身体の文学史 の商品レビュー
身体、脳と人間の心理…
身体、脳と人間の心理が江戸時代や明治時代の文学でわかるものなのだろうか。
文庫OFF
著者の身体論・脳化社会論の観点から、近代日本文学を論じた本です。 著者は、これまで文学プロパーにおいて論じられてきた「文学と道徳」や「文学と社会」といった対比よりも、さらに手前のところで、「文学と自然」という切断線を引き、近代日本文学の主流を「反自然」の領域に位置づけます。 ...
著者の身体論・脳化社会論の観点から、近代日本文学を論じた本です。 著者は、これまで文学プロパーにおいて論じられてきた「文学と道徳」や「文学と社会」といった対比よりも、さらに手前のところで、「文学と自然」という切断線を引き、近代日本文学の主流を「反自然」の領域に位置づけます。 芥川龍之介は、『今昔物語』の身体的なレヴェルの問題を、近代的な心理の領域に移し入れたと著者は論じ、ここに芥川が陥った隘路があると指摘します。また、三島由紀夫を身体を忘れた作家として規定し、彼の作品と割腹自殺を一つの視野のうちに収めるような見方を示しています。その一方で著者は、深沢七郎ときだ・みのるを、「自然」の側に近い作家として読み解こうと試みています。 著者の身体論・脳化社会論の切り口から見ることで、新たな風景が開かれてくるような分野を開拓した本だと思います。
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久しぶりに養老猛司さんの本を読んだ。 なんだか国語の説明文の読み取りをしているような感じ。「脳」をつかってなんとか理解へ近づく、ような。 今昔物語、芥川、三島由紀夫…。 「身体」にもう一度意識を向けよう、と最近よく聞くような。
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面白い。けど、難しい。 私の基礎知識が、自然主義って?心理主義って?、という状態だったので、着いていくのに必死でした。
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まったく身体のことがわかっていないんだと思った。 まいったなぁ~ ここにある身体自体がわたしの身体に違いないのだけれど。 まったく困ってしまった…
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近・現代の文学者たちの身体の扱いを考察したユニークな一冊。 いやぁ、おもしろかった~。 解剖学者ならではの視点で、芥川龍之介、夏目漱石、森鴎外などなどの文豪たちの身体観が、明治・大正などの当時の社会と結びつけられて語られます。 そして、この本の真骨頂は三島論。 三島の死について、彼自身の責任だけでなく、彼を止めなかった世間にも責任があるとする養老先生の指摘には優しさを感じました。 余談ですが、養老先生や某脳科学者は脳科学や心理学の知識を援用して論点を補完しようとするクセがあります。しかし、この本でも引き合いにだしている"サブリミナルな作業"について、その影響力は疑わしいというのがむしろ科学的な常識ではないでしょうか。 心理学や脳科学は、社会からの影響を受けやすいという点で、物理学などの客観的な科学とは異なります(心理学は科学ですらないとの見方もあるくらいですから・・・)。この点について、鵜呑みにしないよう読者は注意する必要があるでしょう。 養老先生のテーマは身体の抑圧です。身体が精神を規定している点を強調したいのだと思うので、言いたいことはわかりますが・・・。 身体・自然を排除する脳化社会は今後、どこへむかっていくのでしょうか? ますます、人工化・情報化が進む都市型の社会は、第二の三島・第二のオウム事件の可能性を増しているようにしか思えません。
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080904購入。080908読了。 芥川、鴎外、漱石、小林秀雄、大岡昇平、深沢七郎、石原慎太郎、三島らを「身体」の視点から論じている。あとがきで筆者が述べているが、本来の目的は三島事件とは何だったのかという点にあったらしい。三島までの論考を簡単にまとめると以下になる。まだ「科学...
080904購入。080908読了。 芥川、鴎外、漱石、小林秀雄、大岡昇平、深沢七郎、石原慎太郎、三島らを「身体」の視点から論じている。あとがきで筆者が述べているが、本来の目的は三島事件とは何だったのかという点にあったらしい。三島までの論考を簡単にまとめると以下になる。まだ「科学」のなかった中世における身体の認識は「九相詩絵巻」などの身体に対する冷静な描写に見てとれるが、江戸時代、身体は社会的身分の制定により、その疎外という状況に陥った。それを復興しようとした明治以降の文学は、漱石を始め「心」を中心にして展開されていく。芥川は「今昔物語」からの引用により「身体」を取り戻そうとしたがそれは「人工心理」に終わる。「プロレタリア文学」は身体性を思想で代用しようとした。疎外された身体は「軍」と「病院」に押し付けられ、私たちは「心の時代」を生きるようになった。 さて、肝心の三島の部分だが、三島を論じるうえで重要な要素は「身体」「ことば」「表現」で、この本の主要素が揃っている。まず著者は三島に関連する伝説を排除し、文学者としての三島を冷静に観察する。彼はこう言う。「表現主義(表現されるべきものが製作者の側にあらかじめあり、それが作品として成立する)」を持ち出し、彼の内面、個人的動機を論じることが多いが、単なる「表現」として、三島は「身体」を用いたのではないか。表現主義は私小説の名残で、三島における往年の多くの解釈はこの欠陥にひきずられている。 『その身体自身による最後の表現、それらを解釈する枠組みを、われわれはあらためて創り出さなければならないのであろう。』 ここに筆者の提言がある。脳化社会への言及である。 そして三島がこれを代弁する。ことばとは普遍妥当なものだと。それを精妙に裏切ることが言語芸術である。その代わりに身体をもちだした。ことばは身体に置き換えられない。 また、文学とは意識の産物で、社会や文化も意識の産物である。文学が個人的な営為であるというのは偏見で、社会的なものであると。 私たちは意識的になっている。文芸がコピーされるということは時代が進むにつれ発達し、それは新皮質の最も得意とする作業、アナロジーに通じ、すなわち「意識」である。言葉の限界と身体の時代の到来は来るのか。「太陽と鉄」を読んでみたい。
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文学が意識。脳的に・・・。諸説ありそう。ではその意識の中で『身体』の位置づけを近代以降の文学者がどのように行ったかを検証し、論じている。深沢七郎ときだ・みのるの章が一番面白いが養老センセイの大脳辺縁系文体は本を閉じたくなる人もいるはずの展開。最終的にリンクされてくるどこまでもどん...
文学が意識。脳的に・・・。諸説ありそう。ではその意識の中で『身体』の位置づけを近代以降の文学者がどのように行ったかを検証し、論じている。深沢七郎ときだ・みのるの章が一番面白いが養老センセイの大脳辺縁系文体は本を閉じたくなる人もいるはずの展開。最終的にリンクされてくるどこまでもどんどこいってしまう書き方。思わず頭に浮かんだのは宮崎監督の「天空の城ラピュタ」の巨木。あの木はまさに人間の脳幹から大脳の中を走る全ての血管を造影したときのイメージだけれど、養老先生の文章はまさにそれ。これが「バカの壁」かとひとりごちた(笑)
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