啓蒙の弁証法 の商品レビュー
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p.5 重要なのは、人間によって真理と呼ばれる満足感ではなく、「操作」であり、役にたつ働きである。「もっともらしく面白く、立派でためになるお話や何か明晰な確証めいたものではなく、生活面での設備や便宜を改善するための活動や労働、これまで知られてなかった個々のものの発見のうちに」「学問の真の目的と職務」がある。 p.268 国民大衆が当てにしているのは本来の利得は、自分の憤怒を集団によって聖化してもらうことである。それ以外に得るものが少なければ少ないほど、一層頑なに、人はより正しい認識に逆らって大衆運動に加担するようになる。
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国分の暇の倫理学の本での推薦本である。啓蒙と対比にある神話を出して啓蒙を説明している。さらにユダヤとナチスの関係まで説明していた。文化産業と啓蒙については、メディア関係があるのかもしれないが、わかりやすいとは言えない本のような気がする。
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備忘録 佐藤優 文化エリート重視、 啓蒙的な理性が発展して行くにもかかわらず なぜナチズムが生まれてきたのか
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古書店にて3年以上前に購入。アドルノ単著の『否定弁証法』だけ知っていたが、ホルクハイマーに至ってはその名前すら知らず。当時のアメリカ大衆文化や反ユダヤ主義といった紋切り型はさて措き、ヘーゲルすらろくに読んでないのに、いきなりこれというのも我ながら無理がある。それでもⅡのセイレーン...
古書店にて3年以上前に購入。アドルノ単著の『否定弁証法』だけ知っていたが、ホルクハイマーに至ってはその名前すら知らず。当時のアメリカ大衆文化や反ユダヤ主義といった紋切り型はさて措き、ヘーゲルすらろくに読んでないのに、いきなりこれというのも我ながら無理がある。それでもⅡのセイレーンの件(のび太の魔界大冒険!)や「誰でもない者(ウーディス)」に関する考察は知的興奮を覚えたし、Ⅵは宛ら20世紀版ニーチェといった趣。そしてⅢの最終頁は、全文引用したくなるほどに感動的なサド及びニーチェへの賛美となっている。
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真の人間的状態に踏み入るためには、新たな野蛮を伴う可能性を示唆している。 近代が追い求めたものの帰結は様々ある。そして、その中で野蛮なものもきりがなく挙げられる。神を殺したのはニーチェかもしれないが、理性を殺しにかかったのはアドルノたちだ。
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序文と第Ⅰ章「啓蒙の概念」のみ読んだ。原文もそうなのか訳文がそうなのかわからないが、一文一文に内容がつめこまれており、意味を理解するのに時間がかかる。言わんとすることはわからなくないが、筋の追いにくい部分も多々あり疲れた。フランクフルト学派の雰囲気に触れた気分にはなれた。
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[ 内容 ] フランクフルト学派の名著。 亡命先のアメリカで書かれた。 西欧文明の根本的自己批判として名高い。 “啓蒙”の光と闇を理論的軸にオデュッセイア論・サド論で具体的に神話の寓意や道徳の根拠を検証。 米国大衆文化や反ユダヤ主義批判によって近代の傷口を暴き現代の課題を示す。 [ 目次 ] 1 啓蒙の概念 2 オデュッセウスあるいは神話と啓蒙 3 ジュリエットあるいは啓蒙と道徳 4 文化産業―大衆欺瞞としての啓蒙 5 反ユダヤ主義の諸要素―啓蒙の限界 6 手記と草案 [ 問題提起 ] [ 結論 ] [ コメント ] [ 読了した日 ]
