やかまし村はいつもにぎやか の商品レビュー
たった6.5人の子供たちが、たった3軒だけの村で、 毎日毎日いろいろな事を体験し、楽しい遊びを思いつく。 楽しくないことも“ごっこ遊び”に変えてしまう。 お弁当を持ってボートに乗り、岩場まで冒険したかと思えば、小さな子のお世話にクタクタになったり、お祭りの準備をみんなでしたり、楽...
たった6.5人の子供たちが、たった3軒だけの村で、 毎日毎日いろいろな事を体験し、楽しい遊びを思いつく。 楽しくないことも“ごっこ遊び”に変えてしまう。 お弁当を持ってボートに乗り、岩場まで冒険したかと思えば、小さな子のお世話にクタクタになったり、お祭りの準備をみんなでしたり、楽しいことしかない“やかまし村”。 3冊読んできて、すっかり虜になりました。 このお話を遺してくれたリンドグレーンに感謝したいです。 解説にあった作家の長谷川摂子さんの言葉がとても残りました。 遊びは社会とは直接関係ないものであっても、活発な動きや想像力が生命の火を心と体に広げてくれる。 「遊べば遊ぶほど、生命の火のぬくもりが全身をかけめぐり、楽しいな、おもしろいな、という感情が心の底から突き上げてくるのです。」 大人になってからの活力は、子供時代にどれだけ遊んで想像力を養ったか、友達とケンカしたり仲直りしたりして、相手を思いやる気持ちを理解できるか、それがどんなに大切なことであるかを、リンドグレーンに教わりました。 もう子供ではないけど、この本に出会えたことを幸せに感じています。
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読了。 やかまし村シリーズが終わってしまった…。自然豊かで、人も温かで、本当に素敵な世界。個人的にサクランボ会社のお話がいちばん好きです。子供時代にこれを読めたことは幸福です。
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『やかまし村』シリーズ3作目。 1952年の作品。 冬に読んでしまったけれど、リーサとアンナが「春の場所」をもっているとか、「夏至の柱」を立てる話とか、サクランボ会社とか、ザリガニとりとか、おもに春から夏の出来事がつづられている。 あいかわらず大きな事件は起こらないけれど、「...
『やかまし村』シリーズ3作目。 1952年の作品。 冬に読んでしまったけれど、リーサとアンナが「春の場所」をもっているとか、「夏至の柱」を立てる話とか、サクランボ会社とか、ザリガニとりとか、おもに春から夏の出来事がつづられている。 あいかわらず大きな事件は起こらないけれど、「やかまし村は、いつでもたのしいんです。」 1章で観光にやってきた人が言う「やかまし村はたいくつで、つまらないかもしれませんね」に対する答えが、最終章の「やかまし村にすんでない人は、きのどくだとおもうわ」。 この全肯定よ! 解説で長谷川摂子(『めっきらもっきらどおんどん』の作者ですね)が書いているように、ザリガニとりのキャンプの場面では私も泣きそうになりました。 「真実、楽しかった、という思い出があってこそ、人生を肯定してしっかり生きていける」と長谷川摂子は書いていますが、この「真実、楽しかった思い出」が『やかまし村』にはあるから、楽しいのに泣きたくなるのかなあ。 すばらしい挿し絵はイロン・ヴィーグランド。訳者・大塚勇三によると、合本版の挿し絵がみごとだったのでそちらのを採用したとのこと。ふてくされてるリーサとか、かわいくない感じが絶妙にいいんだよな。 以下、引用。 10 こんな高くにあるおかげで、やかまし村からのながめは、じつにすてきです。といっても、あたりに見えるのは、ほとんど、ひろいひろい森ばかりです。でも、ひろいひろい森のながめはうつくしい、とおもうひとはたくさんいますし、そのひとたちは、ここらに森をながめにくるんです。 50 「あなたたちが、学校からかえるとき、学校にいくときの倍以上も時間がかかるのは、なぜなのかしら?」 52 「六人がかりで氷砂糖の味をみたら、おじいさんには、袋しかのこらなくなるわ。」 69 わたしは、歯っていうものは、いつだって、一本はぐらぐらしてるんだとおもいます。 