大衆の反逆 の商品レビュー
「大衆というものは、その本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなど及びもつかないことである」 「われわれがここで分析しているのは、ヨーロッパの歴史が、初めて、凡庸人そのものの決定にゆだねられるにいたったという新しい...
「大衆というものは、その本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなど及びもつかないことである」 「われわれがここで分析しているのは、ヨーロッパの歴史が、初めて、凡庸人そのものの決定にゆだねられるにいたったという新しい社会的事実である。あるいは、能動体でいえば、かつては指導される立場にあった凡庸人が、世界を支配する決心をしたという事実である」 「人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な欲求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である。」 「今日われわれは、明日何が起こるか分からない時代に生きている。そして、そのことにわれわれはひそかな喜びを感じる。なぜならば、予測しえないということ、つねにあらゆる可能性に向かって開かれているということこそ、真正な生のあり方であり、生の真の頂点というか充実だからである」 「十九世紀のような頂上の時代の安心感は、一つの視覚的幻想であり、その結果は、自己の方向を宇宙のメカニズムにまかせ、自分自身は未来に無関心になってしまう結果を招くものである。進歩主義的自由主義もマルクスの社会主義も、ともに、自分たちが視覚的未来として望んでいるものが、天文学におけると同じような必然性によって、まちがいなく実現されることを前提としている」 (この本が書かれた時代において)「サンディカリズムとファシズムという表皮のもとに、ヨーロッパに初めて理由を示して相手を説得することも、自分の主張を正当化することも望まず、ただ自分の意見を断固として強制しようとする人間のタイプがあらわれた。」 「・・・彼らは意見を主張しようとするが、あらゆる意見の主張のための条件とい前提を認めようとはしない」 「大衆人は、自分がその中に生まれ、そして現在使用している文明は、自然と同じように自然発生的なもので原生的なものであると信じており、そしてそのこと自体によって原始人になってしまっているのである」 「・・・文化の基本的価値など彼には興味がないのである。彼にはそうした価値に共同責任を負おうともしないし、その価値に奉仕する心構えもない」 「・・・(大衆人は)国家という組織が不安定なものであることに気づかないし、自己のうちに責任を感じるということがほとんどないのである」 「大衆人は国家を観て、国家に感嘆する。そして国家が現にそこにあり、自分の生を保証してくれていることを知っている。しかし彼は、国家は人間の創造物であり、幾人かの人間によって発明され、昨日までは確かに人間にそなわっていたある種の徳性と前提条件によって維持されてきたものであり、明日には雲散霧消しえtしいまうかもしれない、という自覚はもっていない」 「シュルレアリストは、他のひとびとが『ジャスミンとか白鳥とか半獣半人とか』書いたところに、書く必要もない一言を書きくわえ全文学史を彫刻したと信じ込んでいる。しかし彼がやったことといえば、今までゴミ捨て場にうち捨てられていたもう一つの修辞学をひっぱりだしてきた以外のなにものでもないのは明らかである」 「人間の生は、その本質上、何かに賭けられていなければならない」 「生きるということは、一方においては、各人が自分で自分のためになすことである。しかし他方においては、そのわたしの生、わたしだけにとって重要な生が、もしわたしがそれを何かに捧げているのでなければ、緊張も『形』も失い弛緩してしまうのである。近年、献身すべき対象をもたぬために、無数の生が自らの迷宮のなかに迷い込み消えていくという恐るべき光景を目撃してきた」 「創造的な生は、厳格な節制と、高い品格と、尊厳の意識を鼓舞する絶えざる刺激が必要なのである」 「今日、『ヨーロッパ人』にとってヨーロッパが一つの国民国家的概念たりうる時期が到来している。しかも今日そう確信することは、十一世紀にスペインやフランスの統一を予言するよりもはるかに現実的なのである。西欧の国民国家は、自己の真の本質に忠実であればあるほど、ますますまっしぐらに巨大なる大陸国民国家に発展してゆくことであろう」
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読書会の課題本。「古いなぁ」というのが正直な印象。現代日本に当てはまるという意見が最近多いようだが、個人的にはそうは思えなかった。訳注が全くなく、原著者が引用している文献についての説明すら全くないので、不誠実な翻訳だなとも思った。シュペングラーを読んで触発されて書いた著作のような...
