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権利のための闘争 の商品レビュー

4

40件のお客様レビュー

  1. 5つ

    12

  2. 4つ

    14

  3. 3つ

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2021/06/26

◯固めの論文を読んでいるような読み味だが、タイトルから既に著者の情熱が迸るように、熱い一冊。 ◯現代においてはもはや当たり前となっている個人の権利意識について、改めて歴史を刻むごとに勝ち得てきたものであることが分かる。主張しなければ権利はなく、法もないのだ。 ◯この点は、現代にお...

◯固めの論文を読んでいるような読み味だが、タイトルから既に著者の情熱が迸るように、熱い一冊。 ◯現代においてはもはや当たり前となっている個人の権利意識について、改めて歴史を刻むごとに勝ち得てきたものであることが分かる。主張しなければ権利はなく、法もないのだ。 ◯この点は、現代においても心得ておくべき考え方だと思う。争いを避け、平穏を第一とするのは良いとは思うが、それでは何も変わることはないのではないか。 ◯もうちょっとマイルドな表現で書かれても良さそうだが、著者の性格や権利が歩んできた歴史を思えば、こう言った表現の方がふさわしいのかもしれないと思った。

Posted byブクログ

2021/01/01

著者は、自身の権利を踏み躙られた者が、その権利のために闘うのは義務であると主張する。 そして、その闘いによって、法律に命を吹き込むという。 そして、国民の健全な権利感覚が、国家の健康を養う。 法律の背景に秘められた哲学、考え、歴史的背景などの一般人に説明された書を探しているが、...

著者は、自身の権利を踏み躙られた者が、その権利のために闘うのは義務であると主張する。 そして、その闘いによって、法律に命を吹き込むという。 そして、国民の健全な権利感覚が、国家の健康を養う。 法律の背景に秘められた哲学、考え、歴史的背景などの一般人に説明された書を探しているが、中々見つかっていない。

Posted byブクログ

2020/04/13
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

権利の侵害に対して、「激情によって荒々しく激しい行為というかたち」もあれば、「抑えの利いた、しかし持続的な抵抗のかたち」もあるが、両者に優劣は無い。しかし、前者の態度は野蛮人や無教育の者によるし、後者の態度は教養人によるものだ。つまり、優劣が無いんだから、できるだけ野蛮じゃないやりかたでいこう、と暗にさとされているかのようでもあります。また、名誉の権利を重んじる「将校のタイプ」、信用の権利を重んじる「商人のタイプ」、所有の権利を重んじる「農民のタイプ」など、権利感覚の敏感さは職業・身分によって違う。なぜかといえば、各々の生存条件が違うからだ、という説明も。ちなみに、自己の倫理的生存条件を権利というかたちで保持しない選択をすれば、(これは最初の方にちょっと書きましたが、)それすなわち奴隷になることを自認することになる、とイェーリングは述べている。権利を主張しないこと、権利のために闘わないことは倫理的自殺だ、とも。ただ、権利のためだとはいっても、自己を見失わずにいることは大切ではないか。

Posted byブクログ

2020/03/19

今後出てくるかもしれない、人格を備えた人工知能に特有の権利と責任は発生するのかという問題を考える上では、法学と哲学をちゃんと勉強しなければならないのではないかと思って読んでみた。

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2019/12/21

権利=法を実現するために闘争することは国や社会に対する義務であると説く。 権利とは人格であるというところ、秤なき剣は暴力に過ぎず、剣なき秤は無力であるというところが、熱い。

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2023/09/30

イェーリング『権利のための闘争』岩波文庫 読了。権利と法は相互依存。自分の権利を守ると同時に法律を守り、法律を守ると同時に国家共同体の秩序を守る。権利のための闘争は自身に対する義務であり、国家共同体に対する義務。重要判例にはしょーもない事件多いが、それこそが本質。権利感覚が必要。...

イェーリング『権利のための闘争』岩波文庫 読了。権利と法は相互依存。自分の権利を守ると同時に法律を守り、法律を守ると同時に国家共同体の秩序を守る。権利のための闘争は自身に対する義務であり、国家共同体に対する義務。重要判例にはしょーもない事件多いが、それこそが本質。権利感覚が必要。 2011/12/17

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2017/10/08

イェーリングは最初に論文の結論を述べ、それを展開して、各論に繋げる。よって、最初の二頁を読んで暗唱すれば、自ずと著者の言わんとすることは通じるかと思われる。もちろん、著者はそんな読み方を期待しているどころか、止めろと言うだろう。中国の古典ならいざ知らず、私の展開しているのは現実に...

