ポル・ポト の商品レビュー
少し前に読了。 読み終えても、クメール・ルージュやポル・ポトについて実感をもってわかったことが少ない気がした。というのは語弊があって、200ページにわたる注釈にあるように、詳細に、そして執念も感じるほどにポル・ポトを中心としたクメール・ルージュとカンボジアが描かれている。これほど...
少し前に読了。 読み終えても、クメール・ルージュやポル・ポトについて実感をもってわかったことが少ない気がした。というのは語弊があって、200ページにわたる注釈にあるように、詳細に、そして執念も感じるほどにポル・ポトを中心としたクメール・ルージュとカンボジアが描かれている。これほどにこの人物を丹念に追った書籍は他にないのではないだろうかと思う。クメール・ルージュの行ったことは今も世間の関心の的にあって、この当時を扱った研究論文も出されているけれども、それはこの中枢にいた人物たちに関するものではない(現地の人々の営みを数値などで解釈し直したものが多い)。当事者らが軒並み死去していることもあり、今後これ以上明らかになることというのはほとんど出てこないのではないか。 それではなぜこの本を読んでもわかることが少ないかというと、読んだ後に「で、これはなぜ起きてしまったのか?」という呆然とした感じが拭えない感じがしたからかもしれない。これもきっと事実、これもきっとそう、それなのに、なぜこんなことが起きてしまったんだ?ということへの手触りがない。しかしそれを含めて、この出来事の事実なのかもしれない。とまとめてしまうには悲惨なことが起きたわけで、その辺りへのやるせなさの行き場がないように感じる。 わかりやすく理由や結果を知りたい人には不向き、しかしそれも含めて現実らしさがある。わからないということがわかる。 個別の描写では、中国との当時のやり取りや、ベトナムとの関係が興味深かった。当時の国際情勢に興味がある人にもおすすめできるかもしれない。 なお、あとがきに訳者がまとめているように、著者は「なぜ歴史的に類を見ない蛮行が行われたのか」という問いに対し、いくつかの例を挙げて「カンボジア(人)の国民性」によるものだと言い切る。それは冒頭から断続的に言及される。しかしその部分は非常にこじつけのようであるだけでなく、人種や国民という区別によって語ってはならない事柄のように思う。その他の記述は詳細に事実を積み上げて書かれていると思われるだけに、この点はとても残念であった。しかしながら、これだけの大著を書き上げても、この「なぜ」にたどり着くことができなかった時には、推論であっても何かあり得る説明を欲してしまう気持ちもわかる気がした。 注釈は詳細であるだけでなく、そこにつけられたコメントも興味深いものがある。 訳には漢字や年代の間違いが見受けられた。訳者ではなく、編集で確認できた内容と思われる。 なんとなく写影のカバーを外して読んでいたが、本を読んだ結果このポル・ポトの写真の表情が意味するところは大きいのだろうと思い直して、現在はカバーをつけて本棚に並べてある。
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スターリン、ヒトラー、毛沢東、ムッソリーニ、フセイン、金日成といった独裁者達の生い立ちには、貧困、家族との確執、暴力、挫折が付随する。ポル・ポト――サロト・サルは大量虐殺を引き起こしたクメール・ルージュの首魁でありながら、親族が王家に仕える恵まれた出自だった。異色の独裁者の素顔が...
