丘の屋敷 3版 の商品レビュー
エレーナは誰かと相対するとき、自分がどう見られているか、相手が何を考えているかを常に意識しながら次の会話や行動を決めている。それは彼女の自意識の強さや不安定な精神状態を表しているわけで、選ばれるべくして"屋敷"に選ばれたんだろうなあという気がした。 女性ばかり...
エレーナは誰かと相対するとき、自分がどう見られているか、相手が何を考えているかを常に意識しながら次の会話や行動を決めている。それは彼女の自意識の強さや不安定な精神状態を表しているわけで、選ばれるべくして"屋敷"に選ばれたんだろうなあという気がした。 女性ばかりが不審な死を遂げていった歴史を持つこの屋敷で起こる不可思議な出来事は、まるで彼女の不安が表出したようでもあり、心の安らぎを覚えていくのは、屋敷と彼女の精神が繋がっていく過程であるようにも思える。 つまりそれは、心を奪われていく恐怖。 おばけが出てきて驚いたり、チェンソーを持った男に追いかけられたり、そういったわかりやすい恐怖とは違った、魅了されることの危うさを男性な筆致で描いている。 ラストの、一瞬だけ正気に戻った彼女はいったい何を感じたのだろう。絶望? 怒り? それとも安らぎだろうか? あの一瞬がとにかく良かった。個人的には安らぎであってほしい。
Posted by
- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
良かった。 幽霊屋敷に調査に行くわけだし、実際怪奇現象もなかなか強烈なのが出たりするけど、この話はそういった単純に霊が怖いというようなホラーではなくて、人間の孤独や狂気のほうがより恐ろしく感じる話だったと思う。 私はそういうところが好きだった。 エレーナの感情の起伏が本当に怖かった。 セオドラのことを愛しく思ったり、疎ましく思ったり、死ぬところがみてみたいと思ったり…。 どんどん様子がおかしくなっていってるのに、本人は楽しい幸せだと感じているところもゾッとした。 母親の介護に生きてきたエレーナの孤独と夢みがちなところはこの屋敷に馴染むものがあったというか、惹き寄せられてしまうところがあったんだろうなと思う。 最後は魅入られたままでいられたら幸せにあのあとも屋敷に取り憑くことができたのかもしれないけど、『なぜわたしはこんなことをしているの?』と正気に戻ってしまったのが哀れだし怖かった。 最後の瞬間エレーナには結局絶望しかなかったのだろうし。 やっぱり屋敷は寂しい心に寄り添ってくれるような優しいものではなく、ただただ邪悪な存在だったんだろうなと。 結局怪奇現象の原因もわからずじまいなところも私は好き。 やばそうな父親や、哀れな姉妹、村娘など、いかにも怪奇現象の原因になってそうな出来事は多く出てくるけど、結局そのうちのどれが原因なのかはぼんやりしたまま。 でもこの話の主軸はそこではないから、わからないままのほうが逆にいいのかなとも思った。 冒頭にあるように、『この世のいかなる生き物も、現実世界の厳しさの中で、つねに正気を保ち続けていくというのは難しい』ということなのかなぁと。 どんなに辛くても現実を真っ直ぐ受け止めて進んでいくしかないんだよなぁ…それはすごく難しいことでもあるけど…。
Posted by
- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
「ずっとお城で暮らしてる」が面白かったのでこちらも読んだ。「ずっとお城〜」の方が個人的には好きだったけど、これも著者の特徴の一つである「全編丸々通して形作られる不安感」みたいなものは現在で面白かった。 主人公エレーナの家族との確執や不仲、罪悪感、孤独感、セオドラへの友愛と嫉妬と憎悪、ルークや博士への不信。繊細に変化するそういう感情がいつの間にか狂気に飲まれている。もちろん決定的な瞬間はあるけど、いつから始まっていたのかは分からない。 解説が親切なのでありがたかったです。ラストもすごく良かった。スティーブン・キングの「シャイニング」にも影響を与えた幽霊屋敷ホラーと古典…らしいですね。もう50年以上前に書かれてるのか… ●あらすじ この屋敷の本質は“邪悪”だとわたしは考えている」心霊学者モンタギュー博士の調査のため、幽霊屋敷と恐れられる〈丘の屋敷〉に招かれた3人の協力者。子供部屋の異様な冷気、血塗れの床、壁に書かれる「エレーナ、うちに、かえりたい」の文字――。次々と怪異が起きる屋敷に、協力者の一人、エレーナは次第に魅了されてゆく。恐怖小説の古典的傑作。(初刊時題名『たたり』を改題) (東京創元社HPより引用)
Posted by
- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
