1,800円以上の注文で送料無料

自殺について 他四篇 の商品レビュー

3.7

37件のお客様レビュー

  1. 5つ

    10

  2. 4つ

    4

  3. 3つ

    16

  4. 2つ

    1

  5. 1つ

    0

レビューを投稿

2020/09/26

自殺について 他四篇 (和書)2012年08月24日 15:59 1979 岩波書店 ショウペンハウエル, Arthur Schopenhauer, 斎藤 信治 『自殺について』は前から読んでみようと思っていた本です。 本編は25Pぐらいで他四篇割合が多いです。 実験とし...

自殺について 他四篇 (和書)2012年08月24日 15:59 1979 岩波書店 ショウペンハウエル, Arthur Schopenhauer, 斎藤 信治 『自殺について』は前から読んでみようと思っていた本です。 本編は25Pぐらいで他四篇割合が多いです。 実験としての自殺はそれを知る自分が死んでしまうから果たせないという最後の部分が取り敢えず倫理的であろうと思う。 聖書などで自殺を禁止するものは無いという。人を支配するには自殺を認めることが駄目なのだろう。地獄とかなんとか自殺を禁止しようとすることは根拠のないことなのだろう。

Posted byブクログ

2020/03/26
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

『自殺について 他四篇』ショウペンハウエル 岩波書店・岩波文庫 1952.10 記録:2019年12月28日 https://www.amazon.co.jp/自殺について-他四篇-岩波文庫-ショウペンハウエル/dp/4003363213/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E8%87%AA%E6%AE%BA%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6&qid=1577520723&sr=8-1 自殺について 著者の知る限り自殺を犯罪と考えるのは一神教のすなわちユダヤ系の宗教の信者たちだけである。 旧約聖書にも新約聖書にも自殺を禁じる記述が見当たらない。 インド人の下では自殺は宗教的行為として出る。寡婦憤死。 ジャガノートの神車の轍の下に身を投げる。 ガンジス川や寺院のワニに身をささげるとか。 寡婦憤死・寡婦殉死 サティ―、サッティともいう。寡婦が夫の遺体と共に焼身自殺すること。 寡婦なるのは前世の罪だと考えられて寡婦の身分はとても低い。 多くは強制的に行われた。 ジャガーノート https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャガーノート ビシュヌ神の化身クリシュナの異名。ジャガンナート。 止められない大きな力。英国宣教師がインドのジャガンナートを祀る山車に身を投げる信者の姿を見たことから。

Posted byブクログ

2019/07/02

 ショーペンハウアーの哲学はしばしば厭世主義(ペシミスム)と評される。「ショーペンハウアーは自分の著作の中でペシミスムという言葉を使ったことはない」と西尾幹二は解説しているが、そのことは彼の哲学がペシミスムであることと何ら矛盾しない。事実「意志の否定」を説いた彼の哲学が否定に満ち...

 ショーペンハウアーの哲学はしばしば厭世主義(ペシミスム)と評される。「ショーペンハウアーは自分の著作の中でペシミスムという言葉を使ったことはない」と西尾幹二は解説しているが、そのことは彼の哲学がペシミスムであることと何ら矛盾しない。事実「意志の否定」を説いた彼の哲学が否定に満ちていることは読めば一目瞭然であり、ニーチェがそのアンチテーゼとして「意志の肯定」を説いたことからも、ショーペンハウアー哲学が厭世主義的であることは歴史的といってもいい事実である。  恐らくはそのためであろう。『自殺について』というタイトルから、これはショーペンハウアーが自殺を肯定している本に違いない、と誤解している読者が多いようである。それどころかショーペンハウアー=自殺論者と考えている向きもあるようである。だがそれは全く違う。  本書においてはもちろんのこと主著『意志と表象としての世界』においても、ショーペンハウアーが自殺を肯定したことはただの一度もない。「意志の否定」を説いた哲学者が自殺を肯定しないのはかえって不自然に思われるかも知れないが、驚くことは一つもない。なぜならショーペンハウアーにとって自殺とは「意志の否定」ではなく「意志の強烈な肯定」にほかならないからだ。  本書においてショーペンハウアーが糾弾しているのはむしろ、自殺を罪悪とみなすキリスト教的ドグマである。そもそも『自殺について』というタイトルとは裏腹に、本書において自殺に関する議論はほとんどない。「死」や「現存在の虚無性」や「世界の苦悩」といった言葉が並んでいるが、それは自殺とは直接関係がない。せめて『死について』というタイトルにでもしていれば、まだ誤解は防げたのではないかと思うのだが。