スターリン、ヒトラー、毛沢東、ムッソリーニ、フセイン、金日成といった独裁者達の生い立ちには、貧困、家族との確執、暴力、挫折が付随する。ポル・ポト――サロト・サルは大量虐殺を引き起こしたクメール・ルージュの首魁でありながら、親族が王家に仕える恵まれた出自だった。異色の独裁者の素顔が知りたくて700ページに及ぶ本書に挑戦したが、300ページで挫折した。 本書はポル・ポトを表題にしながら、カンボジア国王の座を追われたシアヌークのをより詳しく描ている。シアヌークをフランス国王ルイ16世になぞらえて批判的に描いているため、違和感を覚えて訳者あとがきを読んでみた。 「本書に対する批判はおおむね二点挙げられている。一つは「大量虐殺(ジェノサイド)という表現をめぐるもの。そしてもう一つは・ポル・ポトたちの行動の原因に関する著者の理論をめぐるものだ。 本書の冒頭部及び最後で、著者はクメール・ルージュの蛮行が大量虐殺(ジェノサイド)ではない、というちょっとわかりにくい理論を展開する。かなりの人がこれに難色を示し、これはクメール・ルージュ擁護ではないか、という批判も出た。 (中略) だが……ポル・ポトたちの行動で最も頭が痛いのは、かれらは殺そうと思って殺したわけじゃない、ということだ。むしろ、真面目に国民のためを考えて、各種法制度を厳しく適用したら死んじゃいました、という実にまぬけな代物だ、ナチスによるユダヤ人殺しは、大虐殺である。ルワンダでの出来事は大虐殺だ。なぜかというと、それはある特定民族や集団「を殺すことが最終目的だからだ。でも……と著者は述べる。クメール・ルージュはちがう。大半は殺そうと思って殺したわけではないもの。食べ物をやらずに働かせたらたまたましんでしまっただけ、拷問しながら尋問したらたまたま死んじゃっただけ。言うことを聞かないやつを折檻したら死んじゃっただけ。秘密を守るためにしかたなく殺しただけ。理想を追求したら死んじゃいました―—要はそういうことだ。 (中略) ナチスが虐殺に有能だったとすれば、ポル・ポトは生かすことに(すさまじく)無能だっただけだ。」 訳者あとがきには、ポル・ポトとクメール・ルージュを擁護する著者への批判が書かれている。さらに、かつてクメール・ルージュの掲げる原始共産主義の理想郷を称えたジャーナリスト本多勝一の所業を紹介している。 著者による本書よりも、訳者によるあとがきのほうが読み応えがあり、大虐殺の功罪を伝えている。★三つは訳者へ捧げたい。 大虐殺は結果であり、動機に善し悪しなど存在しない。
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図書館に無し 糸島図書館に無くて、取り寄せて貰った。 借りたら、メチャクチャ分厚い本で、いきなり読む気が失せた。 何かの本で紹介されていたので借りた。 ざっと目を通すくらいにしておこう。 12章で何と670ページもある。
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現時点で、ということは今後もということだが、ポル・ポトことサルト・サルが引き起こしたクメール・ルージュという大虐殺を知る上で、最重要の一冊は本書だろう。本文700ページに対して、注釈が200ページというのは、本書が徹底的にクメール・ルージュの真相に迫るためのファクトを丹念に集めた...
現時点で、ということは今後もということだが、ポル・ポトことサルト・サルが引き起こしたクメール・ルージュという大虐殺を知る上で、最重要の一冊は本書だろう。本文700ページに対して、注釈が200ページというのは、本書が徹底的にクメール・ルージュの真相に迫るためのファクトを丹念に集めた証跡に他ならない。 本書を読むことで現代に生きる我々が得られるものは何なのだろうか? もちろん、クメール・ルージュという大虐殺がなぜ起こったのかという歴史的な要因を知ることができる、というのはその一つであろう。本書を読めば、決してポル・ポトだけにその責を押し付けるのは明らかに誤っているということが理解できる。政治的に反する対立分子を暴力により消し去ろうとしたのは、カンボジアの国王として実権を握っていたシアヌーク自身であり、その責任は極めて重い。また、ベトナム・ソ連の連合 vs 中国・タイ・アメリカという東西冷戦を背景とした国際パワーバランスの空隙をポル・ポトが突いたのも間違いがない。 とはいえ、ここから何を得るかはもちろん人それぞれだとしても、何か一つの洞察を選択するとすれば、それは「理念なき手段は空疎であるが、それ以上に手段なき理念は悲劇を巻き起こす」ということではないか。ポル・ポト自身の語る言葉を読んでも伝わってくるのは、クメール・ルージュの理念に対して彼ら自身が何ら疑いを持っていないということである。彼らには国家運営において求められる一切の手段(経済政策、外交政策、教育・福祉政策等、すべての政策)は空疎なままであった。そこに毛沢東思想や民族自決といった理想だけが先走った結果、このような事態が巻き起こってしまった。 理念と共にそれを実現する適切な手段を用意すること。言葉にすれば単純であるが、そのバランスが崩れたときに何が起こるかという恐ろしさは、歴史から我々が学ぶべきことである。
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やっと読み終わった。本文686項、注207項もすごい。6800円もすごい。 感想の1は、凡庸であるということ。ジェノサイドということもひとつの政治的な見かたなので、あえて今まで聞かされてきたキリング・フィールド的な描写には力点をおかずに書いているので、スプラッタ的な恐怖ではなく、...