読書会の課題本。「古いなぁ」というのが正直な印象。現代日本に当てはまるという意見が最近多いようだが、個人的にはそうは思えなかった。訳注が全くなく、原著者が引用している文献についての説明すら全くないので、不誠実な翻訳だなとも思った。シュペングラーを読んで触発されて書いた著作のようなので、読んでおかねばという気分に、少しだけなった。
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年をとってきたのか最近エキサイティングなことがあまりない。これは私個人に限ったことでなく世の中全体の風潮のようにも思える。我々は欲しいものはほぼ手に入れこの期におよんでこれ以上を何を望んでいいのかわからなくなってきたのではないか。かつて待望していた便利な「夢の」未来世界は既に訪れ...
年をとってきたのか最近エキサイティングなことがあまりない。これは私個人に限ったことでなく世の中全体の風潮のようにも思える。我々は欲しいものはほぼ手に入れこの期におよんでこれ以上を何を望んでいいのかわからなくなってきたのではないか。かつて待望していた便利な「夢の」未来世界は既に訪れてしまった感がある。この状態はオルテガの描いた何を目指すのかというビジョンを喪失した大衆社会にそっくりだ。大衆はもはや便利になってしまった世の中でそれを当然のように使い消費するのみだ。遺産を食いつぶすだけの存在だ。これはかなりヤバい状態になってきているにもかかわらずどうしようもないというのが今の自分の気持ちでもあるしオルテガのこの著書を支配するトーンでもあるように思える。
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http://kumamoto-pharmacist.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-a582.html
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スペインの哲学者オルテガによる1930年に発表された著作。 二つの世界大戦の間で、ファシズムが台頭しつつあったヨーロッパという環境下で書かれ、欧州各国でベストセラーになったと言う。 本書で著者は、 ◆社会は、特別の資質を備えた個人である「少数者」と、特別な資質を持っていない「大衆...
スペインの哲学者オルテガによる1930年に発表された著作。 二つの世界大戦の間で、ファシズムが台頭しつつあったヨーロッパという環境下で書かれ、欧州各国でベストセラーになったと言う。 本書で著者は、 ◆社会は、特別の資質を備えた個人である「少数者」と、特別な資質を持っていない「大衆」に二分され、「大衆」とは「自分に特別な価値を認めようとはせず、自分はすべての人と同じであるというふうに・・・他の人々と同一であると感ずることに喜びを見いだしているようなすべての人」である。「大衆」を生み出したのは「自由民主主義」と「科学的実験」と「工業化」であるが、1930年代のヨーロッパでは「大衆」が社会的権力の座に登った。 ◆社会はよりよく生きるための道具として国家を作ったが、国家主義の高まりにより、社会は「大衆」によって構成される国家のために生きなければならない矛盾に陥った。ファシズムとは、このような大衆人の運動から生まれたものである。 ◆また、世界中で台頭する「民族主義」は、歴史を形成してきた「創造的民族」(=ヨーロッパに反抗しようとする「大衆民族」の運動である。 ◆nation stateとは、独自の原動力、即ち成員に共通した自己の計画・共通性を持つ必要があり、ヨーロッパ大陸の諸民族の集団による、そのような一大nation stateを建設することのみがヨーロッパを強化し得る。 と述べている。 「大衆」に関する分析は普遍性を持っており、現代日本における政治・社会の根本的な問題を的確に表している。佐伯啓思が月刊誌『新潮45』で繰り返し取り上げる民主主義の課題がここにある(新書化され、『反・幸福論』、『日本の宿命』、『正義の偽装』で刊行されている)。 一方、「創造的民族」vs「大衆民族」という主張は唯物史観的な発想であり、違和感を覚える。 民主主義について考えるための、一つの視点を与えてくれる。 (2011年2月了)
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原著が書かれたのが1930年。訳書の初出が1953年、神吉訳が67年。そして神吉訳がちくま学芸文庫で再版されたのが95年、いま手元にあるのはその二十二版で2014年発行。 2015年になってから読んだ本書は、あと十数年で原著の出版から一世紀が経とうとしているが、未だに色褪せない...