87 アンナとわたしは、洗濯小屋のかげに、とくべつな場所をもっています。そこには、最初のユキワリソウがはえるのです。 アンナとわたしは、春の場所を、ほかにもひとつもっています。 ウワミズザクラの花がさいて、日がかがやき、水がまわりをざわざわながれていくときは、春にいる場所としてはじつにいいところだ、とわたしはおもいます。 94 このカエルが、ぜったいに魔法にかかった王子じゃないなんて、いえるかしら? 魔法にかけられた王子たちがいたころだって、王子さまではない、ふつうのカエルもいたことでしょう。そうとすれば、みんながふつうのカエルだとおもいこんでたばっかりに、魔法にかかったまんま、ほったらかしにされた王子さまもいたでしょう。 159 ええ、まい年、サクランボのなるころ、わたしたちは、ちょっとおなかをいたくします。でも、そのあとは、スモモの実がうれるころまでは、おなかをいたくしません。 211 あたりがくらくなると、おとうさんは、いつもやるとおり、たいらな岩の上でたき火をたいたのです。みんなは、たき火をかこんですわりこみ、魔法びんからあついココアをついでのみ、サンドイッチもたべました。 217 ブリッタとアンナは、わたしよりずっとさきにねたとおもいます。わたしは、ながいこと目をさましていて、森がザワザワいうのをきいていました。森は、ほんとうに小声で、ザワザワいっています。それから、小さい波が岸にうちよせて、かすかな音をたてています。それは、とてもふしぎな感じがして、……ふいに、わたしは、じぶんがかなしいのか、うれしいのか、わからなくなりました。わたしは、ねたまま、じぶんがかなしいの、うれしいのか、はっきりさせようとしましたが、よくわかりませんでした。きっと、森のなかでねていると、すこしおかしくなるのでしょう。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
「わたし、やかまし村を読んでないひとは、きのどくだとおもうわ。」 リーサの真似をしてこう言いたい。リーサたちの毎日はまたにぎやかで楽しそう。この巻の一大イベントは、サクランボ会社を作ったことと、ザリガニを取りに行くことである。子どもの頃に読んで、一番憧れたのがこの2つだった。 実はザリガニ・パーティーの様子は描かれていない。解説にはやり方が書いてあるので、子どもの頃の私はそれを読んだのだろう。けれど、やかまし村のザリガニ・パーティーの様子が鮮やかに目に浮かぶ。ラッセがこんなことをして、ボッセがこういうことを言って、そして女の子たちはそれに対してこうして、オッレはケルスティンと一緒で、と。 サクランボ会社と、この本の冒頭の自動車でやってくる母娘のシーンは、大変印象的だ。やかまし村には、ないものも多いが、とても豊かで「なんでもある」ことがわかる。リーサは冒頭で、「ここでたいくつしたり、つまらなくなったりするはずがありません。」と考え、ラストでは「『わたし、やかまし村にすんでないひとは、きのどくだとおもうわ。』」と言っている。子ども時代の輝きを差し引いても、やかまし村は理想郷だ。もちろん退屈したりつまらなくなる暇もないほど、家畜の世話や家事があるのだろうけど、それを差し引いてもやかまし村は楽しそうで、いつもにぎやかだ。 まだ、やかまし村を読んでいない人は、大変気の毒である。こんなに楽しいことを知らないなんて。
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子どもの頃に好きだったシリーズ 今回は、オッレの歯を抜くところを読んでいただいた 子どもたちのわいわいした感じや、歯を抜くだけで絶望的に感じてしまったり 自分の小さい頃は、こんなに楽しかったかなぁ?
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【やかまし村の春・夏・秋・冬】 【やかまし村はいつもにぎやか】 アストリッド・リンドグレーン著、大塚勇三訳、岩波書店、2005年、2006年 リンドグレーンの「やかまし村」3部作の2,3冊目。 原作はそれぞれ1949年、1952年に出版されている。 「水の精を見に行きました」...
