商品詳細
| 内容紹介 | |
|---|---|
| 販売会社/発売会社 | 春秋社 |
| 発売年月日 | 2025/06/18 |
| JAN | 9784393134726 |
- 書籍
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人生というクソゲーを変えるための仏教
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人生というクソゲーを変えるための仏教
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商品レビュー
3.5
4件のお客様レビュー
人生をクソゲーとか言っちゃう?(苦笑) ドイツ人僧侶が語る仏教、ほぼ自分語りなんだけど、自分語り(自分を知ること)こそが仏教なのだそうだ。 P47 そろそろ「仏教の話かと思ったら、お前自身の話ばかりじゃないか」というお声が聞こえそうです。実は今までも、あちらこちらの講演会の際に...
人生をクソゲーとか言っちゃう?(苦笑) ドイツ人僧侶が語る仏教、ほぼ自分語りなんだけど、自分語り(自分を知ること)こそが仏教なのだそうだ。 P47 そろそろ「仏教の話かと思ったら、お前自身の話ばかりじゃないか」というお声が聞こえそうです。実は今までも、あちらこちらの講演会の際にそう言われたことがあります。正直に言って、私にはとても理解しがたいフィードバックです。「仏教の話かと思ったら、「仏の教え」の話に過ぎなかった」というご批判なら、わかります。第三者としての「仏」の教えになんか、私だってうんざりしています。仏教とは、しょせん自分自身のことです。なぜこの世に生まれたかということも分からないこの私自身がいかに生き、いかに死に臨むか…それこそ仏教のテーマであったはずです。仏教の話の主人公はお釈迦さまでも阿弥陀様でもダメです。自分以外に、誰を主人公として仏教を語ればよいのでしょうか? 自分が主人公だからこそ、釈尊は弟子たちに「自己を拠り所とせよ」という教えを残し、この世を去ることができたのではないですか?鎌倉時代に、道元は「仏教をならふというは、自己をならふなり」と言い、自分のあり方を仏教のメイン・テーマと見なしたし、親鸞は阿弥陀如来の他力本願を「ひとえに親鸞一人がためなりけり」、ほかでもなく自分一人のために立てられたものとして受け止めました。 そうなんだ@_@ 自分の言葉で語ってくれているので、より思いが伝わってくるように感じ、読みやすく面白かった。 (…後半以降の本格的?な仏教の話は正直よくわからなかった(^^;;)
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ネルケさんといえば曹洞宗のドイツ人。 ひたすら座禅を組むことでの人生の救いというか悟りを求めて、ホームレスになったりしちゃったお方。 小難しい仏教、特に浄土真宗以降の禅宗になってからは、悟りとはなんぞや、経文を唱えたからだからどうしたとなって、一般人には分かるようで分からない、そ...
ネルケさんといえば曹洞宗のドイツ人。 ひたすら座禅を組むことでの人生の救いというか悟りを求めて、ホームレスになったりしちゃったお方。 小難しい仏教、特に浄土真宗以降の禅宗になってからは、悟りとはなんぞや、経文を唱えたからだからどうしたとなって、一般人には分かるようで分からない、そんな感しかなくなって。 分かるようで分からない、でも分かった気になる高尚なものってのは、すごくエリート層を掴みやすくて、そういうところがエリート層に禅が流行る理由なんだろななんて思うひねたド庶民の僕には、正直難しかったです。 ひたすら座って、只管打坐言ってる人より、 毎朝近所を犬の散歩がてらゴミ拾いしてる人の方が余程涅槃に行ってもらいたいし、 この本も「人生というクソゲー」に例えちゃってる俺ちゃんスゲーにも見えちゃって、やはり、しっくりは入ってこない。 仏教ムズい。 でもやはりなんか気になる。 そんな方々へ、この本、一般人にはとっつきにくい専門用語ばかりで、かなーりややこしいのと、で、結局なんなん?!なりますよー まだまだ僕は瞑想したところで迷走。
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遺伝子という自己増殖と永続を性質とする「ミーム」の果てに生まれた「ヒト」という種は、さまざまな「ツール」を生み出し、今日の大繁栄を築きました。ただその繁栄の立役者である「言葉」という別種の「ミーム」は「私という現象」であるところの「意識」とか「心」とかいうものを覚醒させてしまい、...
遺伝子という自己増殖と永続を性質とする「ミーム」の果てに生まれた「ヒト」という種は、さまざまな「ツール」を生み出し、今日の大繁栄を築きました。ただその繁栄の立役者である「言葉」という別種の「ミーム」は「私という現象」であるところの「意識」とか「心」とかいうものを覚醒させてしまい、私たちは現象だてらに過去や未来に囚われ、「生老病死」という苦しみに満ちた「ゲーム」の「プレイヤー」としても覚醒してしまった。釈迦の試みは、タイトルにあるようなこうした「クソゲー」を降りるというよりは、なんとか折り合いをつけようとしてはじまったのかな、と思いました。まあ脳神経系というハードウェアと、社会や文化というソフトウェアがネガティヴベースで構成されている以上、ポジティブも中庸もなかなか難しいのです。ただ「今、ここ」でいられる時間が、人生の中に多く持てるよう、工夫をしていきましょう。
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