シャーリー・ジャクソン初読。 典型的な古典ホラー。 いわくつきの屋敷に心霊実験をしにきた四人が、怪異に見舞われる。扉が勝手に閉まる、ポルターガイスト、血の文字、幻など。 原型のようなホラー。じわりじわりとした恐怖はあるが、流石に古いか。徐々に乗り移られる恐怖は良かったが。。。 読み終えて思い出したが、凄く小さい頃、映画版を見たなぁと(それこそ四半世紀ほど経つのでホラーだが)。登場人物も少なく、そこまで怖くなく、結構ぐだぐだだったけど。リーアム・ニーソン若かったよなぁ。。。
Posted by
- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
嫌な姉や家から逃げ出して未知のことに挑戦する主人公エレーナを見ていると、囚われの身のお姫様が街に出たような解放感があった。心踊る様子、旅は道中も楽しいことをふと思い出す。 そして屋敷で仲良くなれそうな女友達を得て、まるで何も知らない娘に戻ったみたいな二人の会話が楽しい。交わされるユーモアに私も夢中だった。 こういった妙に浮き立つ心に、現実を再び叩きつけてくるのがとても良かった。 屋敷の閉鎖空間でバランスを失っていく人間模様。一人称と三人称を使い分けたエレーナの心理描写が素晴らしくて何度も読んでしまった。 ホラー的な怖さは少なめだと思ったが、物足りなさは無く、むしろ満ち足りた気持ちで読み終えた。 エレーナの暴走が始まる終盤は一気読みだった。「壁に生き埋めにして。わたしはここにいたいんだから」と言い放ったエレーナにドキッとさせられたが、最期には正気を取り戻しているのが悲しい。やはり自分の意思では無かったのだと。
Posted by
- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
20代の頃にハヤカワ文庫版『山荘綺談』を読んで以来、20年以上この作品の再読を頑なに拒んできたのは、本作が本当に怖いからでなく、堪らなく“厭だった”からだと改めて気付かされた。 “厭だった”のは作品のプロットや雰囲気云々というよりも、孤独感と己の所在なさを抱えて餓える一方で、他者との距離感を巧く取れないが故にそれらを得ることができず、次第に「屋敷」に取り込まれていき、遂には拒絶され破局を迎えるエレーナの姿(彼女の末路は破局ではなく、むしろ安住の場を得たという見方もあるか)が、まるで―『山荘綺談』で初読した当時、色々と足掻いてもがいていた己自身の戯画化を、薄ら笑いしながら見せ付けられたような気分になっていたから……今にして思えばそんなようにも感じたからかもしれない。 当時エレーナやルーク達より若かった自分も、現在はモンタギュー博士に近い年齢になったことで、今回はエレーナの痛々しさにもそこまで心を掻き毟られることなく再読できた気がする(それなりに長く生きて、ホラー小説も散々読んで免疫もかなりついてるだろうしw)。ハヤカワ版の『山荘綺談』はだいぶ前に手放してしまい、生憎手元にはないので訳文の比較は出来ないのだが、旧作の小倉多加志訳に比べ本作の渡辺庸子訳は登場人物、特にエレーナの躁的、ヒステリックさは抑えられ、文体から滲む雰囲気が柔らかくなっている模様。当時の強烈な印象はそれも一因としてあるかもしれない。 本作について複数の方々と語り合う機会が先日あったのだが。この作品を「好き」という方がかなり多く、自分にはちょっとした驚きだった。今回再読了したことで「二度と開きたくない」ほどの拒絶反応はなくなったが、と言ってエンタメ作品、幽霊屋敷小説のマスターピースとして素直に愉しめるか……というと、そこまで気に入ったわけでもない。ただ、傑作と称される理由は理解できた気はする。 ま、自分の嗜好からするとジャクスン作品はどれも“愉しめる”もの(但し「くじ」を除く)ではないのだけれども。
Posted by
- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
1959年作。 シャーリイ・ジャクスンに関してはこないだ短編集『なんでもない一日』を読んで所だが、あれは私にはあまり面白くもなくて、文体もストーリーも様々な部分のセンスも、私には合わない感じだったのだが、この長編は有名でホラーの「古典」とされているそうで、スティーヴン・キングも絶賛しているようだから、読んでみることにした。 結論を言うと、本書はそんなに怖くはない。 こんにちでは、我々は「幽霊屋敷もの」の無数の映画に慣れすぎていて、ちょっとやそっとの怪奇現象が「家」の中で出現しようとも何とも思わないし、いよいよ「出たー!」というときもフウン、という感じだ。せいぜい新味を求めて血しぶきや内臓飛びだしのスプラッタなどで刺激を生み出してきたこの文化も、私たちが刺激に慣れて行くにつれてさほど「恐ろし」くはなくなってしまった。 