翻訳語成立事情 の商品レビュー
柳父章著『翻訳語成立事情(岩波新書)』(岩波書店) 1982.4発行 2020.6.22読了 本書は、福田眞人の論文「明治翻訳語のおもしろさ」に参考文献として取り上げられていたものである。1982年に刊行されたものだが、今代の時節にふさわしい示唆に富む内容であった。 本書で...
柳父章著『翻訳語成立事情(岩波新書)』(岩波書店) 1982.4発行 2020.6.22読了 本書は、福田眞人の論文「明治翻訳語のおもしろさ」に参考文献として取り上げられていたものである。1982年に刊行されたものだが、今代の時節にふさわしい示唆に富む内容であった。 本書では「社会」「個人」「美」「恋愛」「権利」「自由」「彼、彼女」などの翻訳語を項目ごとに章立てして解説している。「字源は考慮しない」とし、当時の辞書や福沢諭吉などの知識人が文脈の中でどう訳していたのか、日本語の中でどういう意味合いを込めてその語を用いていたのか、を中心に詳しく解説している。 例えば、「個人」という翻訳語は、英語の individual のことである。古くは、ロバート・モリソンの「英華字典」(1822年)(英語→中国語)で「単、独、単一個」と訳されており、メドハーストの「英華字典」(1847-48年)では「独一個人」などと訳されている。ところが、わが国において individual は、幕末-明治初期の頃、「ひとり」と訳されることが多かった。多くの翻訳を手がけた福沢諭吉はこれを「人」と訳した。しかし、これでは、individual に含まれている、神に対してひとりでいる人間、社会に対して窮極的な単位としてひとりでいる人間という思想が表現できていない。individual は person のような中和された言葉ではなかったのだ。福沢諭吉は苦心の末、結局「独一個人」という明治以前の訳語(それも英→中)に屈した。日本語にない思想を日本語で表そうとするとき、こうした硬い和製漢語が苦肉の策として求められたのであった。 翻って、個人という言葉に違和感を覚えなくなった現在、私たちは「個人」を正しく理解できているだろうか。答えは否だろう。憲法13条は「すべて国民は、個人として尊重される」と記載されている。英訳は、All of the people shall be respected as individuals だ。自民党改正案では「すべて国民は人として尊重される」となっていて、「個」という文字が抜けている。たかだか一文字と思うかもしれないが、英訳すると、All of the people shall be respected as persons で individual の思想が完全に抜け落ちてしまっている。人はただ人として取り扱うと述べているにすぎない。「日本語になってしまった翻訳語を再確認すべき時代が来ている」と警戒した方がいいだろう。 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001556492
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興味深い内容だったのだけど、今の私の読解力では時々理解が出来ないところがあって、そんな自分に残念であった。しかし、日本語に含まれる「意味」の多さよ!裏と表の顔よ!こんなにもあるのか、と発見出来たことは良かった。そして、相手が伝えたい意味と私が受け止める意味は違うかもしれない、と分...
興味深い内容だったのだけど、今の私の読解力では時々理解が出来ないところがあって、そんな自分に残念であった。しかし、日本語に含まれる「意味」の多さよ!裏と表の顔よ!こんなにもあるのか、と発見出来たことは良かった。そして、相手が伝えたい意味と私が受け止める意味は違うかもしれない、と分かったことは、私の気持ちを軽くさせてくれた。
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「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼、彼女」という幕末から明治期に生まれた翻訳語が、なぜそう訳されることになったのか、実際の意味がどのように歪み、分かりにくさや矛盾を孕んだまま急速に受け入れられ広まっていくこととなったのか、という点について...
