脳はなぜ「心」を作ったのか の商品レビュー
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※このレビューにはネタバレを含みます
・心の地動説 ・自分とは、外部環境と連続な、自他不可分な存在 意識は全てを決定する主体ではなく、川の下流で見ているかのように 受動的に受け入れ、自分がやったことと解釈し エピソード記憶とするための、ささやかで無知な存在 ・更に、意識の中で最も深遠かつ中心的な位置にあるように思える 自己意識のクオリアは 最も愛しく失いたくないものであるかのように感じられるものの、 実は無個性で、誰もが持つ錯覚
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http://www.youtube.com/watch?v=Ox8gJEIe5Ac 意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説 - YouTube を見てから読むと、分かりやすいです。
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[途中] まず一番不満なのが、第4章、 個人的には下らないとも思える話になる。 第3章までの内容で、心について、 より深く突き詰めて欲しかった。 本書で言っているのは、 人間の人間性や個性は、無意識であること。 自己意識とは、無個性でちっぽけな存在であること。 だとするなら、 ...
[途中] まず一番不満なのが、第4章、 個人的には下らないとも思える話になる。 第3章までの内容で、心について、 より深く突き詰めて欲しかった。 本書で言っているのは、 人間の人間性や個性は、無意識であること。 自己意識とは、無個性でちっぽけな存在であること。 だとするなら、 自由意志について 著者の説が正しいとするなら、 私という自己意識には全く自由意志はない。 では、小人たちはといえば、小人たちは、 五感からの情報と内部モデルの情報を、 処理しているに過ぎない。 自由意志というのは、インプット情報に関係なく、 自ら判断していなくては自由意志とは言えない。 小人たちにそんなことが可能であろうか。 小人単体では少なくともそんなことは無理だろう。 では、小人たちという集団としてはどうか。 一見、自由意志があるように見えるのは、 はたして、自由意志なのだろうか。 罪と罰について 私という意識には自由意志がなく、 意思決定のプロセスに掛かられないとすると、 私という個体が犯した罪は、誰が償うべきなのか。 それは結局、私の個体に内在する、 無意識になるべきであろう。 無意識とは結局、人間が人間であり、 個人が個人であると識別するものとなる。 昔、世紀の大悪党が捕まり、その法廷で、 敏腕弁護士は、その悪党の切断された右腕を掲げて、 こう言った「全ての罪を犯したのはこの右腕である」と。 そんな小説を読んだ事がある。 未知の感覚について 意識には、五感のセンサーを知覚出来るのは分かる。 でもそれは、実際、本当にセンサーなのだろうか。 意識が人間にとって主体的でなく、 無意識の決定を見ているだけの隷属的な存在であるなら、 全ての受け取った感覚を意識出来ているはずはない。 意識として感知出来る五感以外にも、 感知できない感覚があると考えるほうが自然だろう。 五感とはいわば、分かりやすく形式化したもので、 無意識はもっと繋がりあった世界感覚で、 モノを捉えているとしても可笑しくはない。 意識はエピソード記憶の為にあるというのが正しければ、 意識できない感覚とは、なんだかの理由で、 エピソード記憶に不適切なものなのだと考えられる。 人間は五感感覚に「生きている」という感情を付加し、 クオリアとすることで、エピソード記憶として保存し、 未来の行動の損得や善悪、是非について問う。 だとすれば、意識出来ない感覚とは、 感情の付加に適切でない、又は、生きていると実感出来ない、 そのような情報ということにならないだろうか。 または、普遍的過ぎてエピソード記憶する、 意味、必要がないような感覚情報とも考えれる。 そういった情報は無意識段階での判断基準にされていても、 意識には上がってこず、我々の意識では認識出来ないばかりか、 我々が絶対だと思っている五感に集約もされない。 未知の感覚は、存在したほうが自然のように思えてくる。 動物への人権拡大について ありえなくないが、相当な困難が予想される。 まず、人間でも自由や政治参加が認められない者はいる。 子供である。 オラウータンに人権が認められるのであれば、 人間の子供にも認められて当然だろう。 でも、子供に政治家を決めさせ、ポルノを見る自由を与え、 成人と同じように裁判を受けさせるのだろうか。 今の時代は、オラウータンも人間の子供も同じく、 保護されるべき存在だ(一昔前は、女性もそうであった)。 無論、子供の政治参加は必要だという意見には僕も賛成だ。 現にアメリカでは子供の間で選挙が行われ、その結果には、 政治的な拘束力はないが、実際の選挙に影響を与えるとされる。 人権を与えるということは、自由と義務、自己責任が発生する。 それは、オラウータンにとって幸せなことだろうか。 自由という概念がなかった滅私奉公の江戸時代より、 職業選択の自由がある我々は幸せと言えるのだろうか。 なんだか幸せだろうとそんな感じがするのは、 明治政府やGHQの教育による洗脳ではないだろうか。 また、人権のある者が、人権のある者を食べる事態も発生する。 人間は、生き物を殺し食べることで生きている。 動物性たんぱく質が取れなくなれば、どうなるだろう。 それから、医療用実験用マウスはどうだろうか。 医学の発展に著しい影響が出るだろう。
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自由意思なんて存在しない! 似たような話は、池谷裕二さんの本にも出てきますね。脳科学者の間では一般的な考えなんでしょうか。 この本を読んで「自由意志がないのは分かった! でも自由意志がないってことは法律の根本概念が無くなっちゃうんじゃないか? これからの毎日はどうやって過ご...
