無痛文明論 の商品レビュー
人間の「自己家畜化」が進んだ現代文明について、「無痛文明」と定義し、分析し、根本からの対応を試みる書 問題の提起がとても興味深い。また、その社会構造化の解説など何重にも重なり広がっていく仕組みが詳しい。 雑誌連載を大幅に書き直し、第7,8章を書き下ろしたらしい。哲学とは思えない...
人間の「自己家畜化」が進んだ現代文明について、「無痛文明」と定義し、分析し、根本からの対応を試みる書 問題の提起がとても興味深い。また、その社会構造化の解説など何重にも重なり広がっていく仕組みが詳しい。 雑誌連載を大幅に書き直し、第7,8章を書き下ろしたらしい。哲学とは思えないほど日常の言葉で、確信的に綴られている。
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生命倫理的な視点から導入が始まったが、全編通してごく身近な実感に基づきつつ、これまでの哲学の議論を哲学史的すぎない形で踏まえながら、簡潔に論が組み立てられており、好感を持てる哲学者だと感じた。 資本主義さえも飲み込んでしまうペネトレイター(貫通物)としての無痛文明は、人間を自己家...
生命倫理的な視点から導入が始まったが、全編通してごく身近な実感に基づきつつ、これまでの哲学の議論を哲学史的すぎない形で踏まえながら、簡潔に論が組み立てられており、好感を持てる哲学者だと感じた。 資本主義さえも飲み込んでしまうペネトレイター(貫通物)としての無痛文明は、人間を自己家畜化し、自らに反抗する者にさえ、憑依して取り込んでしまう。身体の欲望を満たす代わりに、生命の意志を奪ってしまう無痛文明に対抗するには、やはりバタイユ的なアプローチが有効なようである。絶えずアイデンティティを解体し、無痛文明の熱源に飛び込んで転轍を試み続ける。こうした生き様は、中心軸を持った誠実な生とされる。他者との関わりにおいて自らの醜さが露呈する瞬間こそが、条件付きでない愛の瞬間であり、そこでは真の意味での承認・肯定・祝福が行われるのである。絶対的孤独に由来する存在の光の平等は、私たちに戦いと癒しとをもたらす。これは死の受容をも可能にする。 無痛本流の心地よさに対抗し、戦士として負け続けること。『ハーモニー』や『生殖記』を想起させる良書だったと思う。ところどころオジサン特有のスピリチュアルか?という文面があったとはいえ。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
これからの世界を考える上でこれまでの世界とは何だったのかという観点でみると面白い。 痛みを避けることにより弊害を受けていいるのだがそれ自体にも気づかない。そんな「無痛文明」から決して逃れられない作者が放つ魂の叫びみたいな本。 現在は変わりつつあるような気もするが世界を「近代の科学」で語り尽くせるという認識に立っているとこの考えに陥るような気がする。「災害」は人類が抑え込める的な記載があるのだが、そもそもその時点で事実誤認があると思う。それ故の「無痛文明」なのだが。
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現代文明は、人びとの「身体の欲望」を満たすことで、みずからの身を切り裂かれるような痛切な痛みによる自己解体を通して「生命のよろこび」を実現しようとする動きを「目隠し」してしまっていると著者は批判します。そのうえで、現代における文明が人びとを巻き込みつつ展開している「無痛奔流」から...
現代文明は、人びとの「身体の欲望」を満たすことで、みずからの身を切り裂かれるような痛切な痛みによる自己解体を通して「生命のよろこび」を実現しようとする動きを「目隠し」してしまっていると著者は批判します。そのうえで、現代における文明が人びとを巻き込みつつ展開している「無痛奔流」から脱却するための困難な戦いへと読者をみちびいていこうとします。 フーコーの「生権力」批判に通じるようなテーマを中心的にあつかっていますが、レヴィナスやドゥルーズ=ガタリ、ニーチェの問題にも通じるような洞察が随所に示されており、しかも著者自身のことばでわかりやすく、情熱的に語っているところに本書の特徴があります。 ただ、「身体の欲望」と「生命のよろこび」を対置し、あるいは「深層アイデンティティ」と「私が私であるための中心軸」を区別する議論の枠組みに、疎外論的な構図から脱却しきれていないような印象を受けてしまいます。むろん著者は、ロマン主義的な自然賛美の立場とみずからの「生命学」の立場を明確に区別しています。とはいうものの、あらかじめこうした対概念が区別されたうえで、両者を混同させてしまうような無痛文明の巧妙な装置が現に自己のうちにも働いていることを指摘し、だからこそ無痛奔流の流れに巻き込まれつつそれに抵抗するような戦いが必要だと訴えるという、疎外論に典型的なしかたで議論が展開されていることは否定できないように思います。 端的にいえば、まだ絶望が足りないのではないかという疑問を、どうしても拭うことができずにいます。
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「苦しみとつらさのない文明は、人類の理想のように見える。しかし、苦しみを遠ざける仕組みが張りめぐらされ、快に満ちあふれた社会のなかで、人々はかえってよろこびを見失い、生きる意味を忘却してしまうのではないだろうか」。抽象論も多いけど、内容は熱く、厚い。
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宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』で印象的、というか、とても嫌な感じがしたのは、冒頭で千尋の両親が豚になってしまうところである。主人公の千尋に感情移入する前に、多少ともその両親に同一化して見ていた評者は、自分が豚にされるような気がした。 本書も似たような衝撃から始まる。人類とは...
宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』で印象的、というか、とても嫌な感じがしたのは、冒頭で千尋の両親が豚になってしまうところである。主人公の千尋に感情移入する前に、多少ともその両親に同一化して見ていた評者は、自分が豚にされるような気がした。 本書も似たような衝撃から始まる。人類とは「自己家畜化」した種だという主張である。これは著者の主張ではなく、動物学者小原秀雄氏からの引用である。すなわち、「人工環境」「食料の供給」「自然の脅威からの保護」「繁殖の管理」「品種改良」「身体の形の変化」といった家畜の特徴が全て人間に当てはまるのだという。そこに著者は「死のコントロール」「自発的束縛」を付け加える。こうした人類のありさまを著者はとらえ返し、「苦しみとつらさのない文明は、人類の理想のように見える。しかし、苦しみを遠ざける仕組みが張りめぐらされ、快に満ちあふれた社会の中で、人々はかえってよろこびを見失い、生きる意味を忘却してしまうのではないだろうか」と説き起こす。そうした現在の、そしてこれから進んでいくであろう文明のあり方を「無痛文明」と称しているのだ。 著者の主張は、ある意味、簡単である。苦痛を避け快を求める「身体の欲望」が「無痛文明」を作り出し「生命のよろこび」を奪っている。「身体の欲望」と戦い、「無痛文明」を否定して、「生命のよろこび」を取り戻さねばならない。著者は本書を1冊費やして、いかに「無痛文明」がわれわれの気づかないところで進行しつつあるか、そこから抜け出すにはどうしたらいいのかを詳細に検証していく。 「身体の欲望」と「生命のよろこび」の違いはちょっとわかりにくいが、「身体の欲望」とは、人間が持つひとまとまりの根源的な欲望で、次の5つの側面で考えられる。1 快を求め苦痛を避ける、2 現状維持と安定を図る、3 すきあらば拡大増殖する、4 他人を犠牲にする、5 人生・生命・自然を管理する。これに対して「生命のよろこび」とは、「自分の内側から、古い殻を突き破って、いままで知らなかった新しい自分がありありと生まれ出てくるときにおとずれる、『ああ、生きていてよかった』というよろこびの感覚であり、自分はこんな風に生まれ変わることができるのだということを知ったときにおとずれる、すがすがしく風通しのよいよろこびの感覚である」と説明される。 「生命のよろこび」とはある種の「創造性」のようなもので、われわれを縛り上げる「身体の欲望」を解除して、「生命のよろこび」へと開かれていくようにしようという方向性は精神分析の目指すところとかなり重なるようにも思われる。 著者の森岡氏はひとまず哲学者という肩書きだが、自身では「生命学」を唱っている。評者が『無痛文明論』なる書名をみてまず連想したのは、痛みが排除された社会の中で、自ら痛みを求めるリストカッティングなどの自傷行為であった。本書では直接そうした観点が扱われているわけではないが、苦痛を除去しようとする医学の営みは無痛文明の推進勢力に位置づけられる。ラディカルな問題提起には違いない。 しかしながら、「身体の欲望」から「生命のよろこび」へという道徳臭さにはいささか鼻白む。評者の小学校の時の校長は、遠足で疲れたあとに食べるおにぎりのうまさはほかでは味わえないと、おかずを持っていくことを禁じた。ごもっともなのだが、そんな風にいつでも艱難汝を玉にすでなければいけないのだろうかと、ナマケモノの評者は思うのである。
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意欲的な著作。文体がすごく通俗的な感じなのは読みやすさと言う点からはいいかもしれないが、どんどん漢語の新語を作り、しかもその一つ一つがセンスに欠ける感じが否めないのが残念なところ。最もこれは思想書ではなく、全編アジ演説なのだと思えば納得がいく。
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自分の人生を悔いなく生き切るために自分と戦う人間が、それと同じ戦いをしているもうひとりの人間と出会ったとき、そしてその二人が自分自身と闘いながらも、同時に、いのちをかけて相手と戦い合ったとき、この二人の深層アイデンティティはお互いの目の前に容赦なくあばかれ、その結果、二人はそれぞ...