原著が書かれたのが1930年。訳書の初出が1953年、神吉訳が67年。そして神吉訳がちくま学芸文庫で再版されたのが95年、いま手元にあるのはその二十二版で2014年発行。 2015年になってから読んだ本書は、あと十数年で原著の出版から一世紀が経とうとしているが、未だに色褪せないばかりか、今日の社会の様相をよく言い当てているという感じがする。 今日的に解釈しなおすべき部分があるとすれば、それは大衆の可視的な現象が都市の中だけでなく、インターネット上に現れているということである。大衆による無知の押し付け、私刑(リンチ)の執行は、見えない暴力として目に見える形で人を襲っている。技術によってインターナショナルになった世界はしかし、あくまで機械としての超国家(スーパーステート)を構成しているだけで、そこには何らの試みも、何の目標も計画も意志もない。だからテロリズム、ゲリラが容易に跋扈するのである。これらのものには目標があり、計画があり意志があるからだ。 オルテガのこの本は、論旨がやや雑駁であちこちに飛び、確固たる論理構成を持つというわけではないが、警句、箴言としては傾聴に値する。わかりやすいし。その意味で楽しく読ませてもらった。
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1930年の本だそうな。 当時のヨーロッパにおける国家、そして大衆の在り方について書かれた本だが、現代にも当てはまる事が多くて驚く。予言、と言ってもいい。 現代「大衆」とは何なのか。国家の中でどうあるべきなのか。 しかし難しかった‥
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2014 2/17読了。Amazonで購入。 古典をちゃんと読もう企画の一環で読んだ。 社会/国家/文明に自身が責任を負う態度を持たない、一方でそれらに保障される「権利」は当然のものと考える、大衆人が政治の主権を握ったことの問題を論じる本。 風呂に入りつつ読んでメモをとっていなか...
2014 2/17読了。Amazonで購入。 古典をちゃんと読もう企画の一環で読んだ。 社会/国家/文明に自身が責任を負う態度を持たない、一方でそれらに保障される「権利」は当然のものと考える、大衆人が政治の主権を握ったことの問題を論じる本。 風呂に入りつつ読んでメモをとっていなかったがこれもっとちゃんと読んだ方がいいな。科学への言及とかもある。
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有名な“大衆批判”の書。 大衆を批判できる者は、当然「自分は大衆の一人ではない」と自覚していなければならないはずだ。 どんな上から目線やねん……と“大衆根性”丸出しで読み始めたら、早々にねじまがった根性を叩き直されるような一文に遭遇。 (以下、引用) 『一般に「選ばれた少...
有名な“大衆批判”の書。 大衆を批判できる者は、当然「自分は大衆の一人ではない」と自覚していなければならないはずだ。 どんな上から目線やねん……と“大衆根性”丸出しで読み始めたら、早々にねじまがった根性を叩き直されるような一文に遭遇。 (以下、引用) 『一般に「選ばれた少数者」について語る場合、悪意からこの言葉の意味を歪曲してしまうのが普通である。つまり人々は、選ばれた者とは、われこそは他に優る者なりと信じ込んでいる僭越な人間ではなく、たとえ自力で達成しえなくても、他の人々以上に自分自身に対して、多くしかも高度な要求を課す人のことである、ということを知りながら知らぬふりをして議論しているのである。人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な要求をもたない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である』(pp17-18) ギャフン! 「エリート・貴族擁護」と批判されることもあったようだが、著者はむしろ「大衆を脱却して精神的貴族になろう」と読者に鼓舞しているのであり、本書の批判の矛先は(いわゆる社会階層上の)エリート・貴族にも向けられている。 ニーチェの超人思想に近いものを感じる。あくまで「個人の在り方」であった超人思想を社会論的に発展させた感じかな。異なるところは「他者・社会とのかかわり合い」を大前提としているところか。
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両大戦間に新聞投稿された「大衆」についての論考を1930年にまとめて刊行されたもの。主にヨーロッパの停滞が指摘され始めた時期に、ヨーロッパの現状と将来への警句として熱く訴えかけた作品となっているが、その核心部分は現代日本社会への批判の書としても引き続き有効と思えるほど示唆に富んで...