Posted byブクログ

2018/06/30

あとがきを読んで気づいたが、ショーペンハウアーの中でも、晩年のものになるらしい。 ものを考へるひとはこれまでにたくさんいた。それぞれにものを考へ、ここまで続いてきた。さうした中にあつて、彼は生きること死ぬことといふ当り前だが当り前過ぎて忘れられたことを考へやうとしてゐる。 死とい...

あとがきを読んで気づいたが、ショーペンハウアーの中でも、晩年のものになるらしい。 ものを考へるひとはこれまでにたくさんいた。それぞれにものを考へ、ここまで続いてきた。さうした中にあつて、彼は生きること死ぬことといふ当り前だが当り前過ぎて忘れられたことを考へやうとしてゐる。 死といふものがただのことばであると同時に、だからこそ、逆説に死がそばにあることに気づいてしまつたひとだ。 このわたしといふ存在は、肉体的な現象であると同時にそれを知り見つめるといふ観念的な存在である。意志は実体がないゆえに肉体として実現してゐる。それを悪とと呼ぶなら、生きてゐることは押しなべて害悪でしかないではないか。死ぬといふことは、さうした存在の消滅なのだから、ひとは進んで死なねばならぬ。 善く生きられないなら死ぬといふことのどこが罪だといふのか。自殺を称揚してゐるのではなく、さうとしかできないことを彼はよく知つてゐる。毒杯を仰げるひとだ。 生きることの否定に生きることがあるといふのだ。貧困や不幸といふものは、生きることの肯定ではなく、否定への足掛かりであるが故に、羨まねばならぬのだ。キリストの貧しきものは幸ひなりといふことばはかうして生きてくる。 ひとが死に行く存在であるのは必然であるから、畢竟人生とは生命の否定の連続でしかない。産めよ増やせよといふのも、交合だと自身の意志を積極的に肯定するものであるから、新たな出生による現在の意志の否定をせよといふことになるのだ。 人生を悲観してゐるといふよりは、むしろ、生きるも死ぬも同じことで、死がすべての終りだといふのはすべてまぼろしだといふ、生きることへの驚きである。ないものはないし、あるものはある。死ぬことに恐怖することもできなければ、苦しみやうもないといふことを知るとき、生きることがどれほど苦悩に満ちてゐるか、精彩な輝きを放つ。彼が自殺しなかつたのは、生きることと何ら変はりなかつたからだ。彼が求めてゐたのは、意志それ自体の抹消だと思ふ。意志の抹消を知ることなど決してできない。故にどこまでもその彼岸に焦がれてゐたのだと思ふ。 彼はニーチェのそれとは異なり、生きてゐる限り彼岸さえもこの此岸の延長でしかないことを知つてしまつたからこそ、発狂などできなかつたのだ。

