善の研究 の商品レビュー
約2ヶ月掛けて本編を読み終えた。 途中で挫折しかけつつも、読むとハッとしたり力が湧いてきたりと、なんだか旅をしているような読書だなと思いながら来た。体験の連続のようだった。 "純粋経験"の第1編は、難解ではあったけど予習の甲斐もあってスラスラっと。 (講談社...
約2ヶ月掛けて本編を読み終えた。 途中で挫折しかけつつも、読むとハッとしたり力が湧いてきたりと、なんだか旅をしているような読書だなと思いながら来た。体験の連続のようだった。 "純粋経験"の第1編は、難解ではあったけど予習の甲斐もあってスラスラっと。 (講談社現代新書100や100分de名著テキスト等) 第2編の"実在"で大いに躓き、混乱。 第3編の"善"で、ここまでの理解が繋がっていった。 第4編の"宗教"では何度もハッとさせて貰った。 読書に限らず、経験は不可逆的な変化をもたらすと誰かが言っていた気がするけど この本の通読は、正しく不可逆的な変化をもたらした感じがする。 何かを経験するということについて、主客未分の状態に視点をもってしまった。そしてそれに対する論理的な理解の限界も。 読み切れて良かった。何かが沁み込んだ良い旅路だった。 補論はこれから。
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主観と客観は同じであるという主客合一の考え方、なかなか難解である ただ、個人性の実現、個と全体がつながる利他や社会性の倫理観や二元論を嫌う考え方は、この対立が増す現代にこそ学ぶべき示唆があるように思えた
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真の自己を知るのが善。こう言い切っているが、真の自己とはなんだろう。それはマニュアル的に知ることではないのかもしれない。何度も読み返して理解すべき本なのだろう。
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"いわゆる心というのは単に内なるものではなく、いわば内の内なるものであり、同様に物というのは単に外なるものではなく、いわば内の外なるものである。すなわち、物は心の外に超越したものではなく、心の内に超越したものである。" 内の内なるもの、内の外なるもの(内に超越...
"いわゆる心というのは単に内なるものではなく、いわば内の内なるものであり、同様に物というのは単に外なるものではなく、いわば内の外なるものである。すなわち、物は心の外に超越したものではなく、心の内に超越したものである。" 内の内なるもの、内の外なるもの(内に超越したもの)とある。 心で普通に捉えるものは、これまでの経験で蓄えられたものであると思う。経験(無意識的な経験も含め)を超えたものの直覚はないとすると、よくよく考えるということか? しかし、考えること(反省すること)とは違うと。ものになりきるのだと。決して経験したことのないようにものを直覚するべく、無心で感じるということだろうか。
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”善とは何か? →自分をつきつめていくこと。 →小さな自分(偽我)をそぎ落とし、より大きな自己へ。 →★好きなこと、いいと思うことについて、発信すること、広めていくこと! <キーフレーズ> <きっかけ> 人間塾 2016年8月の課題図書”
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真の実在を把握するには疑いうるものを全て疑う必要がある。デカルトの方法的懐疑。 しかし帰結は我思うゆえに我ありでなく 意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは単に意識には必ず統一がなければならぬの意にすぎない。もしこれ以上に所有者がなければならぬとの考えならばそは明らか...
真の実在を把握するには疑いうるものを全て疑う必要がある。デカルトの方法的懐疑。 しかし帰結は我思うゆえに我ありでなく 意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは単に意識には必ず統一がなければならぬの意にすぎない。もしこれ以上に所有者がなければならぬとの考えならばそは明らかに独断。 意識に先立って意識の所有者の存在を前提しているのは独断。私さえも不確かであるのでただ直接的な経験の事実。疑う私も疑われる対象も直接的な経験そのもの 主もなく客もない知識とその対象とが全く合一している 西田哲学は西洋哲学と東洋哲学の合流点。 いかに生きるかという実在の問題、 世界はこういうものであるという哲学的世界観および人生観と人生はこうせねばならぬという道徳宗教の実践的要求とは密接の関係を持っている。 宗教と科学の仲裁というれいの命題か。 真の宗教は自己の変換、生命の革新を求めるところに成立する
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西田幾多郎「善の研究」は岩波文庫で大学生の頃に読んだのが最初でした。 理解してたつもりだったんでしょうね。あれからかなり年月が流れたので、「今読んだらどう思うかな?」という気持ちで、注釈付きの講談社学術文庫版を購入。 これを読み終えた今でも、理解できてるとは思いませんが、それでも...
西田幾多郎「善の研究」は岩波文庫で大学生の頃に読んだのが最初でした。 理解してたつもりだったんでしょうね。あれからかなり年月が流れたので、「今読んだらどう思うかな?」という気持ちで、注釈付きの講談社学術文庫版を購入。 これを読み終えた今でも、理解できてるとは思いませんが、それでも以前よりは分かったかな。 ありきたりな言葉ですが、深いですよね(笑。
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わが国最初の独創的な哲学書である西田幾多郎の『善の研究』のテクストに、西田研究者の小坂国継氏による注釈を付したもの。テクストは一段落ずつ切られて注釈が挟まれ、各章の終わりには小坂氏の「解説」が置かれている。 小坂氏はほかにもいくつか西田の論文のコメンタリーの仕事を手がけているが...