自由意思なんて存在しない! 似たような話は、池谷裕二さんの本にも出てきますね。脳科学者の間では一般的な考えなんでしょうか。 この本を読んで「自由意志がないのは分かった! でも自由意志がないってことは法律の根本概念が無くなっちゃうんじゃないか? これからの毎日はどうやって過ごしてけばいいんだ?」と思った人は、 『和解する脳』 池谷 裕二(著) 『寝ながら学べる構造主義 』 内田 樹(著) 『考えない練習』 小池 龍之介(著) なんかを読むと勉強になるかもしれません。
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もう20年前になるが、脳の処理の方法であるニューラルネットワークの出口に心が待ち構えていると言う作者の論には素直に受け入れられる気がする。
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ワタシ は 数ある脳細胞の中の一つの存在で、しかも 多くの脳細胞が判断して動いたものを、後で察知する存在である、という非常に新鮮な解釈であった。こう考えると説明できることもあるのかもしれないが、じゃあどうすればいいのか、というところの出口がなかなか見出しにくい本であった。
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面白いけどいろいろつっこみどころがあるというか。脳のネットワーク分散処理という概念はだいたいわかるし昔にブルーバックスでそんな本を読んだ。意識は主体的でなく、受動的に観察しているだけの存在だ、というのがこの本の骨子だが、そこはちょっとどうかな・・・
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心や自我の謎に工学の面から迫るという、斬新なアプローチ。そして、恐らくそれが最も近道であろう。 この本で述べられている仮説は、私の感じていた心のありように非常に近くて、とても腑に落ちるものだった。 この仮説が正しいかどうかは今後の検証を待たねばならないが、今のところ私にとって...
心や自我の謎に工学の面から迫るという、斬新なアプローチ。そして、恐らくそれが最も近道であろう。 この本で述べられている仮説は、私の感じていた心のありように非常に近くて、とても腑に落ちるものだった。 この仮説が正しいかどうかは今後の検証を待たねばならないが、今のところ私にとってはこれが真実の最有力候補だ。 以下、内容のまとめ。[more] 今までの「まず心ありき」のアプローチでは全く思いつくことのできないであろう仮説にも、生物が進化の過程で脳を獲得しそれが発達した、という「まず体ありき」で考えれば意外と容易く到達できる。 その仮説とは「自我というものは錯覚である。もしくは自我は単なる観客である。」というもの。 主観的には「私」が考えて、決定し、行動を起こしているように感じているはず。 しかし脳の活性を調べると、まず行動が起こり、その後で「考えて決定した」と認識しているのだ。 「私」は起こった結果を認識した後で、「私がこの結果を起こしたのだ」と錯覚、もしくは思い込んでいるに過ぎない。 そんな「私」は何のために生み出されたのか? 筆者は「経験した出来事をエピソードとして記憶するために、主人公が必要だったから」と推測している。 主人公の一人称としてストーリーを構成することで、一本の時系列と、生き生きとした情景描写(クオリア)を記憶にとどめることができるようになった。 この能力により、人類は時間軸に沿って過去を想起したり、未来を予測することができるようになった。
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感情を訴える心というものは、体の中のどこにあるのだろうか? 実は、感情をつかさどる部分、思考する部分がニューラルネットワークという組織で、そのニューラルネットワークを無意識の小人達に例えているのが面白い。 小人達の仕事は、情の情報処理、外部の状態の知覚、記憶の連想などである。 記...
感情を訴える心というものは、体の中のどこにあるのだろうか? 実は、感情をつかさどる部分、思考する部分がニューラルネットワークという組織で、そのニューラルネットワークを無意識の小人達に例えているのが面白い。 小人達の仕事は、情の情報処理、外部の状態の知覚、記憶の連想などである。 記憶の中の、エピソード記憶の大切さもわかった。
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ロボット工学の人による意識に関する本。受動意識仮説という自説について展開しているが、ものすごく分かりやすいのはちょっと感動するぐらい。<私>というのは、単なる意識のみならず、エピソード記憶を含めたモデルだというのが中心。著者はAIの人なので、こういう捉え方で、今後のロボット開発な...
ロボット工学の人による意識に関する本。受動意識仮説という自説について展開しているが、ものすごく分かりやすいのはちょっと感動するぐらい。<私>というのは、単なる意識のみならず、エピソード記憶を含めたモデルだというのが中心。著者はAIの人なので、こういう捉え方で、今後のロボット開発などに実装してゆくのだろう。内容的にはLibetの説と特に変わったところはない。我々の認知は錯覚にすぎず、「赤いリンゴ」が見えてるのではなく、「赤い」と「リンゴ」を脳が勝手に合成しているだけ。バインディング問題なんか不要。自由意思も実は単なる後付けの理屈にすぎず、よく言われるように「悲しいから泣くんじゃない、泣くから悲しいのだ」という機械論的な立場をとっている。クオリアの問題も、実はクオリアを感じる私、という機能があるだけで、そこに特別なものを想定する必要はないという。川人先生の、「脳内では多数の並列的な処理がされているが、意識に上る時点では簡単な直列処理として認識される」という(おそらく正しい)説をベースに開発を続けているようで、これは「心を持っているように見える」ロボットを作るためには正しいアプローチなんだろう。でも、実際は「川下にいる<私>」として、認知を統合し、感情という形でエピソード記憶を強める何者かが必要になってくる。意識を説明する、という点では昔のホムンクルス問題から一歩も進んではいない。
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