Posted byブクログ

2018/01/14
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

普段ほぼ小説しか読まない自分が、表題のインパクトから興味を持ち、思わず手に取ってしまいました。 せっかく買ったので読み始めたものの、哲学とか全くかじったことないからよく分からないし、文体が古くて見慣れない表現が多く、内容を理解できている自信が全然ありません。 なので、以下はINTの低い人間の戯言的なメモです…… ---- 本書は、まず死の定義から始まって、次いで人間の活動で得られる歓喜と苦痛についてと、人が自殺というアクションをとる仕組み。そして自殺は悪なのか? という疑問について記されている……のかな? 根拠のない先入観から宗教寄りの見解が多いのかと思っていましたが、全く機械的に題材を解釈・分析している内容という印象。むしろ、後半の自殺論ではいくつかの宗教を痛烈に批判しているように思います。 以下は読み終えて何となく覚えている(印象に残っている)点。 ・動物と違って人間は死を知覚し、それに対する恐怖と絶えず直面している。 ・人同士の(生きようとする)意思が対立し、片方あるいは両方に苦痛をもたらすことがある。 ・また、全てが満たされることにより生じる「退屈」も、人間にとっては苦痛である。 ・死の恐怖と抵抗は相当なものであるが、不幸の感覚(苦痛)の昂揚が人間を自殺にまで追いやることがある。また、死への抵抗は肉体的苦痛と精神的苦痛との対立でもある。 ・自殺に反対できる倫理的根拠があるとすれば、自殺は倫理的最高目標到達への反抗とみなされるからである。 解釈の正誤は置いておくとして、概ね「なるほど」「そうだよなぁ」という内容でした。が、父母からそれぞれ意思と知性を受け継ぐ、という点だけ疑問符が浮かびました。それは何かの比喩か、少なくとも今の時代はそうとは言えないかな、と。 また、意思と知性について、意思は絶対的なもので知性は二次的なものとされています。しかし個人的には、知性の増強が(生きようとする)意思を強化することもあるのでは(必ずしも知性は意思の二次的存在ではないのでは)? と思っています。 例えば、退屈という名の苦痛が死への抵抗を越えることがあるとすれば、知性を高めることで知識欲の増強につながり、退屈さが緩和(=苦痛が緩和)され、結果として(生きようとする)意思の強化につながるのでは、と。とはいえ退屈で自殺するケースなんてそうはないでしょうから、あまりに稚拙なカウンター意見ですが(恥)…… ともあれ、自分にとっては難しい本でしたが、いろんなことを考えるきっかけになりました。おかげで退屈さが解消されて(笑)、良い時間を過ごすことができた気がしています。

Posted byブクログ

2017/12/03

あたかも船が底荷を必要とするように、ある程度の負荷があることで、それを幸福や快楽へ転じようするのが人間だ。 負荷が必要であるのが人間なのだ。 とすれば、 人生の幸福は、喜怒哀楽の喜と楽だけでなく積極的な怒と哀、 喜怒哀楽すべての総量が人生の幸福の尺度だ。

Posted byブクログ

2014/05/22

個体の意思も、幸不幸も、生死すらも、つまるところ問題ではない。けれど感情が納得しない。それではここにいる私は何なんだ。

Posted byブクログ

2013/12/16
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

やることがあるとき苦痛、ないとき退屈 この本を読んで得たことはこれ!ちょっと間隔空けて読んでたから記憶に残ってない。。。基本的にショウペンハウエルの本には希望がないと思う。ただ考え方としては面白い。あと動物と人間の違いについても面白かったな、動物は今その瞬間を生きてて、人間も今を生きてるんだけども過去未来まで思考してしまうため苦痛がかなり伴って生きているということ。この点は面白い。

Posted byブクログ

2013/07/11

ショウペンハウエルの「パレルガ・ウント・パラリポーメナ」より採った薄い短編集で文章的にはすぐに読めるものであるが、深い考察が秘められている。 自殺についての古代ギリシアやローマからの文献を引用して、「自殺が悪」であるということに根拠はないと言っておきながら、 精神的苦痛と...

ショウペンハウエルの「パレルガ・ウント・パラリポーメナ」より採った薄い短編集で文章的にはすぐに読めるものであるが、深い考察が秘められている。 自殺についての古代ギリシアやローマからの文献を引用して、「自殺が悪」であるということに根拠はないと言っておきながら、 精神的苦痛と肉体的苦痛の対立について述べ、 いっぽうではまた、自殺は、一種の実験であるが手際が悪い実験である。 なぜなら肝心の解答をききとるべきはずの意識の同一性を、この実験は殺してしまうのであるから、と淡々と述べる。 非常に古代から問題視されてきた自殺について短く簡潔にではあるが、自殺の当事者の意識を持ってしてではなく、そこに近づきつつも、「実験的」に述べている。

Posted byブクログ

2013/04/02

絆に恵まれない人間が、どうすれば自殺することなく人生を全うすることができるのかという切実な問いに対する、ひとつの答えだと言えるだろう。 だって

Posted byブクログ