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無思想の発見 の商品レビュー

3.8

56件のお客様レビュー

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2018/11/17

遠い国の物語やことばを読んでゐて、その隔たりを感じることがあつた。あるひは、遠い国であつても同じ様な精神の人間に出会つた時、もつと身近に知つてゐたのなら、話してみたいことがたくさんあつた、そんな風に感じることもあつた。それは時に限らず、時間も同じで。遠い忘れてしまふくらい昔のひと...

遠い国の物語やことばを読んでゐて、その隔たりを感じることがあつた。あるひは、遠い国であつても同じ様な精神の人間に出会つた時、もつと身近に知つてゐたのなら、話してみたいことがたくさんあつた、そんな風に感じることもあつた。それは時に限らず、時間も同じで。遠い忘れてしまふくらい昔のひとに感じる隔たりと、引き合ふ寄り添ふ力。 どこかで感じてゐただけで、このやうに考へ、ひとつの形にしないできてしまつた。考へ続け、それを何ものかで表現し続けるといふことに耳を塞ぎ、またもや与へられるだけで流され続けてきてしまつた。知りたくて知りたくてたまらない。もつとことばがほしい。 養老先生はいつも考へ続け、生きてゐるひとだ。後どれくらい続けられるかはわからない。けれど、最後の最後まで考へ続けてゐるのだと思ふ。 構造と機能、感覚と概念、違ふと同じ。これらは相補的なものであつて正反対のものではない。なぜなら、どちらもことばによつて重なるところがあるからである。 純粋、といふものは概念では存在するが、感覚としてそれが存在するといふことはあり得ない。感覚からすれば存在しないが、概念からすれば存在する。どうもそんな風に人間はできてゐる。有るといへばあるし、無いといへばない。これこそ、無思想なのだと思ふ。 一見矛盾してゐるやうにみえるが、それは概念で捉へるのか、感覚で捉へるかの違ひに過ぎない。どちらもこのひとりの人間、脳のしてゐることなのだ。どうもそんな風に考へるより他ない。無意識の発見になぞらへた、無思想の発見。 無思想に裏打ちされてゐると考へると、いわしの頭も信心から、八百万の神々、無宗教が一変にあること、自分が漠然と感じてゐたことの正体に気づかされる。 無思想といふ思想、故に価値基準を世間・状況に委ねる。形を重んじながらも、簡単にその形を棄てられる。善し悪しはともかくとして、このやうになつてゐるのだとすれば、それに気づくことは少しは生きやすくなるだらう。 自分はかうだ、とひとつに決めてしまへば、それは再び自分ではない何かに委ね、不満となれば形をとりかへることになるだらう。しかし、この地球といふひとつの球体の上で、さう考へない者と生きてゐる以上、それだけで生きてゐては埒があかない。自分は変るし、変らない。柏手をうつこの右手と左手の間の存在。知ること、気づくことは、かうもひとを自由にする。

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2018/08/24

「思想は日本で言う世間、つまり社会の実情と補完し合う」との事だが、世間と社会の二重性・ダブルスタンダートへの気づきがない。コギト批判・風土依存等、思想的には和辻を踏襲しているようだが、世間と社会の混同が解消されていない点も同じように思える。

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2018/05/29
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

個性とか、自分の意識とかを、疑いたくなった。 そもそもちょっと懐疑的な考えはあったけど、なんか本格的に「自分」なんてどこにあるんだと声に出したくなった。 特に般若心経の話以降は、夢中になって読んだ割には「やばい」くらいの感想しか出てこない。 「無思想という思想」、数学のゼロと、仏教の無や空と照らし合わせることでなんとなくの理解はできた。 新渡戸稲造の「武士道」、少し読んどいてよかったと思いながら。 私が新年に神社に詣でることも、友人の結婚式のために教会にいくのも、お盆にお墓参りするのも、浄土真宗式のお葬式にでるのも、「無宗教」なのではなく「宗教だとおもっていないから」だと思う。自分のやっていることが宗教だと思ってない。だから教会にも行くし、南無阿弥陀仏と何妙法蓮華経の違いも分かんないでお寺に行く。神社でお守りも買う。 自分勝手だな、と思う反面、臨機応変なのだと思う。 「言葉」は「お互いに経験してきたちがうことを共通理解にする」と思ってたけど、 同じ「いぬ」という言葉(音)でも「いぬは犬だろ」と「同じであると思っている」前提があって共通理解になるんだと思った。 感情は個性ではなく、同じである。 不確かな言葉を「みんな同じものだと思っている」と思い込んで使って、コミュニケーションをしている。なんて不確かなんだろうか。でも実際それで世間が成り立っているのだから、それも怖い。 有思想に対して、徹底的に無思想で対応しちゃなよ!みたいなノリは嫌いではないけれど、ちょっと手放しすぎじゃない?なんて思った。 般若心経の話はすごく興味がわいたので、関連する本を読んでみようと思う。