やっと読み終わった。本文686項、注207項もすごい。6800円もすごい。 感想の1は、凡庸であるということ。ジェノサイドということもひとつの政治的な見かたなので、あえて今まで聞かされてきたキリング・フィールド的な描写には力点をおかずに書いているので、スプラッタ的な恐怖ではなく、訳者が適切に表現する如くだ。 「(クメール・ルージュによる自国民殺害は)むしろかなり善意の結果だったりする。現実の裏付けのまったくない善意が、これまた現実の国の運営について何一つ知らないポル・ポトたちの途方も無い無能ぶりと組み合わさった結果としてあれだけの人がまったく無意味に死んだ。でもそれはーこう書くと反発はあるだろうがーある意味で事故でしかなかった。かれら死んだのは、故意によるものですらなく、多くはただの過失の結果だったのだ。」(訳者あとがき、P682) 私はここに個人としてのヒトラーとの共通点を見る。 個人としてのヒトラーは、失敗続きの無能な人で、ダメな男の子が、ダメな若者になって、ダメなおっさんになったという人だ。しかし、そのダメさ加減は、人として共感はできなくとも、怪物にはできない。 ---- しかしやはり、不満も残る。この不満もまた訳者の言うとおりで、問題を社会にするのならば、社会分析が雑すぎないかということだ。特に仏教の説明は、理解が浅すぎるように思う。 しかしなにか、システムのテクニカルな説明がないと、なぜこの場所でこの人達によってこの形でなのかが分からない。 一つの決定的な答えを見つけようとするのは愚かなことだというのは本書の中でも繰り返し述べられている。 一つに帰するつもりではないが、あえて指摘してみたい。 それはやはり、米軍の爆撃ではないかと思う。 P320で著者は「爆撃の激しさがカンボジア人を残忍な行動にはしらせ、そのせいでポル・ポトたちの政権がああいう性質になったと考えるのは間違いだろう」と明確に述べている。しかし私はここに反論したい。 P319で、ベトコンのトルン・ヌ・タン法相の引用としてこう書いている。 「ソビエトの代表団が省庁を訪れている間に、非常に差し迫った空襲警報が発令されたことがあった。負傷者は出なかったものの、代表団の尊厳はひどく傷つけられたー失禁と止まらない震えが、、かれらの内心の動揺を明らかに物語っていた。(中略)B-52のせいで、どういうわけか生き方が整理された(中略)。私にとっても他の人々にとっても、それは一生ついてまわる経験だった。」 著者は「ベトナムでもB-52の爆撃があったがポル・ポトのような政策は取らなかったではないか」という。しかし、残酷ということで言うと、北ベトナムも南ベトナムも米軍も、あの時代のあの地域はみな残酷だ。 もともと人間は憎悪や殺戮に走る傾向がある。しかしそれは同族殺しへの禁忌で抑えこまれている。しかしこれは、テクニカルにストッパーを外すことができる。物理的な距離であったり、組作業であったり、上級者の命令(責任分担)だ。 これは先日読んだ「人殺しの心理学」の趣旨だ。 これは個人レベルから集団レベルでも拡大しうるのではないだろうか。 人々の憎悪を煽って利用する政治家は多くいる。 憎悪の利用の目的はあくまで政治闘争であって、仮に人が死んだとしてもそれは事故だ。文革はこのあたりのように思うし、本書の中のポル・ポトもそう考えているように思う。 その振れ幅が大きくなっても、末端でそのシステムを運用するのは個人なので、一人の中の殺人の禁忌がはたらく。だから常に政治闘争が虐殺を生み出すわけではない。 しかし、個人に直接作用する、無差別な殺人という事実と、失禁や震えといった肉体的な恐怖は、個人の殺人の禁忌というストッパーを外してしまうのではないだろうか。 「事故(で人が死ぬこと)」に対する許容度が大きくなるということだ。 これは、組織と個人とリーダーと規則といった「システム」を、暴走させるスイッチになるのではないかと思った。 そしてそのスイッチとなるのは、やはり爆撃なのではないかと思う。
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