商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | コモンズ |
発売年月日 | 2016/06/01 |
JAN | 9784861871290 |
- 書籍
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生命を紡ぐ農の技術
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生命を紡ぐ農の技術
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「有機農業なんてなくなればいい」と、有機農業運動の祖である一楽照雄が主張していたといえば驚きだろうか。 というのも、ここでいう「有機農業」は技術体系としてのそれではなくて、「無機肥料施用を前提とした慣行農法へのオルタナ」という立ち位置を示す「有機」という呼称そのもののこと。我が...
「有機農業なんてなくなればいい」と、有機農業運動の祖である一楽照雄が主張していたといえば驚きだろうか。 というのも、ここでいう「有機農業」は技術体系としてのそれではなくて、「無機肥料施用を前提とした慣行農法へのオルタナ」という立ち位置を示す「有機」という呼称そのもののこと。我が功を成すよりも、その考え方が普遍的なものとなって自分たちの名など雲散霧消してしまえばいい、というのがこの発言の意味するところである。 「(戦争がなくなって)廃業するために仕事をしている」と言ったロバート・キャパに似ているかもしれない。とはいえ相変わらず戦争はなくなっていないし、国内の有機の作付面積は1%にも満たないけれど。 で、そもそも「有機農業」とはなんだろうか。 有機物=堆肥を施用していればそれだけでいいのかというとそれは違う。でもひとつひとつ切断して評価できるほど、"現代科学"に即したものでもなさそうだ。経験のない者からすれば捉えどころのない、もやっとした総体にも見える。知識の積み上げというよりも、体験の蓄積がものをいうような。 そんな「有機農業」の定義について、またまた明峯先生の論考から長めの引用。これを読めば少しは掴めるかも。最後は結局おやじギャグですが。お茶目な人だったのかな。 明峯哲夫(2016), 生命を紡ぐ農の技術(コモンズ), p.284 「英語圏でいう"organic agriculture"を"有機農業"と訳したのは、ある種の"誤訳"だった。"organic"とは確かに"有機的"という意味だが、"有機的"と表現することで"有機物"つまり"堆肥"とイメージされ、organic agricultureが単なる堆肥施肥理論として矮小化される危険性があった。"organic"とは別の表現で言えば"組織的"、"相互規定的"ということだ。このように表現すれば矮小化は避けられる。有機農業は生物同士、あるいは生物と非生物との相互規定性を基本原理にした(システムとしての)農業理論だからである。そして六〇年代に確立する近代農業(工業農業)は、まさにこの生物同士、生物と非生物との相互規定性を切断するのが本質だった。とはいえそのようなことから"有機農業"ではなく、"組織農業"、"相互規定農業"などと訳したならば、一般の人にはますます分からなくなる。結局"有機農業"というネーミングは悪くなかったのかもしれない。 二〇世紀、特にその後半は人類史上特筆すべき時代だった。この時代人類は石油を掘り当て、その大量消費に明け暮れた。すべてが石油漬けにされたのである。農業もまたそうだった。一九世紀以前は石油未発見の時代であり、二一世紀以降は石油が不足しやがて枯渇する時代である。その意味で二〇世紀は、人類史を石油以前、石油以降に分ける分水嶺の時代だ。 石油未発見の時代、農業は人力・畜力に依存していた。世界各地に根付いたそれらの多様な農業は一括して伝統的(traditional)農業と呼ばれる。20世紀その伝統的農業を破壊するように近代農業、つまり石油に依存する工業的(industrial)農業が発展する。二一世紀に入った現在でも子の二〇世紀の慣行(conventional)農業はなおもメジャーな位置を占めているかに見える。 この近代農業を批判するものとして提案されたのがorganic agriculture、すなわち有機農業だった。有機農業はそもそも対抗的(alternative、もうひとつの)農業だったのである。近代農業つまり"無機"農業に対抗するため、有機農業は"有機"を強調する必要があった。"有機"という形容詞に意味があったのは、それが対抗的であればこそだった。有機農業というネーミングは、自らが"もうひとつの"農業であることを自己主張するものだった。だからそのネーミングにこだわっている限り、農業の主流にはなれない。 日本の有機農業運動の先駆者であり、"有機農業"の命名者である一楽照雄は、日本有機農業研究会を結成する呼びかけ(一九七一年)の中で、「正しい農業あるいは本当の農業、あるべき農業の形なのだから本当は有機農業という言葉自体がなくなることが望ましい」と述べている《桝潟 二〇〇八》。有機農業が"もうひとつの"農業から、主流に脱皮することを願い、"有機"をはずす"勇気"を必要とする時が近づいているのかもしれない」
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