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2017/06/17

感覚世界と概念世界 仏教の話が興味深かった。 「同じ」という認識についての話。 また読み返したい。 プログラムを今は少しかじっているけど、どれも区別して、分かれたものに名前をつけ、定義付けのような事をして、している。これからもっとテクノロジーの進化には、このような「纏めて」「単語...

感覚世界と概念世界 仏教の話が興味深かった。 「同じ」という認識についての話。 また読み返したい。 プログラムを今は少しかじっているけど、どれも区別して、分かれたものに名前をつけ、定義付けのような事をして、している。これからもっとテクノロジーの進化には、このような「纏めて」「単語」にしていき、実行されていくんじゃないかと思う。 多様性という言葉からすると、分けて分別して決めつけていくと、養老孟司さんの仰るような「同じ虫でも、個体が違う」ような面がなくなっていきそう。 どっちも大切な、バランスが大事だなぁと思った。

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2017/01/06
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

 真理は自分の「手に入ったり」、言葉で「これだ」と示すことができるようなものではない。それはひたすら「追い求めるもの」である。暗黙のうちに真理を追う。ひょっとすると、それがもっとも真理に近づく道であるかもしれない。その態度こそが、真の「無思想という思想」なのかもしれないのである。(p.188)  言葉はいったん発せられれば変わらず、テレビのニュースは報道されてしまえば変わらない。情報だからである。しかしシステムとしての人は、当面安定しているように見えるとしても、ひたすら変わり続ける。システムである人を「変わらないもの」と思い込んだ瞬間から、情報化社会が始まった。なぜなら、人が「変わらない自分」=情報になった以上、情報より重要なものはないからである。それなら社会は情報化するに決まっている。(中略) 「自分は自分、同じ自分だ」 というあなたの思想こそが、情報化社会をもたらした。その意味では、思想は社会を動かす。そして「思想のない社会はない」のである。(pp.222-223)

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2016/03/03

竹村公太郎氏との対談集で、久々に養老孟司氏の言説に触れ、読もうと思ったのがこの本。以前、読んでいたが、レビューを書いていなかったので、読みなおした。 内容は、 第1章 私的な私、公的な私 第2章 だれが自分を創るのか 第3章 われわれに思想はあるのか 第4章 無思想という思想 第...

竹村公太郎氏との対談集で、久々に養老孟司氏の言説に触れ、読もうと思ったのがこの本。以前、読んでいたが、レビューを書いていなかったので、読みなおした。 内容は、 第1章 私的な私、公的な私 第2章 だれが自分を創るのか 第3章 われわれに思想はあるのか 第4章 無思想という思想 第5章 ゼロの発見 第6章 無思想の由来 第7章 モノと思想 第8章 気持ちはじかに伝わる 第9章 じゃあどうするのか となっている。 解剖学者として、モノとしての人間の「脳」を観察してきた理系の思想分析のアプローチである。 しかしながら、古今東西の思想家・哲学家の造詣も深い。 そんな養老氏の論理的な「無思想の発見」。 インド人が発見し、中国語で学習した「般若心経」「0」を一番理解しているのは日本人だ(笑)。 「無思想」という「思想」を一神教のメンバーに理解させることは、困難を極めるだろう。 しかしながら、遠い将来、「無思想」という「思想」のすばらしさが世界を席巻する日を夢見て・・・・

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2015/05/05

またしても養老先生だ。どこかで、最近は仏教の本をよく読むと書いていらっしゃった。そしたら、この本だ。私が学生のころはすでに学生運動はしずまっていた。一部の学生が、大声で議論を戦わせていたりもしたけど、別世界のことのように感じていた。無思想・無宗教だ。本はよく読んだけれど、どれか一...