自分の人生を悔いなく生き切るために自分と戦う人間が、それと同じ戦いをしているもうひとりの人間と出会ったとき、そしてその二人が自分自身と闘いながらも、同時に、いのちをかけて相手と戦い合ったとき、この二人の深層アイデンティティはお互いの目の前に容赦なくあばかれ、その結果、二人はそれぞれの自縄自縛から抜け出していくための扉をそこに見出すことだろう。 このような二人の関係は、けっして共犯関係とならない。なぜなら、関係性はお互いの見たくないものに蓋をし合って気持よくなる関係ではなく、その逆に、お互いのいちばん見たくないものを最後の最後まであばいていって相手に突きつけ合い、互いの自己の変容へとつなげようとする関係だからである。お互い相手に興味関心があり、相手のことを大切だと思うがゆえに、相手に敢然と戦いを挑んでいく、そして同時に自分自身とも戦っていく、そいう関係性。自分の人生を悔いなく生き切るために、自己を問い直し戦い続けていこうと覚悟をしている人間同士が、お互いの姿勢に共鳴し合い、尊敬し合いながらも、徹底して相手と戦っていく。至福と地獄のあいだを揺れ動きながら、その相手と徹底してつきあっていこうとする。愛が芽生えるとすれば、それはこのような関係性からではないのか。
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この本は難しい。書いてあることではなく、どう評価するべきかが難しい。 例えば、こうやってレビューを書き賞賛するということは、本書をきちんと読んでいないことの証左にもなってしまう。 逆に安易な批判は嘲笑の的である。この本は、有り体な批判ならば全て飲み込んでしまう力がある。 だから...
この本は難しい。書いてあることではなく、どう評価するべきかが難しい。 例えば、こうやってレビューを書き賞賛するということは、本書をきちんと読んでいないことの証左にもなってしまう。 逆に安易な批判は嘲笑の的である。この本は、有り体な批判ならば全て飲み込んでしまう力がある。 だからどう書けばいいかわからないし、正解は書かないことかもしれないが、思うところは強烈なので書くことにする。 この本は僕にとっては一生ものになり得る。しかも、400ページを超える分厚い本であるが、その内の第四章と第七章、この2つだけでその価値がある。 この2つの章の底にあるのは、著者である森岡先生の個人的な経験・価値観であると思われる。しかし、ここが凄く響く。 この本全体がそうであるが、とりわけこの2つの章は読んでて気分が悪くなる。決して爽快な気分にはならない。手足を縛られ、無理矢理目を見開かされているような状態になる。第四章は特にそうだ。 第七章は絶望させる。森岡先生はハイデガーの議論によっては森岡先生自身が抱えていた「死への恐怖」を克服できないといい絶望したというが、僕にとってはその森岡先生の絶望こそが絶望的であり、ハイデガーを前にした森岡先生より更に絶望したと言えるかもしれない。 とにかく、良い本ではあるが気分は良くならない。読後の爽快感とか、蒙が啓ける感じとかは一切ない。そして「良い本」だと同定して済ますことへの罪悪感も抜け切らない。 どう処理していいかわからず、発売から10年近く経とうとしているので批判的なレビューも漁るが、クリティカルなものになっているとはあまり思えない。まいった。
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甘えるな、巻き込まれるな。 仏教の言葉でいう『自灯明、法灯明(マハー・パーリ・ニッバーナ・スートラより)』です。 痛みはあって然るべきもの。 生きることとは、痛みや苦しみとどう向き合うかであり、 良く生きることとは、痛みや苦しみを感じ、活かすことだ。 苦痛緩和という甘えが、社...
甘えるな、巻き込まれるな。 仏教の言葉でいう『自灯明、法灯明(マハー・パーリ・ニッバーナ・スートラより)』です。 痛みはあって然るべきもの。 生きることとは、痛みや苦しみとどう向き合うかであり、 良く生きることとは、痛みや苦しみを感じ、活かすことだ。 苦痛緩和という甘えが、社会を蝕んでいる。 それにしても、著者が(読者を含む)他者を見下している感がヒシヒシと、どころかガンガン伝わってくるところが凄い。 そう、この本は真正かつ神聖なるマゾの方の為の本です。
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