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デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂
3,080円
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商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | PLANETS/第二次惑星開発委員会 |
発売年月日 | 2018/06/15 |
JAN | 9784905325093 |
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デジタルネイチャー
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デジタルネイチャー
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商品レビュー
3.9
38件のお客様レビュー
本書のタイトルのデジタルネイチャーとは、ユビキタスコンピューティングやIoTといった、現在のあらゆるところにネットワークがあり、様々なものがネットワークに接続されている状況からさらに先の、あらゆるものがデータとして計数され、人工と自然の区分のなくなったような未来像を表す言葉である...
本書のタイトルのデジタルネイチャーとは、ユビキタスコンピューティングやIoTといった、現在のあらゆるところにネットワークがあり、様々なものがネットワークに接続されている状況からさらに先の、あらゆるものがデータとして計数され、人工と自然の区分のなくなったような未来像を表す言葉である。 本書に書かれるようなユートピア的な面が実現されるかはともかくとして、現在はその途上にあると感じたところもあるのだが、 以前に1度読んでいて、また読み返そうと思ったのは、生成AIがここまで一般になった今、END to ENDという言葉が、事象が事象に変換され、始端と終端だけで中間の意識されない状態が、生成AIを使っている感覚にぴったりときたからなのだが、 その点やっぱりその時先端を行っていたような人は、こうなることを知っていたのかなと思うくらい、以前に読んだときよりも今の状況に近いことを言っているようにも思う。 AI忌避やAI禁止を言う人をよく見る。 みんながAIを使わない時代にAIを使うのは、利得を得やすい。 AIが当然となっていくなかで、使わないという選択肢は、AIにない強みに特化していくのなら、利得を得られるだろうが、 現状が過去の遺物となりゆく中で、過去の遺物にすがるだけで、新たな強みを作っていかないのなら、 ただ衰退していくだけだ。
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いきなり余談だが、今となってはカルト的な人気を誇るアニメ作品「serial experiments lain」をリアルタイムで視聴したことは、私にとって計り知れないインパクトだった。インターネットが家にない時代の高校生が受けた衝撃を想像してほしい。しかし同時に、ワイヤードと呼ばれ...
いきなり余談だが、今となってはカルト的な人気を誇るアニメ作品「serial experiments lain」をリアルタイムで視聴したことは、私にとって計り知れないインパクトだった。インターネットが家にない時代の高校生が受けた衝撃を想像してほしい。しかし同時に、ワイヤードと呼ばれるネット世界と、リアルワールドすなわち現実世界との境界が溶解してしまうという事態が、一体どのようなテクノロジーによって顕現しうるのかという疑問は残り続けた。明日の予報が昨日の天気となる。本書はそれにひとつの解を見出したと言ってよい。 われわれの外部には、確乎として世界が存在する。そのような表象をわれわれは持つ。しかしそれは、どこまでも表象にとどまる。われわれは感覚器が捉えたものを世界と認識しているが、それは私たちの外側に世界(著者の言葉でいう自然)が存在する証拠とはならない。われわれヒトは感覚器─神経系という機構を通してしか、外部を知り得ない。ならば、世界が本当に存在するのか、それとも脳へのインプットがあるだけなのか、区別することもまたできないのだ。 たしかに、乗組員が氷山を発見しようとしまいと、それにぶつかればタイタニック号は沈んでしまう。それは氷山という「世界」が存在することの証左ではないのか。だが、飛来する隕石も地球に衝突せず観測もされなければ、われわれにとって「存在しない」のだ。 要するに、「デジタル」という仮想も、現実と同じだけの周密さと重みがあれば、人間にとって両者は同じものなのである。それが表題となっている「デジタルネイチャー」すなわち、デジタルと自然の融合である。 これを攻殻機動隊のようなサイエンス・フィクションだと思わないでほしい。現在だって、ジェット機は窓から見える光景ではなく、計器が知らせる数値によって操縦されているではないか。つまり、パイロットにとってはすでに、数値は世界と同義なのだ。テクノロジーがさらに進化を遂げれば、人間が本質的に変革される可能性もなくはないだろう。それを楽園の到来と感じるか、ディストピアと感じるか。著者にとっては前者らしい。
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方向音痴の私にとって、はじめて行く場所ではGoogleマップが欠かせない。とくに地下鉄の駅から上がった後では、文字通り右も左もわからない。スマホ画面上の青い点がどちらに動くかを見て、自分が正しい方角に向かっているかどうかを判断するしかない。 そんなとき、私は自分が現実の道路を歩い...