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1944年刊、ナチスからアメリカに亡命したホルクハイマーとアドルノの著作であり、基本的に人類を恐怖から解放するはずだった「啓蒙」の非人間性を指摘した本であり、「なぜに人類は真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新たな野蛮状態へ落ち込んでいくのか」という問題を扱っている。「崩壊史観」と言われるだけあって、その内容は陰鬱で救いはあまり扱われていない。第一章「啓蒙の概念」は総論であり、自然を支配しようとしてきた「理性」の展開としての「啓蒙」が人間を「操作の対象」として非人間化したことを論じている。第二章「オデュセウスあるいは神話と啓蒙」には、遠くホメロスの描くオデュセウスにすでに近代的市民の原型をみて、巨人やセイレーンなどの「自然」をオデュセウスが狡知をつかって、征服していると解釈している。第三章「ジュリエットあるは啓蒙と道徳」は、カントの厳格な倫理思想と、サド『悪徳の栄え』にでてくる犯罪の天才ジュリエットが、両者とも理性的に自然を支配し、キリスト教などの伝統を破壊する点では同じであったことを指摘している。第四章「文化産業」はアメリカの映画産業やナチのラジオ利用などが人間を対象化している様子をのべている。ナチから亡命してきたホルクハイマーらが、陣営を越えて現代社会を批判したものである。メディアを様式・娯楽・アイドル・カリスマなどの視点から分析している。第五章は「反ユダヤ主義の諸要素」であり、ファシズムのユダヤ人虐殺、民衆運動、指導者、労働観、民族主義、投影作用、自由主義などの観点から分析されている。第六章は「手記と草案」、三十程度の断章をあつめたものであり、肉体観・犯罪・動物観・女性観などが考察されている。全体的に理論的な話が多く、調査や証明などが行われているわけではないので、ほんとうに現代人がこのように芯から経済的・産業的な存在になりきってしまい、権力に操作されるだけの存在なのかという問題は残るだろう。だが、全体主義が悪辣に人間性を利用し、また産業的な人間がそうした全体主義に無力であったこと、そして、理想であった「啓蒙の歴史」全体が人間から人間性をうばっている内容はよく分かるものである。この問題は、IT礼賛の現代にも該当し、示唆に富む。アレントの『人間の条件』も読みにくいが、この本よりは議論の見通しはよいと感じた。
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フランクフルト学派の礎となった一冊。そういわれているものの、読んでみるとポスト構造主義との共通性もかなり強く感じられる。近代の理性というものに理性の立場からもっとも激しい批判を加えた論考である。 一回通読しただけの浅はかな理解でまとめると、啓蒙された言葉は体系を織り成して自然と...
フランクフルト学派の礎となった一冊。そういわれているものの、読んでみるとポスト構造主義との共通性もかなり強く感じられる。近代の理性というものに理性の立場からもっとも激しい批判を加えた論考である。 一回通読しただけの浅はかな理解でまとめると、啓蒙された言葉は体系を織り成して自然と共に人間を客体化し、抑圧された自然的欲望は大衆文化の中で計画的に排出され、経験のない人々は偽りの常識に支配され、支配者の下で人々はパラノイア的な社会の中で没個性的な目的のための目的に向かう機械と化す、というような内容。 徹底的に批判される理性、啓蒙された言葉。それらが自らの中立性故に支配者に利用されたり人間の自然性、生きる意味すら奪ってしまったり、社会を無機的なシステムとしてしまったり……しかしだからといって抑圧され鬱屈した自然の方へまた戻っていくことはより絶望的な結果を——暴力、死という——生みだしてしまう……全文読み終わって、出口なし、が感想だったが、訳者後書きで、徹底的理性批判が理性によって行われているところを指摘され、膝を打った。つまり、理性を徹底的に批判しているからこそ、それが可能だからこそ、まだ理性に賭けることが——もちろんそれは深遠なるペシミズムの上でだが——許されるという面もあるのだ。そこが非理性に逃げてしまわないH/Aの真摯さであろう。 とにかく、世界の戦後思想のエッセンスがすべて詰まったような一冊で、何度も繰り返し読みたい。
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「暇と退屈の倫理学」に出てきた本。 ホルクハイマーよりはアドルノのほうが本にはよく出てきましたが。 アドルノは「結局それはルサンチマンで言ってるんじゃね?」って言いたかったらしい。
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