「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼、彼女」という幕末から明治期に生まれた翻訳語が、なぜそう訳されることになったのか、実際の意味がどのように歪み、分かりにくさや矛盾を孕んだまま急速に受け入れられ広まっていくこととなったのか、という点について述べている。 訳語そのものの成立の歴史もさることながら、結局今の我々がどういう意識でその言葉を使っているのか、ということに目を向けさせる点が、ドキッとしてします。例えば、「今日、私たちがsocietyを『社会』と訳すときは、その意味についてあまり考えないでも、いわばことばの意味をこの翻訳語に委ね、訳者は、意味についての責任を免除されたように使ってしまうことができる。」(p.8)ということで、実は「社会」と訳したところでそれが何なのかはよくわかっていないでしょ、という指摘。「そして、ことばは、いったんつくり出されると、意味の乏しいことばとしては扱われない。意味は、当然そこにあるはずであるかのごとく扱われる。使っている当人はよく分らなくても、ことばじたいが深遠な意味を本来持っているかのごとくみなされる。分らないから、かえって乱用される。文脈の中に置かれたこういうことばは、他のことばとの具体的な脈略が欠けていても、抽象的な脈略のままで使用されるのである。」(p.22)ということになってしまっている。individualの訳語についても、「独一個人」という翻訳語を作り、「むずかしそうな漢字には、よくは分らないが、何か重要な意味があるのだ、と読者の側でもまた受け取ってくれる」(p.36)という漢字の効果=「カセット効果」についての指摘が多い。「それはあたかも思考の困難を解決するかのごとく現れている。この未知のことばに、それから先は預ける。(略)ことばは正しい、誤っているのは現実の方だ、というところで、一見、問題は解決したかのごとき形をとる。それは、以後今日に至るまで、私たちの国の知識人たちの思考方法を支配してきた翻訳的演繹論理の思考であった。」(p.40)ということらしい。でも今の世の中なんて翻訳すらしないで、シームレスとかトレーサビリティとか言って、それこそカタカナ語のカセット効果、の方が著しい気がする。というかもはや考えることすらも放棄した結果、ということになるのだろうか?あるいは原語は原語のままで理解すべき、ということなのだろうか?いずれにせよ、漢字もカタカナ語も、つまり外国のものには多かれ少なかれカセット効果があるのか、と思う。「ことばが先にあって、その日常的意味をもとにして、『哲学者及審美学者』は、これをつごうによって抽象し、限定して使うのである。しかし、この限定された意味、翻訳語として受け止め、従って、完成された意味として受け取ることの多い日本では、この順序はとかく逆転して理解されがちである。」(p.78)というのが日本人の傾向、ということなのだそうだ。「一般に、どんな翻訳語が選ばれ、残っていくのか、という問に答えることはやさしくない。しかし、およそ、文字の意味から考えて、もっとも適切なことばが残るわけではない、ということは言えるであろう。」(p.186)なので、英文を訳していて意味が分からない時はその定訳自体が変なんじゃないか、ということは大いにありそうだ。最後にビックリすることは、heと「彼」の話で、「第一に、heは三人称代名詞だが、『彼』はもともと指示代名詞である。日本語には、三人称代名詞はなかったし、今日でも、実はないと言った方がよい、と私は考える。このことは私たち日本人にとって、とくに外国語教育を十分受けた人ほど、以外に分りにくいようである。」(p.197)という部分。英語のheは、すでに言及された人物のことを言う、日本語の「彼」は3人称ではなく「遠称」、つまり「発言者と聞き手から外の、遠くのものを指す」(p.197)、つまり「初めてみたものを指して『アレ』とか『彼』とは言えるが、heとは言えないのが原則である。」(p.198)という、こんな簡単な事実も、(英語の先生がやることで、スライドで人物を見せたら、まずはThis is...とやらないといけないところを、いきなりHe is...とやってしまう、というのはよく聞く話なので、そこから考えれば良かったことなのだけれど)考えたことなかったなあと思い、でもこの違いを意識することが外国語を知る面白さだよなあとも思った。 ただ全体としては英語が云々というよりは、日本の知識人がどう考えたか、という話なので、言葉自体よりは当時の思想的な背景を勉強する本。(22/10)
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昔の新書はこうだったよね、ということを思い出させてくれる良書。近年の内容ペラッペラの新書とは質が違う。 明治期に創作された新造語の作成秘話的な内容かと思っていたが、本旨はもっと深い所にある。日本とは全く異なる価値観を持つ外来の思想を、古来の日本語にある言葉で置き換える事の難しさに...