が、そういった物語の典型的なモデルを作ったものとして、この文化の源流の一つとして、この小説を観察してみた。その構造はやはり、この種の無数の映画の原型を示している。 (1) 怪奇現象が起きるらしい<丘の屋敷>に、モンタギュー博士が3人の若い人物を招待する。事件の発端。 (2)第1章3(P.17〜) 主人公エレーナが、姉との生活から「解放」されて浮かれて<屋敷>に向かう、楽しげなドライブの描写。 怪異が起きる前の平和で明るい背景を物語り、後の部分とのコントラストを形成する、典型的な構成。 (3)第1章5(P.38〜) 屋敷に到着。無愛想極まりない管理人ダドリーの不吉な発言。「あんたはここがいやになる」「おれが門など開けなきゃよかったのにと、きっとあとで後悔する」 続いて第2章1(P.47〜)、 いかにも暗鬱で無気味な<屋敷>の様子の描写。冷たすぎるダドリー夫人。来たるべき<恐怖>の予感。来たことへの後悔。 (4)第2章2(P.53〜) エレーナと共にここで過ごすことになる訪問者が続々と到着。4人のコミュニケーション、和気藹々たる雰囲気。 この辺の呑気さは、まるで、キャンプにやって来た若者たちが楽しそうに戯れる、ジェイソン出現前のお決まりの華やかさのようだ。 (5)第3章4(P.89〜) <屋敷>の由緒、過去の住人や事件についての暗く気味の悪い物語。 「13日の金曜日」などでも、キャンプに来た若者たちがキャンプファイヤーを囲んで怪談めいた話をしていたような気がする。 (7)第3章5以降 屋敷内の探索。「何故か寒い場所」があったり、明けておいたはずの扉が閉まっていたり、幾らかの「兆し」が軽いジャブ程度に入ってくる。破壊力は低い。 (8)第4章6(P.164〜) 本書の真ん中を越えてようやく、最初のハッキリとした怪異。 (9)第5章2(P.192〜) やっと2つめの大きな怪異。部屋が血だらけに。 (10)第7章(P.230〜) 起承転結の「転」か? モンタギュー夫人とアーサー・パーカーといううるさくて邪魔くさい、はた迷惑な人物が到着。その夜に屋敷を激震が襲う。ポルターガイスト的なものか? (11)第9章(P.296〜) クライマックス。何かに乗り移られたかのような主人公エレーナの奇行。 こんな感じで、全体的にホラーとしてはさほど緊迫感がなく、こんにちのホラー常識から言うと「ほとんど何も起こらない」に等しい。それに、4人の人物の会話はまるでアメリカ人のように絶え間ない軽口に溢れかえっていて、これも緊張感をそいでしまう。 現在のホラーファンにとってはこれは頗る物足りない小説だろうが、恐らく逆に、このような「原型」にさまざまな意匠がぶち込まれ、「改良」されていって今日のホラーの定石が固まったのだ、と考えるべきだろう。 文体や色々な点でのセンスが、やはり私にはあまり好きな感じではなかったが、そうした「古典」として本作を受け止めておく。 また、心理的な「恐怖」は実際には、化物の出現よりも、化物が出現するのかも知れないというその「予感」が湧いてくる静かさの方により強く在るのではないかという気がした。「パラノーマル・アクティビティ」(1作目)でも、常設された屋内カメラの映像が何十秒もしーんと静まりかえっていて、いつ何かが起きるか、という予感にはらはらしている時間の方が「怖い」のだ。その意味で、結局は幽霊が姿を現さない本作は、本当は「怖い」のかもしれないとも思う。幽霊は、やはり「存在すること」よりも「存在するかもしれない」という「可能態」の状態の方が怖いかもしれない。
Posted by
おもしろかった。訳も違和感なく読めてとてもよい。エレーナがどんどん取り込まれていく様子がよくわかる。59年の作か〜。
Posted by
この作者の本は初めて読みました。 恐怖小説の傑作とうたわれていましたが 怖くもなかったし 内容も?? 屋敷の設定は悪くはないと思うのですが・・・
Posted by
家に帰りたかったエレーナは何処に帰るのだろう。 古典的ホラーでもありつつ、映画でいうと「ヴァージンスーサイズ」のようなガーリーカルチャーに属する少女小説の側面も強い。 心の居場所を失くした少女の狂気。(エレーナは少女という歳ではないけれど、でも少女だった、迷子の。) 私は恐らく...
家に帰りたかったエレーナは何処に帰るのだろう。 古典的ホラーでもありつつ、映画でいうと「ヴァージンスーサイズ」のようなガーリーカルチャーに属する少女小説の側面も強い。 心の居場所を失くした少女の狂気。(エレーナは少女という歳ではないけれど、でも少女だった、迷子の。) 私は恐らくエレーナに近いタイプの人間で、彼女の気持ちが少しわかる。 人は本当に望むものを手に入れることを、心の何処かで拒んでいることがある。 そういう時、「丘の屋敷」の呼び声に招かれてしまうということも、あるのかもしれない。
Posted by