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原敬 「平民宰相」の虚像と実像 中公新書2660
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原敬 「平民宰相」の虚像と実像 中公新書2660

清水唯一朗(著者)

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原敬 「平民宰相」の虚像と実像 中公新書2660

990

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 中央公論新社
発売年月日 2021/09/17
JAN 9784121026606

原敬

¥990

商品レビュー

4.1

10件のお客様レビュー

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2025/10/14

原敬の評伝。新聞記者、外務官僚を経て政党政治家に。政党政治家のイメージが強かったが、まだ人事制度が流動的だった時代とはいえ1895年に39歳で外務次官になる程の能吏だったようである。 第一次西園寺内閣で内相として、元老山縣有朋に郡制廃止を挑むも敗北する。だが、山縣に勝負を挑んだこ...

原敬の評伝。新聞記者、外務官僚を経て政党政治家に。政党政治家のイメージが強かったが、まだ人事制度が流動的だった時代とはいえ1895年に39歳で外務次官になる程の能吏だったようである。 第一次西園寺内閣で内相として、元老山縣有朋に郡制廃止を挑むも敗北する。だが、山縣に勝負を挑んだことで、原は官僚ではなく政党人としてのイメージを獲得する転換点となった。 ライバル松田正久の死もあり、政友会を完全に掌握すると寺内正毅の後を受けて総理大臣に就任。外相、陸海相以外の閣僚は全て政友会から出す「初の本格的政党内閣」であった。原の総理大臣就任は地元盛岡の人にとっては戊辰戦争の賊軍の汚名を返上するものとしても歓迎された。原自身も南部藩敗北時には当時12歳で戊辰戦争の記憶がまだ世間には残っていたことが窺える。 1920年の総選挙では原率いる政友会は圧勝したが、圧勝したが故に世間は政府与党への目線が厳しいものとなり、原の政権運営を難しくした。暗殺直前は皇太子の摂政就任とワシントン会議に執念を燃やしていたようだが、残念ながら亡くなってしまった。 本書の著者の清水唯一朗が編著を務めた『政務調査会と日本の政党政治』との関連性も感じられた。原敬記念館が盛岡にあるようなので、いずれ行ってみたい。

Posted by ブクログ

2024/12/22

 1856年(安政3)賊軍南部藩の家老格の次男として生まれ、明治9年20歳にして司法省法学校に入校するも12年退校処分に、同年11月郵便報知新聞社に入社、15年4月大阪の大東日報に入社したが同年10月退社、帰京後11月には外務省御用掛に。19年にはパリ公使館書記官としてパリ着任、...

 1856年(安政3)賊軍南部藩の家老格の次男として生まれ、明治9年20歳にして司法省法学校に入校するも12年退校処分に、同年11月郵便報知新聞社に入社、15年4月大阪の大東日報に入社したが同年10月退社、帰京後11月には外務省御用掛に。19年にはパリ公使館書記官としてパリ着任、22年帰国後農商務省勤務に、大臣の陸奥宗光に出会う。25年3月陸奥とともに辞職するも8月には外務省に復帰し通商局長、日清戦争後の28年には次官に。29年6月在朝鮮特命全権公使と、官界の階段を上りつめる。  公使を退き次の途は、30年9月大阪毎日新聞社に編集総理として入社、31年9月には社長に。33年11月同社退社、立憲政友会に正式入党。12月、市議会汚職事件のため辞職した星亨逓相に代わり、第四次伊藤内閣の逓相として発入閣したものの、翌34年5月内閣は総辞職。35年8月衆議院総選挙に郷里盛岡市選挙区から出馬し初当選。  その後、政友会における原の存在感は上昇していき、西園寺総裁の後を継いだ原は、大正7年ついに組閣の大命を受け首相に就任、平民宰相と呼ばれたことは有名な話。  著者も言及しているが、上記の経歴を見て分かるとおり、新聞人、官僚、経営者、政党人と様々なキャリアを経て首相となり、初の本格的政党内閣を樹立した原であっが。彼がこのようなキャリアの途を歩むことができたのも、まだまだ若々しく多岐の可能性を許容した初期明治国家の下であったからだろうと思われる。  原については最近とみに評価が高くなっているが、原の歩んだ軌跡とその考え方をバランスよく記述しており、信頼できる好著だと思います。

Posted by ブクログ

2024/06/29

原本人は政治信条として普選法導入には否定的ではなかったが、ロシア革命等々の盛り上がりによる天皇制の危機を回避するために普選法導入に反対したと。 個人的には原敬の最大の謎ではあったのだが、「日記」にそう書いてあったということか。それが本音かどうかはわからないが。

Posted by ブクログ