啓蒙の弁証法 の商品レビュー
今日の消費社会では供給に先立って、いわばア・プリオリに買い手の需要というものが存在するということは幻想であるということが明らかになっている。マスメディア・映画・ラジオ・大企業から与えられるイメージ、観念の洪水に溺れることによって消費されられているのだ。いかに消費者の買いたいとい...
今日の消費社会では供給に先立って、いわばア・プリオリに買い手の需要というものが存在するということは幻想であるということが明らかになっている。マスメディア・映画・ラジオ・大企業から与えられるイメージ、観念の洪水に溺れることによって消費されられているのだ。いかに消費者の買いたいという欲望を喚起させるかということが根本的な企業の問題である。そこには反省というものが遊離していく罠が潜んでいる。
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フランクフルト学派の代表的な名著とされる、第2次大戦下に書かれたホルクハイマーとアドルノの共著。 ここで言う「啓蒙」とは、ロックなどの啓蒙主義とか啓蒙運動とかのことではなく、もっとうんと広く、「文明」や「理性/科学的思考」を意味しているようだ。 「自然と人間とを完全に支配するため...
フランクフルト学派の代表的な名著とされる、第2次大戦下に書かれたホルクハイマーとアドルノの共著。 ここで言う「啓蒙」とは、ロックなどの啓蒙主義とか啓蒙運動とかのことではなく、もっとうんと広く、「文明」や「理性/科学的思考」を意味しているようだ。 「自然と人間とを完全に支配するために自然を利用すること」としての「啓蒙」が、やがて消費社会において空虚な文化をもたらすという批判的視点で、「それではどうしたらよいのか」という問いには一切答えようとしていない。絶望的な批判の書である。 自然に支配されるように見せかけて巧妙にあざむく冒険談としての、ホメロス『オデュッセイア』論や、徹底的に他者を支配する近代人の欲望をえがいたマルキ・ド・サド論もなかなか面白かったが、白眉はやはり「文化産業」の章である。 ここで広告等をめぐっててんかいされるさまざまの分析は、こんにちのメディア社会にもそのまま通じるものであり、多くの示唆を含む。 この本はただでさえ難解なのに、ちょうど自分の仕事が忙しく、おまけに作曲も煮詰まっていたころに読んだため、間をあけながらほんの少しずつ読むことになってしまった。だからちょっと全体的な論旨の流れを掴みにくかったのだが、細かく読んでいくと実にたくさんの刺激に満ちた、思考の宝庫のような書物だと感じた。 このような優れた本は、もっと余裕のあるときに、ふたたびひもといてみたいと思っている。
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何度読んでも、難しいところがあるのですが、「啓蒙が神話となる」という時に、啓蒙もまた神話が孕む暴力性を身に纏い、「進歩が野蛮へ頽落する」という状況を考えていたのだと思います。 ナチスによって祖国を追われたアドルノの米国亡命時代に書かれており、ナチス政権が合法的に政権奪取したこと...
何度読んでも、難しいところがあるのですが、「啓蒙が神話となる」という時に、啓蒙もまた神話が孕む暴力性を身に纏い、「進歩が野蛮へ頽落する」という状況を考えていたのだと思います。 ナチスによって祖国を追われたアドルノの米国亡命時代に書かれており、ナチス政権が合法的に政権奪取したことを踏まえながら考えると、何だかアドルノの書いていることの重さが分かってくるような気もします。
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・・・・・・人生とは一人の歴史の統一にほかならないが、その人生という概念そのものが、ほとんど空しいものになってしまったといえよう。一人一人の生は、かろうじてその反対物である死によって定義されるだけで、意識的な記憶のつらなりや忘れようとしても忘れられない追憶の一致といったものは、す...
・・・・・・人生とは一人の歴史の統一にほかならないが、その人生という概念そのものが、ほとんど空しいものになってしまったといえよう。一人一人の生は、かろうじてその反対物である死によって定義されるだけで、意識的な記憶のつらなりや忘れようとしても忘れられない追憶の一致といったものは、すべて失われてしまった。 いまなお「進歩」であり「豊かさ」であると信じられているものが、じつは奇妙なことに「進歩」でも「豊かさ」でもない二十世紀の逆説。「進歩」も「豊かさ」も、いってしまえば、しばしば、ただ経験としての人生の否定であるにすぎないのだ。-『読書のデモクラシー/長田弘』
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近代という時代を生きる我々は 是非一度この書を読破する必要がある。 ボードリヤールなんて読んでる場合じゃないぞ
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