昔の新書はこうだったよね、ということを思い出させてくれる良書。近年の内容ペラッペラの新書とは質が違う。 明治期に創作された新造語の作成秘話的な内容かと思っていたが、本旨はもっと深い所にある。日本とは全く異なる価値観を持つ外来の思想を、古来の日本語にある言葉で置き換える事の難しさに焦点を当てている。言われればそうだなと思うが、ヤマトコトバの語彙は非常に限られていたから、日本人は奈良時代から脈々と外国の言葉=思想を自分のものにするために奮闘してきた民族である。その中には『自由』や『権利』などのように、原語とは異なる意味で広まったものもあったが、人口への膾炙に従い本来の意味を取り戻すというプロセスを繰り返してきたのだろう。今でも似たようなことが続いていると思われる。例えば日本語の『セレブ』は金持ちの含意で使われるが、英語のcelebrity は単に著名人であって保有する資産の大きさは関係ない。これも次第に本来の意味が理解されて行くのかも知れない。その前に死後になっていく可能性の方が高いが。
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社会・個人・近代・美・恋愛・存在・自然・権利・自由・彼といった学問・思想の基本用語は、実は幕末から明治にかけて翻訳のためにつくられた新造語である。これら10個の翻訳語が、どのような背景で作られ、どのように受け入れられていったのか、当時の文献内での用例を引きながら検証している。 知...
社会・個人・近代・美・恋愛・存在・自然・権利・自由・彼といった学問・思想の基本用語は、実は幕末から明治にかけて翻訳のためにつくられた新造語である。これら10個の翻訳語が、どのような背景で作られ、どのように受け入れられていったのか、当時の文献内での用例を引きながら検証している。 知識人の一部によって翻訳語が考案されるのであるが、元の言語での意味が正確に分からなくても、その翻訳語は広まっていったようである。とりあえず難しそうな漢字が当てられていれば、何か深遠な意味が含まれているんだろうという雰囲気とともに乱用された。 よく分からない漢字に深遠が意味が含まれていそうに感じることを、著者は「カセット効果」と呼び、本書を通じて翻訳語の普及に大きな影響を及ぼしたと考えている。 そのカセット効果とともに、ミーム的に乱用されることによって翻訳語が一般にまで広まっていったのだろう。現代におけるカタカナ語にも共通するものがあると思う。 また、最後の方で触れられているが、漢語的な翻訳語を採用したことによる学問語と日常語の分断という点には今まで意識したことがなかったが大きな意味があるように思う。哲学などとっつきにくそうな学問の術語がすべてやまとことばなどの日常語で作られていたらどうなっていただろう。 ところで、この翻訳語はいつごろから使われ始めた、この時代に使用例が増え始める、のような類の主張をする際にその裏にはその何十倍か何百倍かの原文にあたる必要があるので、どれだけ調査が大変だったのだろうかと思う。 ただ、ほとんどが明治時代の文章の引用なので、非常によみにくい。 「である」が翻訳用の表現としてつくられたというのは驚いた。 また、日本語はよく主語の省略可能と言ったりするが、それは主語があることを前提としてそこから省略するという考え方だが、そもそも日本語は「必要な場合以外は主語を表さない」という見方は目から鱗が落ちる思いだった。確かにその味方のほうが筋が通ると思う。
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日本の学問・思想の基本用語が幕末・維新期にどのような試行錯誤の末に定着したのかを10の事例から紹介したもの。前半の6つが、社会、個人といった翻訳のために造られた新造語。後半の4つが自然、自由などそれまでの日本語にも日常語としてあった言葉に、さらに翻訳語としての意味が加わったもの。...
日本の学問・思想の基本用語が幕末・維新期にどのような試行錯誤の末に定着したのかを10の事例から紹介したもの。前半の6つが、社会、個人といった翻訳のために造られた新造語。後半の4つが自然、自由などそれまでの日本語にも日常語としてあった言葉に、さらに翻訳語としての意味が加わったもの。個人的には後半の方が面白かった。旧来の日常的な意味に新たな意味が加わったことによる混乱や、それが今にも引き継がれていることが分かる。
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開化から約150年経って、今、日本には「社会」「自由」「権利」「美」は「存在」するようになったのだろうか?「彼」の国からやってきた、未だ手の届かない理想のタブローにはなっていないだろうか?(あるいは、ないものねだりに飽きて居直っている?) 鷲田清一先生『〈ひと〉の現象学』からの...
