまで自殺者の心境に迫ったトルストイは、物凄く追い詰められたのではないかと思う。目に映るすべてが「負」としてしか捉えられなくなり、すべてが厭世を引き起こし、自己嫌悪の対象になるアンナ。環境がプロセスを作り上げて結果に至るのではなくて、「自殺」という結果ありきで、そこに至ることを目的にプロセスが意識的にゆがめられていく恐ろしさ。「死が明らかに生き生きと彼女の脳裏に浮かび上がった。死こそ彼の心に自分への愛情をよみがえらせ、彼を罰し、自分の心に住み着いた悪霊との間に行われていた戦いに勝つための、唯一の手段」という文を読んだとき、あぁ…振り切れてしまったな、と思った。私も、こういう心境になったことはある。私が死ぬことで、後悔している人たちを見て思い知らせてやりたい、という自分勝手な願望。自己愛の極地。しかしそれを実行に移すには、死ぬには、自己愛が強すぎてできない、それが「普通」。しかしアンナは違った。「いいえ、おまえなんかに私を苦しめさせてなんかおかないわ」と、自分でもなくヴロンスキーでもない、運命(神ともいえるか)に対して好戦的になってしまう。それほどに、自分の運命を理不尽に思ったのだろう。無理もない。私がもしアンナの立場だったら、自己実現のためにすべてを擲った先に破滅しかなかったとしたら…考えられないほどに恐ろしい状況だ。 対して描かれてきたリョーヴィンが、最後に悟り(?)に至るまでは感動的だった。リョーヴィンは農業の話ばっかりでつまんない男だな、と思ってたけど(笑)、今ではとても好きな人物。彼はいつだって自分に正直なのだ。そこはアンナと同じだとも言える。現に彼は、宗教(キリスト教)と人生というものを考えながら、すべてのしがらみから逃れるには死を選択するしかない、という考えに一度は至ったのだし。それでも彼は生き続けた。それは彼がアンナとは違い、「リアル」を生きていたから。もっといえば、「リアル」からは逃げることができなかったから。アンナは現実を棄て、愛情の物語のなかに没入した結果、理想どおりの結末を得られないことで混乱してしまった。対してリョーヴィンは、どんなに悩んでも、追い詰められても、地主としての仕事を毎日こなし、家族と顔を合わせ、その場その場で生きていかなければならない。大事を成すという理想(アンナでいえば「愛情の物語」のなかに生き続けるという理想)にばかり耽ってはいられなかった。最終的に、リョーヴィンは、宗教と現実の折衝点を「善」に見つけ(性善説?)落ち着いて、この話は幕を閉じる。 解説でも何度も触れられていたが、この小説は、タイトルは「アンナ・カレーニナ」だが、「リアル」な社会に生きるリョーヴィンとの対比をもってこそアンナの物語が活きてくることを考えれば、リョーヴィンの存在意義がとても大きい。ヴロンスキーが社会で泳ぎ始めて男性=「社会人」として活躍し始めたことでアンナとの関係が崩れていったのからもわかるように、男女の思想の差異も引き立てられている。ここでは語りつくせないほど壮大な大河小説だった。 ひとつ、学んだのは、「勘違いの符合」の面白さと恐ろしさ、かな。お互い違う思考体系でもって考えているのに、リアクションが同じであることでなにかピタっとはまるようなある種の幸福な関係になるのだけれども、あくまで思考体系は違うので、そのプロセスの違いが別の事象を前にしたときに浮き彫りになっていく、というのか…うまく言えないんだけれど。同じポイントで笑っても、そのポイントを獲得した背景には違いがある。いかにうまく勘違いし続けられる同士かが、関係を持続させるコツなのかしらん。とか、思った。アンナとヴロンスキーしかり、リョーヴィンとキティしかり、ね。 古典新訳じゃなかったら、この時期に読んでなかったかも。愛・男女について考えることの多いこの半年間に読めたことに感謝。ますますこのレーベルが好きになった。
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2008.11 やはりアンナとヴロンスキーには好感を持てない。幸福→不幸への転落も、あの壮絶なラストも、自業自得としか思えない。特にヴロンスキーは、最初どれだけキティを苦しませたことか。
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