イェーリングは最初に論文の結論を述べ、それを展開して、各論に繋げる。よって、最初の二頁を読んで暗唱すれば、自ずと著者の言わんとすることは通じるかと思われる。もちろん、著者はそんな読み方を期待しているどころか、止めろと言うだろう。中国の古典ならいざ知らず、私の展開しているのは現実に即した法理論なのだから、と。 しかしながら、私の短い書評では、その最初の部分を少し紹介して、而して、感想を述べるところまでが、私の役割だと思う。 曰く。 権利=法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。権利=法が不法による侵害を予想してこれに対抗しなければならない限りー世界が滅びるまでその必要はなくならないのだがー権利=法にとって闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争である。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である。 世界中のすべての権利=法は闘い取られたものである。重要な法命題はすべて、まずこれに逆らうものから闘い取られねばならなかった。またあらゆる権利=法は、一国民のそれも個人のそれも、いつでもそれを貫く用意があることを前提にしている。権利=法は、単なる思想ではなく、生き生きとした力なのである。だからこそ、片手に権利=法を量るための秤を持つ正義の女神は、もう一方の手で権利=法を貫くための剣を握っているのだ。秤を伴わない剣は裸の実力を、剣を伴わない秤は権利=法の無力を意味する。二つの要素は表裏一体をなすべきものであり、正義の女神が剣をとる力と、秤を操る技とのバランスがとれている場合にのみ、完全な権利=法状態が実現されることになる。(29p) 筆の多くは権利=法(レヒト)を運用するにあたり生ずる紛争の原理について述べているが、その前に大きな意味での「権利=法をつくるための闘争」についても、この原則が適用されるらしい。半分は当たり前のことを言っているようでもあるが、半分はかなり新鮮な指摘のようにも思える。またそうでなければならない。権利=法の運用とは、それだけ厳密でなければならないのだから。 権利=法が出来る時、諸国民は国家権力に多くは負けて来た。自由民権運動然り。最近では、秘密保護法、安保法制、共謀罪然り。しかし長い目で見れば、権利=法は、憲法の謳っている方向に「勝利」して来たのである。日本の国家権力は昭和22年世界の諸国民に負けて、国家権力の望まない権利=法を持った。よって、長い目で見ればいま日本にはその「反動」が来ているのかもしれない。やがてそれはアウフヘーベンされるだろう。なぜならば「秤を伴わない剣は裸の実力を」持たざるを得なくなるからである。但し、反動が来るまでに70年もかかったのだから、それを止揚するには、諸国民の闘争次第なのである。 2017年10月読了

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2017/02/21

著名な本ですが、きちんと読んでませんでした。権利のために戦うことで、法の生成・発展に寄与すると熱く語るもの。

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2014/10/13

闘争において汝のRechtを見い出せ__(これ、超カッコいい。。)……とかいいつつ、「健全な権利感覚」がイェリングの独断によって恣意的に設定されているのは何なのか。Rechtの内実が何であるのかについての考察が甘すぎると思う。

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2014/07/17

アドレナリン出まくり血圧上がりまくりの戦闘的法律論。 論旨は極めて明快。権利侵害に対して抵抗することは、権利者自身の義務であると同時に、国家共同体に対する義務でもある。なぜか。法は実際に運用されてこそ意味があるのであって、権利者が権利侵害に対して立ち上がらなければ法の形骸化は避...

アドレナリン出まくり血圧上がりまくりの戦闘的法律論。 論旨は極めて明快。権利侵害に対して抵抗することは、権利者自身の義務であると同時に、国家共同体に対する義務でもある。なぜか。法は実際に運用されてこそ意味があるのであって、権利者が権利侵害に対して立ち上がらなければ法の形骸化は避けられない。したがって、権利のための闘争は、自分の権利を守ることによって法一般をも防衛し、さらにそのことによって国家秩序も守られるのだとする(そもそもドイツ語のRechtは権利を意味すると同時に法という意味も含んでおり、権利のための闘争は同時に法のための闘争でもあるというイェーリングの主張もここに由来している)。 ただ、イェーリングは権利侵害に対する自力救済や過剰防衛をも正当化しているが(p.132以下)、この辺は勇み足だろう。こうなると、権利と権力と実力の区別が分からなくなってしまうし、結局は「強い者が勝つ」世の中になってしまいかねない。 各人が私的利害に基づいて自己の権利のために闘争することが結果的に共同体の利益にも資するとする議論は、その内包する問題点も含めて、どこかアダム・スミス的なレッセフェールと相似的である。

Posted byブクログ