ゲーム的リアリズムの誕生(2) の商品レビュー
動物化するポストモダンの続編として書かれた本である。文学おけるリアリティ(現実の解釈)がマンガ/アニメ的リアリズム(一回性の死/物語)から0年代以降ゲーム的リアリズム(並行世界/メタ物語)へと変化していった事を明示している。 昨今の文学のみならずゲームやアニメ、漫画、SNSなど...
動物化するポストモダンの続編として書かれた本である。文学おけるリアリティ(現実の解釈)がマンガ/アニメ的リアリズム(一回性の死/物語)から0年代以降ゲーム的リアリズム(並行世界/メタ物語)へと変化していった事を明示している。 昨今の文学のみならずゲームやアニメ、漫画、SNSなどあらゆるコンテンツがゲーム的リアリズムになったであろう。ゲームをプレイする主体と、そこに存在するゲームシステム、何度も繰り返す物語の分岐とはじまり。あらゆるものがカオスに、そして再生産され消費される。最近だと異世界転生物が流行っているが、あれも世界系からの新たなるライトノベルの系譜であり、現代社会の表層が現れていると常々感じている(それがなんなのかは一旦置いておく) 私が本書で良いと思った点は、物語の分岐における「選択」の話だ。何かを選ぶ事は何かを捨てる責任とセットとして存在している。「オールユー」の中で主人公が何度もリセットされる世界(虚構)の中で最愛な人と過ごす事を選択する事を望むが、最終的にはリセットを終わらせる事を選び取る。その結果最愛の人は失ってしまう悲しい物語である。しかし、主人公は何度も繰り返すゲームを終わらせて現実に帰る事を選択した。 私達の現実も常にメタ物語をプレイしながらも、現実に帰る契機を伺っているのかもしれない。たとえその物語がどれだけ魅力的であっても。 本書は0年代批評としても大変優れていると同時に、文化評論としても同時代を生きる人間として(全然若い)とても面白く参考になりました。オススメです。
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かなり難解だった 終わり方が唐突に感じたので、難しかった人向けにわかりやすいまとめがあれば幸せになれたと思う 時折り着いていけないほど難しかったが、それも含めて妙にクセになる感じで、次回作に期待していないと言えば嘘になるかも
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学びについて ・文章の透明性という概念。2010年以降のラノベ(なろう)史はこの概念なしでは語れないかも、という風に思う。 ・データベースから設定を組み合わせた世界線の地続きの中で、メタの概念は"一瞬"盛り上がりを見せたように感じるが今は当時のそのままのメタ概...
学びについて ・文章の透明性という概念。2010年以降のラノベ(なろう)史はこの概念なしでは語れないかも、という風に思う。 ・データベースから設定を組み合わせた世界線の地続きの中で、メタの概念は"一瞬"盛り上がりを見せたように感じるが今は当時のそのままのメタ概念はほぼ死滅状態にあるように感じる。生き残ったのはマーダーミステリーやTRPGだなあと。 ・なぜマダミスやTRPGが生き残ったのか?についてメタ的知見から考えるのは重要なように感じるが、この本が生まれたのはそれらに翳りがあり、むしろ現代翳っている美少女ゲームが勃興している時代なので言及はなし。 ・今に生きる部分は前作・"動物化するポストモダン"の方が大きく深い。この本はロストテクノロジーについて記した歴史書くらいに見た方がむしろ良いように感じる
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本書で、著者東浩紀は大塚の議論を参照しながら、近代文学を、現実を「透明な」言語で表現するリアリズム小説に代表させ、それに対してキャラクター小説を「不透明な記号」が現実を乱反射するものとして捉えている。キャラクター小説を、近代以前の神話や民話が形を変えて復活したものと見ている。 し...