方向音痴の私にとって、はじめて行く場所ではGoogleマップが欠かせない。とくに地下鉄の駅から上がった後では、文字通り右も左もわからない。スマホ画面上の青い点がどちらに動くかを見て、自分が正しい方角に向かっているかどうかを判断するしかない。 そんなとき、私は自分が現実の道路を歩いているのではなく、本当はGoogleマップの中を歩いているのではないかと錯覚することがある。つまり、感覚器を通して捉えられた世界よりも、この仮想空間の方がはるかに「信頼できる現実」なのだ。このような仮想と自然(現実)の融合を、著者は「デジタルネイチャー」と呼ぶ。 私は昔、「ヴァーチャルは現実を超えるか」というエッセイを書いたことがある。現実以上に精緻なヴァーチャルが出現したら、価値基準においてヴァーチャルは現実より上位になるのだろうか。そのような疑義を投げたのである。しかし、ヴァーチャルと現実が融合してしまうという可能性には思い至らなかった。著者の洞察力は評価に値する。 本書はデジタルネイチャーの系譜と、それがもたらす未来を論じた本である。これを絵に描いた餅と一蹴するのは拙速だろう。たしかに、著者は私よりも若いが、本書に書かれていることの少なくとも半分は、生きている間には現実化しない公算が高い。だが残りの半分は、われわれが議論している間に現実となってしまうだろう。だから、これらはもはや「今後どうすべきか」という話ではない。いま考えて当然の話なのである。終章で触れられるような、身の回りの技術への応用という面でも著者の活躍を期待したい。 さて、これだけ褒めたのだから、悪口も書かせてもらおう。 読む前から「どうせ気障ったらしい文章を書くんだろうな」とは思ったが、想像以上に想像通りでむしろ笑った。 うんざりするほど脚注が多く、左側のページはつねに脚注があると言っていい。要するに、この本の3分の1は「いま言わなくていいこと」である。実際、ググれば済む程度のことしか書いていなくて、本当に紙の無駄だ。 シラーの詩を原語で引用しながら訳出していないのは、「僕はこのくらいのドイツ語は読めるんですよね。みなさんは読めないでしょうけど」とでも言いたいのか。著者は出典を電子版シュピーゲルのURLしか記載しておらず、リンクが切れているので何を見て書いたのかは知るすべがない。だが、この詩はシラーがデンマーク王子に宛てた書簡が原典と言われており、こんなマイナーな詩をわれわれが知っているのは、みなとみらい駅に設置された巨大なパプリックアート「The Boundaries of the Limitless」に刻まれているからである。 つまり、ドイツ文学者でもない著者がこの詩を知っているのも、このアートを見たからと考える方が蓋然性が高い。だったらなぜ素直にそう書けないのか。もしかするとGoogleで検索してヒットしたページを参考文献として記載したのではないか。シラーをドイツ語で紹介するなら、なぜヴェーバーやマルクスは同様にしないのだろう。私は著者にドイツ語の知識があるのかさえ疑っている。まあ、フリードリッヒ「フォン」シラーなどと書いている時点で、シラーを読んでいないのもバレバレだが。 本書の内容を十全に理解しているという自信は私にはない。だが上の一事だけを見ても、著者の該博な知識が張りぼてのスノビズムではないかという疑念を抱かせるに十分だ。 内容は面白い。ただし、文章力が大学生のレポート並みだ。せっかく中身のあることを書いているのだから、カッコつけるよりもまず誠実な文章を書け。それなら他の著書も読んでやらないことはない。
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