またしても養老先生だ。どこかで、最近は仏教の本をよく読むと書いていらっしゃった。そしたら、この本だ。私が学生のころはすでに学生運動はしずまっていた。一部の学生が、大声で議論を戦わせていたりもしたけど、別世界のことのように感じていた。無思想・無宗教だ。本はよく読んだけれど、どれか一つの既存の宗教とか、思想団体とかには属さなかった。あまりそこまで真剣には考えなかった。人の弱みに付け込んで勧誘してくる宗教もあった。大学1年生のころ、いろいろな講演会などに参加していたら、アパートの1室に連れて行かれた。共産系の団体への加入を勧められた。でもことわった。暴力的なところでなくて良かった。日本人の多くは、無思想・無宗教という。クリスマスを祝い、お正月には神社へ初詣。お盆には帰省して、墓参りもする。なんだって、自分に都合のいいものを取り入れる。それでいいではないか。あまりこり固まる必要はない。宗教や思想でけんかをするのはやめよう。そのことを日本人が世界に向かって発言していこう。そんなようなことを養老先生は本書で言っている。私は無思想・無宗教といったが、ここで訂正しておこう。以前の私は「森毅」教・いまは「養老孟司」教の信者と言えるかもしれないから。(これも10年前の話、その後は「梅棹忠夫」教かな)

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2015/01/10

タイトルからは分からなかったが、実質的な内容としては日本人論。本書で使用される無思想という言葉は一見すると把握しづらい。恐らく世間という言葉を用いながら、我々の生活の直感に訴えるような使い方をしているからだと思う。 無思想の一つの理解として、原理原則とそこから派生する規範意識の希...

タイトルからは分からなかったが、実質的な内容としては日本人論。本書で使用される無思想という言葉は一見すると把握しづらい。恐らく世間という言葉を用いながら、我々の生活の直感に訴えるような使い方をしているからだと思う。 無思想の一つの理解として、原理原則とそこから派生する規範意識の希薄さと認識をした。もし原理原則論が日本史において希薄だというのであれば、明治維新も戦後の社会変化も説明しやすい。考えてみれば普遍性が高いと思っていた天皇の地位についても江戸期、明治憲法下、現行憲法下と一貫性に欠ける。また本書でもしばしば登場する司馬遼太郎が、くどい程に奇態だ奇態だと呼んだ戦前の特殊性も説明できる。 本来は深い思想を経た上での発露であるニヒリズムや愛などの概念について、無思想の人間が軽々に扱っていいものかと改めて感じる。どうも資格が無い人が語りすぎるのではないだろうかと。

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2015/03/11

わたしの理解力ではすべてを理解できないけれど、よく、こんなこと思い付くなぁと、思う。 無宗教という日本人の思想の話より、「本来の自分」のくだりのほうが面白かった。 自分探しにイラク等にいく若者に対して、知らない世界を見ることが未知との遭遇ではない。未知がイラクにあるのではな&...

わたしの理解力ではすべてを理解できないけれど、よく、こんなこと思い付くなぁと、思う。 無宗教という日本人の思想の話より、「本来の自分」のくだりのほうが面白かった。 自分探しにイラク等にいく若者に対して、知らない世界を見ることが未知との遭遇ではない。未知がイラクにあるのではな&ーなかんじやねぉ飾ったんだ♪し!い。「自分が同じ」だから、世界が同じに見えるのであり、退屈に思えるのであり、自分が変われば世界も変わる、未知との遭遇とは、本質的には新しい自分との遭遇である、と。「本来の自分」なんてものはなく、商売や役職、住居など外的条件を変えれば、人は変わる。当たり前のことのようで、個性を意識しすぎている風潮の世の中だからこそ、アホなことに大学生時代は右往左往させられていたんだなぁ、と感じた。

Posted byブクログ

2014/06/02

まず自分とはなんなのかを導入で考えさせる本。それを理解させた上で一般的な学説などを使って人生観をといていた。

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