本書で、著者東浩紀は大塚の議論を参照しながら、近代文学を、現実を「透明な」言語で表現するリアリズム小説に代表させ、それに対してキャラクター小説を「不透明な記号」が現実を乱反射するものとして捉えている。キャラクター小説を、近代以前の神話や民話が形を変えて復活したものと見ている。 しかし現実を非現実的に異化したり、非現実的なものを逆にリアルに表現するような小説なら、近代文学にありふれているし、オタクたちのキャラクター小説など及ばないレベルで既にやられているのである。ここでは二項対立そのものが不適切で、後者を不当に高評価することにしかならない。 オタク的な文化を近代を越えるものとして考えるのはまったくの誤解で、それは単に近代のレベルにも到達していない未熟さを表すものにすぎないのではないか。それが日本において発展したのは日本にはその未熟さを受け入れるようなものがある、そのことが特殊なのではないか。 成熟の過程で、漫画やアニメやゲームといったサブカルチャーを卒業し、文学や芸術に進む、というふつうの道のりを経ずに、サブカルチャーに固着してしまったのが、オタクという現象なのではないか。(もちろんそのような近代的成熟概念を無効にするのがポストモダンだといえばそれまでだが。) オタクは資本主義の消費者という視点も欠けている。オタクコンテンツは資本主義商品であり、東がいう「データベース」も商品を売るためのマーケティング戦略だ。 東がいう「メタ物語的構成」も、オタク文化に特有のものではない。そもそも作品とは、創作者からその受け手に対して送られたメッセージであり、その内部的な構造だけが意味を持つようなものではない。それははじめから外部環境の産物であり、作者も受け手もそのことを意識している。 ただのオタク文化がポストモダン文化であり、これまでの近代的文化を超えるものであるかのような過大評価が行われている、という印象を持った。私は、オタク文化がそれほど重要な意義を持つものだとは思えない。 もうひとつ指摘しておきたい重要なことは、ゲームといえば、さまざまなものがあるのになぜ美少女ゲームを中心に語るのか。仮に「ゲーム的リアリズム」のようなものがあるとしても、それを美少女ゲームだけを対象にして分析できるのか。 この本が出た当初は、いまと時代状況が違ったのかもしれない。しかしいまになってみれば、オタク文化が文化の中心になることはなかったとはっきり言えるのである。後出しじゃんけんのようだが、そういうことだ。
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自身もオタクであり、何となく肌感覚として『萌え』が分かる側の人間なのでそこそこの実感を伴って読めた。二次創作やメディアミックス等、マルチに展開する現状のサブカルチャーを文学的 もとい作者の恣意性ではなく環境に基づいて分析したという点が画期的なのだろうか。 筆者はメタ物語性という言...
自身もオタクであり、何となく肌感覚として『萌え』が分かる側の人間なのでそこそこの実感を伴って読めた。二次創作やメディアミックス等、マルチに展開する現状のサブカルチャーを文学的 もとい作者の恣意性ではなく環境に基づいて分析したという点が画期的なのだろうか。 筆者はメタ物語性という言葉を多用し、読者=プレイヤーのメタレベルを前提とした作劇の為されている(作者が意図していなかったとしても、結果的にそうなっている)作品を幾つか例として挙げている。この読者としての自意識が文学の批評に参入してくる点については、昨今の『推し活』的な文化にも通ずるものがあるのではないか。『推し活』は対象を『推す』こと自体が目的ではなく、寧ろ対象を推す行為によって自己のアイデンティティを確立することが第一義とされている(と、最近の世相を見ると思われる)。そこにはキャラクター=『推し』への感情移入ではなく、キャラクターを通して外在化されるプレイヤー=自分への感情移入ないしは愛情がある。 このように一見関係が無いとも思われる部分まで筆者の論を採用してみると、本作が文学のみに留まらず、ポストモダンの消費活動全般を通観して論を纏めていたことも頷ける。 ただ、もう少し精読したり前作を読んだりしないと確証めいたことは言えない。頓珍漢なことを言っているかも。
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面白く読めました。環境分析的な読解とは、どういったものか?読むと分かります。 あと、最後の参考文献は、結構読んでいたけど、それを使ってこんな風に本が書けるとは! 自分には、本を書くのは、難しいのかな?とも思いました。
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「動物化するポストモダン」の続編にあたる本書は、さらにライトノベル、そして美少女ゲームにまで範囲を広げ、オタク文化を考察している。 しかしこれまでサブカルチャーとされてきたアニメやゲームの世界が、最早マスカルチャーになったと言っていい状況は、どのように分析をするのかさらなる続編が...
「動物化するポストモダン」の続編にあたる本書は、さらにライトノベル、そして美少女ゲームにまで範囲を広げ、オタク文化を考察している。 しかしこれまでサブカルチャーとされてきたアニメやゲームの世界が、最早マスカルチャーになったと言っていい状況は、どのように分析をするのかさらなる続編が期待される。
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批評家 東浩紀氏が2007年に発表した著作。大きな物語が終焉を迎え、個々の物語にシフトした現代を呼称するポストモダンをオタク文化から眺める2001年の「動物化するポストモダン」の続編です。今回は、ライトノベルや美少女ゲームをスタートにして、一般文芸へと橋渡ししています。取り扱って...
批評家 東浩紀氏が2007年に発表した著作。大きな物語が終焉を迎え、個々の物語にシフトした現代を呼称するポストモダンをオタク文化から眺める2001年の「動物化するポストモダン」の続編です。今回は、ライトノベルや美少女ゲームをスタートにして、一般文芸へと橋渡ししています。取り扱っている題材から、どうしてもオタク文化論に見えますが、文学論として捉えたほうが良いと思います。
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年明けくらいに本著の前編『動物化するポストモダン』を読みました。そのときに「東氏の著作のつながりが見えてくると面白いのだろうなあ」と記していました(以前のInstagram)。続編である本書はまさにつながりが見えてとても面白かったです。 「前著を前提としているが,単独でも読...
