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「花祭り」の意味するもの 早川孝太郎『花祭』を超えて
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 岩田書院 |
発売年月日 | 2015/09/01 |
JAN | 9784872949292 |
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「花祭り」の意味するもの
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・山崎一司「『花祭り』の意味するもの 早川孝太郎『花祭』を超えて」(岩田書院)は 先の「花祭りの起源ー死・地獄・再生の大神楽」の続編であらう。「あとがき」に「当初この二書は一書にまとめて出すことを予定していた云々」(315頁) とあるやうに、本来はこれで花祭考察の一書であつた。実...
・山崎一司「『花祭り』の意味するもの 早川孝太郎『花祭』を超えて」(岩田書院)は 先の「花祭りの起源ー死・地獄・再生の大神楽」の続編であらう。「あとがき」に「当初この二書は一書にまとめて出すことを予定していた云々」(315頁) とあるやうに、本来はこれで花祭考察の一書であつた。実際、密接に内容は関連してをり、本書ではほとんど常に大神楽(おほかぐら)に触れる。花祭が大神楽から生まれたからには、その母胎たる大神楽を除いての説明は不可能である。本書の副題は「早川孝太郎『花祭』を超えて」である。あの大著、名著を超える、 これは容易ではなからう。しかし、名著だとて問題はある。「『花祭』は花祭りの詳細な状況報告、あくまでもモノグラフであって、今日的視点で見れば、『どういう意味をもつ祭りか』という考察がほとんど行われていなかった」(「はじめに」6頁)のである。ごく大雑把に言へば、本書はその花祭の「意味」を、根 本に大神楽を据ゑて、そこから考察しようとする書である。 ・筆者の考への基本は修験道である。これまで花祭には伊勢神楽の影響がある等と言はれてきたが、さうではなく修験が大神楽とその短縮版たる花祭を創始した といふのである。筆者は花祭を大きく4つに分ける。神招ぎ、神遊び、演能、神返しである。最初と最後の神事に挟まれて、舞があり、鬼や翁の演能があるとい ふ流れである。鬼や翁を単純な舞としてみることに、私も違和感を持つてゐた。これを筆者は演能とする。これは修験の教へや力を村人に視覚的に分かりやすく 教へるためのものだといふ。その良い例が豊根村曽川の、現在は豊橋市の御幸神社に残る爺婆のかまけわざもどきである。あれで(生まれ清まりの)生まれを教へてゐるのである。鬼も問答によつて修験の力と鬼の力を見せる。花祭だけを見てゐては、大神楽を知らない人間には示すことのできない視点、考へである。大体、大神楽の鬼は山見鬼であつたといふ。山見鬼は大神楽の白山見物をする鬼であつた。これには問答があり、これは修験道の教義に関はるといふ。この問答、 かつては曽川で行はれたが、今は御幸神社に伝へられてゐる。榊鬼は山見鬼に倣つて後に生み出された鬼で、「中央の権力によって郷主の地位を追われ、村内における力を削がれた修験ではあったが、花祭り誕生を機に、その験力を再度示威し、村内における地位を保持しようとした」(267頁)時に生まれたといふ。 だからここにも問答があり、鬼は榊引き等で(修験に)負けるのである。この後のヘンベ(反閇)もまた本来は榊鬼のものではなかつた。「鬼の中核的な所作は鉞を振るい、邪を退ける舞にあった」(265頁)のであつて、ヘンベは意味を変へて他のを流用したものでだといふ。さうして伴鬼、これは要するに地獄の鬼 であつたらしい。白山、つまり地獄で生まれ清まる人々を苛めるのである。これらのかなりの部分に修験の関与がうかがはれるらしいのだが、私はそんな気がするといふ程度でしかない。神寄せや神返しを見ても、そんなのはいくつもある。しかも、異なる次第で同様の詞章が繰り返される。これも「繰り返すことによっ てその有効性がさらに高められるとする修験道儀礼の思想が窺える」(185頁)といふことで、繰り返しの有用性は舞における所作の繰り返しとともに花祭の 大きな要素であるらしい。そんなわけで、私には筆者のいふ修験道と花祭の関係に肯くことしかできないのだが、実際、あそこから修験道の要素を排除したら何が残るのかと考へると、逆に修験道の重要さが知れる。その意味で、本書は「花祭」を超えることができてゐるのかと思ふ。いかがであらう。
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