開化から約150年経って、今、日本には「社会」「自由」「権利」「美」は「存在」するようになったのだろうか?「彼」の国からやってきた、未だ手の届かない理想のタブローにはなっていないだろうか?(あるいは、ないものねだりに飽きて居直っている?) 鷲田清一先生『〈ひと〉の現象学』からの芋づる読書。哲学用語をしつこく原語で表記するのは何故なんだろうという疑問が氷塊した。要は、そもそもの最初からズレて使ってしまっているからなんだな、と。フランスやドイツ、イギリスから輸入した哲学用語を日本語に翻訳する必要に迫られた時、それまで日本で使われていた言葉には置き換えられない言葉がたくさんあった。言葉がない、ということは、それに相当する現実もない、ということだったから、手持ちの中から近いものを使うか、新しく作らなければならない。けれど、元ある意味を洗い落とすこともできないから受け取り方にも使い方にもどうしたって混乱が生じるし、新しく作った言葉の意味なんか誰もちゃんと腑には落ちてないから、意味を置き去りにした乱用が生じる。どちらにしろ、日本語を使った西洋哲学の理解には限界がある、という話。じゃあ、やらなくていいかというとそういうわけにもいかないので、ズレているんだ、それはたぶんこういうズレなんだ、という前提に立って、よりよく理解できるように膝詰めで対話する、っていうのが建設的かと。少なくとも、知ったかぶりしたり、孤高を気取ったり、冷笑的になったり、卑屈になったりするよりかは大人な態度なんじゃないだろうか。 そして、日本語を使って学問をしていく以上、本書に書いてある問題に無関心ではいられないだろうと思うので、少なくとも、哲学、文学、史学あたりをやりたい人は読んでおいた方がいいだろう。 三島文学の批評(「美」のトリック)、田山花袋の批評(「彼」という余計な翻訳語)としても面白い。 にしても、学問や文芸における福沢諭吉、森鴎外の功績の大きさに驚く。彼らの苦闘あっての、日本語で学べる日本なのだな、と。
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翻訳語をめぐる問題に取り組んできた著者が、明治以降の西洋文明の受容によって成立し、あるいは意味の変容がおこなわれた10のことばについて考察をおこなっている本です。 とりあげられていることばは、「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼、彼女」で、...
翻訳語をめぐる問題に取り組んできた著者が、明治以降の西洋文明の受容によって成立し、あるいは意味の変容がおこなわれた10のことばについて考察をおこなっている本です。 とりあげられていることばは、「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼、彼女」で、「社会」や「権利」のようにそれまでの日本に存在しない西洋由来の概念を日本語に移し替える努力をした人びとの仕事に焦点があてられるとともに、それらの外来語が広くつかわれていくなかで、どのような効果を発揮したのかということについて論じられています。 著者は、こうした外来語が「中身が何かは分らなくても、人を魅惑し、惹きつける」効果をもつことを指摘し、それを「カセット効果」と呼んでいます。ただし著者は、そうした効果をもつ外来語が、日本に十全に定着していないといって単純に批判するのではなく、より広い観点から西洋文明の受容プロセスにおいてこれらのことばが果たしてきた意義を考察するというスタンスに立っています。
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【図書館本】面白かった。多和田葉子さんのエッセイ読んで、そこからの出会い。言葉のもつイメージが人それぞれ。ただの記号という見方もできるけど、言霊を信じるものとして、魂のようなもの感じる。近代、個人、社会、美あたりがじっくり読んだ。
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社会・個人・美といった新しい概念が、それぞれ翻訳されるまでの経緯が具体的で読ませる。特にLoveが「恋愛」と翻訳された理由はLoveが精神的で高尚なもので、日本語の「恋」が通俗的・不潔なものというのにはびっくり仰天させられた。また万葉集の「恋」はすべて肉体関係のあとのことというの...
社会・個人・美といった新しい概念が、それぞれ翻訳されるまでの経緯が具体的で読ませる。特にLoveが「恋愛」と翻訳された理由はLoveが精神的で高尚なもので、日本語の「恋」が通俗的・不潔なものというのにはびっくり仰天させられた。また万葉集の「恋」はすべて肉体関係のあとのことというのにも驚いた。またBeautiful「美」の概念も翻訳語のあとに成立したというのも刺激的だった。例として芭蕉の紀行文などの文章にも「美」という言葉がないということなど、これらについては、もう少し調べてみる必要を感じた。
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