年明けくらいに本著の前編『動物化するポストモダン』を読みました。そのときに「東氏の著作のつながりが見えてくると面白いのだろうなあ」と記していました(以前のInstagram)。続編である本書はまさにつながりが見えてとても面白かったです。 「前著を前提としているが,単独でも読めるように書かれている」(p.14)本書ですが,可能であれば前著を読んだ後に読むと議論の深まりが感じられるように思います。 前著で提案したポストモダン論を礎に,作品を想像する環境が二環境化していること(「現実」と「データベース」)を指摘し,そしてこの論点が既存の文学批評と対応関係を持つことを論じます(自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズム)。 しかし,既存の文芸批評では評価の低かったメタ物語性(物語の結末が一つに定まらない)をもつゲーム的な小説が,メディアという視点(コンテンツ志向メディアとコミュニケーション志向メディア)を加えることで,新たな文学の可能性=批評を有することが論じられます(ゲーム的リアリズムの誕生)。 物語の読解から物語の構造の読解へ。「自然主義的な素朴な読解と異なり,物語と現実のあいだに環境の効果を挟み込んで作品を読解するような,いささか複雑な方法」(p.157,傍点省略)である環境分析的な読解へ。 文学論でもあり,メディア論でもあり,批評の方法論としても読める貴重な本かと思いました。 ところで,ポストモダン化に伴う作品の変化として以下のことが指摘されていました。 「自然主義の足枷から解放され,面倒な情景描写や人物設定をする必要を感じない若い作家たちは,その多くが,読者への刺激を最大限かつ最速にするため,サブカルチャー的な記号をできるだけ効率よく配置しようと試み始めている。つまりは,分かりやすい展開を備えた印象的なキャラクターと,同じく分かりやすい展開を備えた類型的な物語を組み合わせ,そのうえでいかにディテールを積みあげて読者の心を動かすか,という点に作家の関心が移っている。(p.299) 先日,『ぼくは愛を証明しようと思う。』の読書感想で「物語のプロットはありきたりです」と記しましたが,この指摘を踏まえて考えると違う読解ができるなと思いました。 物語のプロットがありきたりなのも,登場人物がよくある感じ(非モテ男性とマッチョイズムなモテ男性)なのも,ディテール(恋愛工学)による読者へのインパクトに関心があったからなのかな,と。そしてそれが功を奏していて,『ぼくは愛を証明しようと思う。』を読むと,心だけでなく身体も動かす影響力を持っている。そのようにも読解できるなと思いました。 いつの時代の本なのか?という視点で小説を読むのも面白いなと思いました。
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高齢の頭の硬い学者ならいざ知らず、東がゲーム的リアリズムと言う時のゲーム的とは、ゲームプレイ→リセット→ゲームプレイのループだったり、TV画面を前にしてゲームをプレイするプレイヤーという構図であり、ゲームなり小説なりを分析するにあたって問題にするのは、物語の構図だけだったりする。...
高齢の頭の硬い学者ならいざ知らず、東がゲーム的リアリズムと言う時のゲーム的とは、ゲームプレイ→リセット→ゲームプレイのループだったり、TV画面を前にしてゲームをプレイするプレイヤーという構図であり、ゲームなり小説なりを分析するにあたって問題にするのは、物語の構図だけだったりする。 ゲーム実況などをアップロードするYoutuberですられゲームを語る際には、ゲームの世界観、操作性など様々な角度で論じるにも関わらず。 果たして、どれくらいのゲームプレイヤーが、前記の東がゲーム的とするものに納得するであろうか。 通常、ゲーマーにとって、TVゲーム的とは、やり込み要素などの攻略のしがいであろう。 物語中心に分析するという手段は、東が古い文学のみに通用すると言う自然主義そのものではないか。 前作『動物化するポストモダン』では、あくまでも批評が主体であり、扱われている、オタク好みの作品は従であったが、本作『ゲーム的リアリズムの誕生』では、作品批評が主体で、オタクはオタクでも、どの程度の人達が読んだり、プレイしているのかと思うような、全く知らない作家、作品に付き合うのは、読んでいて、ほとほと疲れました。 その批評にしても、皮相的で浅いもので全くつまらなかった。 2、3の作品を分析なのか、つまらない説明でもって、本書の最後に、『本書の議論で、2000年代の物語はどのような状況にあり、どこに向かっているのか、そしてその分析にはどのような概念が必要で、それらの概念は批評の場でどう使われるべきなのか、かなりのていど明らかにしたことと思う。』とあるが、驚くべき自負心である。 断っておきますが、私は、アンチ東という立場ではなく、東浩紀を、注目すべき言論人の一人と考える立場の一人です。
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