【やかまし村の春・夏・秋・冬】 【やかまし村はいつもにぎやか】 アストリッド・リンドグレーン著、大塚勇三訳、岩波書店、2005年、2006年 リンドグレーンの「やかまし村」3部作の2,3冊目。 原作はそれぞれ1949年、1952年に出版されている。 「水の精を見に行きました」 「アンナとわたしは、なにをやってるのか、じぶんでもわかりません・・・」 「賢者の箱」 などの章は、子供向けの本なのに、43歳男性の自分がおもわず笑ってしまう。 本当にいい本だ。 子ども達だけに読ませておくなんて、なんてもったいない! 児童文学者の長谷川摂子が以下の寄稿をしている。 ーー わたしたちは生き物です。生きているということは身体の奥に生命力の火を燃やしている、ということでしょう。その火の力で体も心も温まってこそ、さまざまの活動に取り組むことができるのではないでしょうか。もちろん、動物にも生命力の火はそなわっています。動物はいつもその火のゆらめきと行動が一体になっています。その一体性を本能と呼んで良いかもしれません。しかし、人間は動物のように本能をむき出しに、無自覚に生きるわけにはいきません。人間はその火をかまどのなかに閉じ込めつつ、燃やさなければならないのです。生産活動のための組織、習慣や制度、さまざまの人間関係をまとめる社会秩序、やくそくごと、そんなかまどで生命の火をじょうずに囲って生きているのです。しかし、その規制があまりにつよくなり、かまどのレンガが二重三重に厚くなったら、もし、酸素をおくるかまど口までふさがれてしまったら、人間はどうなるのでしょうか。心も身体も冷え冷えとし、エネルギーが萎え細り、体調が悪くなったり、無気力になったりし、人生は憂鬱になってきます。生きるということはこの火のぬくもりをかまど越しに、心身の全体にひろげ、エネルギーをしっかり維持する、ということではないでしょうか。 そこで遊びは大切な役割を果たすと、わたしは思うのです。遊びは経済活動や生産とは直接むすびつかない、実質的には意味のないものかもしれません。でも、それだからこそ、遊びは軽やかに生命力と結び付いてくれます。遊びは活発な体の動きや想像力によって、かまどのレンガをうすくしたり、かまどの口をあけて酸素をおくりこんで火をかきたて、生命の火のぬくもりを心にも体にもいっぱいに広げてくれるもの。そんな気がしてならないのです。 ーー 人が育つことの極意がここに書かれているのではないか。 そして、今日、新たな役目を引き受けることになるが、そのスタートにふさわしい文章だ。 遊びは、子どもにも大人にも、いま必要とされている。 わたしたちは、鬼ごっこをやりました。・・・牡牛たちは、目をみはって、わたしたちを見つめていました。なんで人間が鬼ごっこなんかするのか、牡牛には、きっとわからないでしょう。といって、よく考えてみると、わたしにもなぜだかわかりません。でも、なにしろ、鬼ごっこはおもしろいんです。 (「やかまし村の春・夏・秋・冬」) #優読書
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時々、語り手が言葉をはさむけど、その部分も徹底的に子どもの目線なのがやかまし村の魅力と思う。(そうでない作品で良いのもあるけど)これは大塚勇三さんの訳のおかげか原文がそうなのかどっちだろう? ラッセがヒツジを可愛がって学校に連れて行き一騒動あった後に、「じつに、はっきりわか...
時々、語り手が言葉をはさむけど、その部分も徹底的に子どもの目線なのがやかまし村の魅力と思う。(そうでない作品で良いのもあるけど)これは大塚勇三さんの訳のおかげか原文がそうなのかどっちだろう? ラッセがヒツジを可愛がって学校に連れて行き一騒動あった後に、「じつに、はっきりわかるな。あれはまだ、ガッコウテキレイキじゃないんだよ」という章が好き。ラッセも先生から学校適齢期ではないと言われたけど、それは学校に適応できないことを非難・否定するニュアンスじゃなかった。そのおおらかさがあるから、ラッセも無邪気に大人ぶって、ガッコウテキレイキじゃない、と言える。かわいい。今って現実でも文学でも学校に適応できないことってよく書かれるけど、なかなかこういうおおらかさはないような。 最後の章で子供たちが森に行く。リーサの体験がいい。ずっと心に残りそうな幼少期の一瞬。←引用欄参照。 ※梨木香歩 「私の好きな岩波少年文庫」
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娘と二人、大笑いしながら、やかまし村について色々と話せることが、毎日の楽しみだった数週間。とうとう、最終巻です。「どうしてもうないの?」と娘が、寂しそうに言いました。次は、エーミールとピッピかな・・・と思ったけれど、1年生でないと楽しめない本を読んでから進もうかと思います。
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世代を越えて読み継がれるべき児童文学のスタンダード。 こんな風に生活の根っこがとてもしっかりしている世界観を今の子どもたちにも味あわせてあげたい。 出会うべき時に出会えたらとても幸せな1冊。 映画化もされていて、原作にかなり忠実だった記憶があります。 リサとアンナが買い物に行く...
世代を越えて読み継がれるべき児童文学のスタンダード。 こんな風に生活の根っこがとてもしっかりしている世界観を今の子どもたちにも味あわせてあげたい。 出会うべき時に出会えたらとても幸せな1冊。 映画化もされていて、原作にかなり忠実だった記憶があります。 リサとアンナが買い物に行くシーンの後、我が家ではしばらく「ソーセージの歌」が流行りました。(小説では別の巻かも)
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「こども」たちは いつの時代でも どんな国でも どんな処でも ちゃんと 「こども」である ことを 約束されて 「こども」であることを 保障されているのだ
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