最後の親鸞 の商品レビュー
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「知識」にとって最後の課題は頂きを極め、その頂に人々を誘って蒙を開くことではない。その頂から世界を見下ろすことでもない。頂きを極め、そのまま静かに「非知」に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の「知」にとっても最後の課題である。 親鸞には成遂できた思想が...
「知識」にとって最後の課題は頂きを極め、その頂に人々を誘って蒙を開くことではない。その頂から世界を見下ろすことでもない。頂きを極め、そのまま静かに「非知」に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の「知」にとっても最後の課題である。 親鸞には成遂できた思想が「知」の放棄の仕方において、確かにあったのである。 「称名念仏」と「浄土」へゆくという「契機」を、構造的に極限までひき離し解体させることである。 あらゆる計らいは如来の本願の方にあって、じぶんたち人間の方にはただ絶対に自力をたのまない態度しかない、---最後の親鸞を訪れた幻は、「知」を放棄し、称名念仏の結果に対する計らいと成仏への期待を放棄し、まったくの愚者となって老いた自分の姿だったかもしれない。 吉本の論考は深く、ついていくのが大変。最も本質的課題・視点を探り、突き詰めて思考する、そのドラマを無駄なく表現する天才である。彼を通した親鸞の「絶対他力」の思想について、何度読んでもキーワードを列記するくらいしかできない自分が歯痒い。 自らの読解力や思考の至らなさを痛切に思い知らされる。
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吉本隆明 「 最後の 親鸞 」 親鸞の思想的到達点を論じた本。著者は、親鸞を 宗教を解体した思想家と捉えているのだと思う 凄い本だと思うが、信心や宗派を解体した後の親鸞像は過激〜親鸞が廃人みたいに描かれている 親鸞が到達した思想は「面々の御計なり」 *念仏を信じ申すのも、棄て...
吉本隆明 「 最後の 親鸞 」 親鸞の思想的到達点を論じた本。著者は、親鸞を 宗教を解体した思想家と捉えているのだと思う 凄い本だと思うが、信心や宗派を解体した後の親鸞像は過激〜親鸞が廃人みたいに描かれている 親鸞が到達した思想は「面々の御計なり」 *念仏を信じ申すのも、棄てるのも皆さまの心にまかせるしかない *念仏が救いにつながるかはわからない〜しかし念仏だけが救いの条件であることを 私は信じているだけ 親鸞の到達した思想から紐解くと、親鸞の考える「救い」「現世」「浄土」「還相」が明らかになり、悪人正機説の意味が理解できる 著者の親鸞像の中で不明なのは「教行信証」を書いた理由〜読み落としただろうか? 親鸞が宗派信仰を放棄したのなら、野間宏 氏が旧仏教と戦うために書いたとした「教行信証」は 何の意味も持たないように思う。捨てる教理について 書くだろうか 最後の親鸞における「救い」 *絶対他力〜絶対他力にゆくには、知と愚が本願の前で平等でなければならない *非知に近づいてゆく還相の知 *聖者の救いではなく、浄土で仏となって現世へ還り救う 親鸞が法然を飛び越えた部分 *因果論の否定〜念仏を唱えることが善と考えない。善を積むから成仏できると考えない *現世肯定〜悪に満ちた この世そのものが救いにつながらなければならない *浄土へ往くことが救い(現世離脱の契機)を否定 *理(法然の専修念仏による他力説)によって 信(専修念仏の信)を支えることはできない 親鸞が考える「現世」 *契機(業縁)を中心に展開される不可避の世界 *現世と浄土を結ぶ契機は、構造であり、因果関係ではない 還相 *還相の視点〜煩悩や悪をまるごと救いとり、浄土への契機として読み替える *還相とは、悪に満ちたこの世の内部に浄土という救いに向かうための思想的虚構 悪人=自力に頼ることのできない人間
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親鸞が生きた時代がその思考を深めたのだろう。当たり前なのだろうが、改めての解説があったことで、少しだけわかったところだ。しかし、徹底した思想は、いつの時代にも通じる。
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親鸞の生涯については今なお不明な点が多く、その思想についても、弟子による聞き書きなどの断片を解釈するほかない。それらの断片を繋ぎ、撚り合せるようにして著者は「最後の親鸞」と表現する思想の体系を浮かび上がらせている。 絶対的な師であった法然の思想から離れ、野に下り市井の人々の間に...
親鸞の生涯については今なお不明な点が多く、その思想についても、弟子による聞き書きなどの断片を解釈するほかない。それらの断片を繋ぎ、撚り合せるようにして著者は「最後の親鸞」と表現する思想の体系を浮かび上がらせている。 絶対的な師であった法然の思想から離れ、野に下り市井の人々の間にいながら「非僧非俗」の生き方を通じて親鸞は、いわゆる「信心」すらも否定するかのような「非知」の考え方によって、いつしか「宗教」という枠組みからも解放され、悪人正機といった一見矛盾を孕むかのような思想を生みつつ、ついには「絶対他力」という"境地"に達する。 ここから何を学ぶのかというと、非常に難しいのだが、親鸞のアプローチは、もしかすると少し「U理論」に共通することがあるかもしれないと思っている。あるいはもっと単純化すれば、意図と創発、理論と実践とのバランスといった観点でも示唆が得られるかもしれない。決して読み易い文章ではないが、時々読み返したくなる一冊。
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※このレビューにはネタバレを含みます
[ 内容 ] 親鸞の思想は、直弟子たちの聞書きなどに書きとめられた言葉によって、死後はるかな時間をへだててしだいにその巨きな姿をあらわした。 非僧非俗の境涯に集約されるその知の放棄の方法はどのようなものだったのか?宗教以外の形態では思想が不可能であった時代に、仏教の信を極限まで解体し、善悪の起源とその了解について思考の涯まで歩んでいった親鸞の姿を、著者は全身的な思想の集注で描ききっている。 [ 目次 ] 最後の親鸞 和讃―親鸞和讃の特異性 ある親鸞 親鸞伝説 教理上の親鸞 永遠と現在―親鸞の語録から [ 問題提起 ] [ 結論 ] [ コメント ] [ 読了した日 ]
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とても大事なこと、はっとするようなこと、重く深いことが書かれているのはわかるのですが、読み手の知識と頭が足りずに理解しきれなかった感がしてものすごく自分にがっかりしてしまいました…。もう少し知識をつけて再読してみたいと思っているので、積読扱いで。
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浄土真宗という仏教の一宗派の宗祖というよりも、哲学者・思想家としての親鸞の思想の解体を試みている著作。弟子によって遺されている語録をもとに親鸞の思想・思索の経緯をなぞっている。難解な概念が多く、字面を眺めただけでは理解できない部分が多いが、ところどころ興味深い言葉がある。
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なんか、洋の東西を問わず人の思想って似てるもんなんだな、と思いました。 それにしても、親鸞はファンキー。
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この著者が最もこだわる親鸞だから、読んでおきたかった 宗教も哲学も男性のものだなって、つくずく感じる
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