わが国最初の独創的な哲学書である西田幾多郎の『善の研究』のテクストに、西田研究者の小坂国継氏による注釈を付したもの。テクストは一段落ずつ切られて注釈が挟まれ、各章の終わりには小坂氏の「解説」が置かれている。 小坂氏はほかにもいくつか西田の論文のコメンタリーの仕事を手がけているが、本書の注釈もそれらに劣らず、手堅くポイントが押さえられている。西田哲学に関する研究書には、解釈者独自の理解が前面に出されたものが少なくない中で、本書の解説は西田自身に語らせるようなものになっている。 また、『善の研究』では、当時流行していた哲学者の思想が参照されて議論が進められることも多く、今日の読者がその内容を理解することを難しくしているが、本書の注釈はそうした書肆的情報についての解説も充実していて、読者の理解を助けてくれる。
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日本を代表する思想家西田幾太郎のエッセンスが凝縮された伝説的名著 ……と聞いて読み始めたのだよ しかし、これは難解だ もちろん哲学書なわけで簡単なはずがないんだけど、頑張って読み切りたい
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言っていることがとても難しいので、一語一語の意味をじっくりと考えながら、外国語を読むような感覚で読み進んだ。 同著は、岩波文庫からも出版されているけれど、岩波版が原文のみを収録しているのに対して、こちらには注釈がついている。用語の解説については、単にそのまま他の言葉で言い換えてい...
言っていることがとても難しいので、一語一語の意味をじっくりと考えながら、外国語を読むような感覚で読み進んだ。 同著は、岩波文庫からも出版されているけれど、岩波版が原文のみを収録しているのに対して、こちらには注釈がついている。用語の解説については、単にそのまま他の言葉で言い換えているだけのようなことが多くて、あまり参考にならなかったのだけれど、各章の終わりにある、その章のまとめには、要点が簡潔に書き加えられていて、原文だけを読むよりはわかりやすかった。 この本は、「純粋経験」「実在」「善」「宗教」の全四編から成っていて、主題は、第三編の「善」にある。一番読みやすいのも、この第三編であるので、ここだけを読んでも充分に要点は含まれていると思う。 この部分と比べると、第一編、第二編は、扱っている内容が極めて抽象的な概念であることもあって、かなり難しい。書かれた順番として、第一編は、第三編よりも後に書かれたということなので、より、話しの骨格を明確にするために、補助的に追加したものなのだろう。 この本の話しの進め方は、非常に緻密で、一段一段と論理を着実に積み重ねながら、話しを展開している。だから、途中でわからなくなると、自動的に、その後の話しにもついていけなくなるので、特に初めの部分は重要だ。 その、一番最初に出てくるのが「純粋経験」という概念で、その概念を起点として、この著書のすべての話しへとつながっている。しかし、一番難しかったのもこの始め部分だったので、ここがよくわからないために止めてしまうぐらいであれば、最初に、第三編の「善」から読んでしまったほうがいいと思う。 読んでいて思うのは、論理展開の厳密さで、その中に少しの不純物も混じらせまいとする、異様なまでの注意深さだ。 デカルトが「我思うゆえに我あり」というところを出発点として、それ以外の一切を排除したのと同じように、「最初にあるのは純粋経験だけである」ということだけを認めて、そこから、余計な偏見やノイズを丁寧に取り除きながら、思考を前に進めていく。 だから、あきれるほど遠まわしな言い回しが多いし、なんでわざわざ簡単なことをそこまでまわりくどく言うのかと思う部分もあるけれど、この進め方でのみ、誤りの入り込む余地のない、純粋な世界観を組み上げることが出来るのだろうと思う。 第三編の中にある、「意思の自由」というものはあるかどうか、という話しは特に面白かった。「善」というものが成立するかどうかは、意思に自由があるかどうかに大きくかかっているところがあり、この本では、特にその部分について詳しく検証がおこなわれている。 「善とは、宇宙の根源的統一力と合致した、個人性を実現するような行為」という結論については、納得がいく内容ではあったけれども、あまり斬新さや、新しい気づきは得られなかった。この本は、主張している内容そのものよりも、「道徳」や「善」といった抽象的なものを考える時の思考の進め方という点で、学ぶところが多い本だった。 思惟を進行せしむるものは我々の随意作用ではなく、思惟は己自身にて発展するのである。我々が全く自己を棄てて思惟の対象すなわち問題に純一となった時、さらに適当にいえば自己をその中に没した時、はじめて思惟の活動を見るのである。(p.61) 我が欲求を生ずるというよりはむしろ現実の動機がすなわち我である。(p.95) 世界はこのようなもの、人生はこのようなものという哲学的世界観および人生観と、人間はかくせねばならぬ、かかる処に安心せねばならぬという道徳宗教の実践的要求とは密接の関係を持っている。人は相容れない知識的確信と実践的要求とをもって満足することはできない。(p.125) もし個人的意識において、昨日の意識と今日の意識とが独立の意識でありながら、その同一系統に属するのをもって一つの意識と考えることができるならば、自他の意識の間にも同一の関係を見出すことができるであろう。(p.146) 意思の発展完成はただちに自己の発展感性となるので、善とは自己の発展感性であるということができる。すなわち、我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発展を遂げるのが最上の善である。竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するように、人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。(p.328) 西田にとって善とは人格の発現にあるが、その場合人格とは宇宙の根源的統一力と合致するとともに、それが各人において各様の個性をもって現れたものであった。(p.345)
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