両大戦間に新聞投稿された「大衆」についての論考を1930年にまとめて刊行されたもの。主にヨーロッパの停滞が指摘され始めた時期に、ヨーロッパの現状と将来への警句として熱く訴えかけた作品となっているが、その核心部分は現代日本社会への批判の書としても引き続き有効と思えるほど示唆に富んでいる。 19世紀ヨーロッパでのデモクラシーと科学技術により形成された「文明」である近代社会は、かつて少数な支配者層しか享受できなかった利器を大衆にもたらした。こうした文化、生活水準、財産の均等化にみられる歴史的水準の向上は、「時代の高さ」「生の増大」と表現できるが、一方において過去規範から断絶し水準上昇過程も知らない世代、大量の「大衆」を生みだした。 そうした「大衆」は、自らの権利を主張することしかせず、自らの生の方向性を決めることもせず、自分が存在する高度で豊かな環境はあたかも自然に与えられたものと錯覚し、それを生み出し維持してきた才能に感謝することもせず、自分より優れた者に耳を貸さず、不従順で自己閉塞的な「未開人」であるという。また、「大衆」は人間社会における諸手続や規範、礼儀、正義、道理などを切り捨て、「直接行動」(=暴力など)をすぐに選択してしまうといい、こうした愚者は現在の位置に安住するため、「バカは死ななければ治らない」と厳しく処断するのである(付け加えていえば、科学者の専門バカ化も「大衆」化だとする)。そしてその「大衆」に支配される近代社会は、「慢心しきったお坊ちゃん」の時代だというのである。 こうした「大衆」が社会的権力を持ち支配することは危険であり(=大衆の反逆)、少数の質が高い「真の貴族」(門地という意味ではなく)が社会の方向性を指し示す社会を対局に置く。ここでオルテガが提示した「大衆の反逆」からの脱出の処方箋は、「歴史意識」を再生した上で「時代の高さ」に合った社会的生の形式の選択、具体的には未来への共通計画を共有する「国民国家」の創出、当時席巻していたボルシェヴィキズムでもファシズムでもない、ヨーロッパ統合国家を提唱するのである。 当時のスペイン社会の停滞から、政治活動にも力を込めたという哲学者オルテガらしい現代社会への鋭い警鐘と将来へ向かうべき方向性の熱弁であったと思う。現代社会にも思い当たる事象をいまだ多分に含み、また、結果としてボルシェヴィキズムとファシズムの淘汰、ヨーロッパ連合(EU)の誕生も視野に入っていたその論考は、「歴史」を過去のものとせず未来への方向性を示すものとしたオルテガの、哲学にて社会牽引する意識を強烈にあらわすものと言えるだろう。(ただし、ヨーロッパの停滞が世界の支配層を失くしたが、それに代わるものはアメリカ合衆国でもソビエト連邦でもなく、ヨーロッパ統一国家であるという文脈であり、先鋭化すると国家の個人への過大な介入という方向性を持ちかねない危うさも感じる) 「大衆」の基本性質については、現代人とりわけ現代日本人が読んでも思い当たることが多くあるのではないだろうか。身近で例えて恐縮ではあるが、このブクログでのいろいろな評価、特に歴史的著作物への極端に低い評価に出会うと、オルテガのいう「大衆」の格好の適用例ではないかと感じる。当然ながら主観の入らない評価やレビューはあり得ず、そこはどのように表現・評価しても全く自由であるのだが、それを良いことに歴史的時間軸の現地点でのみにしか立脚せず、己の現在の理解力でのみ判断している「大衆」評価は苦々しく思う。過去より蓄積されてきた英知に敬意を払っても自らを貶めることにはなるまい。だが逆に、そのような評価・レビューがまだ少数であり、著作物に真摯に向き合っているレビューが多いことも一方にある限りにおいて、このブクログでの集合知を信じる自分としては、全体としてそれなりの評価水準になっていることに少し安心感も持っている。「大衆」からの脱却は個人の意識の課題でもあり、現代を生きる「個人」として真摯に意識されるべきだろう。
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