商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 筑摩書房 |
発売年月日 | 2015/03/01 |
JAN | 9784480096647 |
- 書籍
- 文庫
日本の哲学をよむ
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日本の哲学をよむ
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3.8
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西田幾多郎を中心とする京都学派の哲学者から、西田の他に田辺、和辻、九鬼、三木といった個性的な面々を選び、「無」をキーワードに分かりやすくコンパクトに解説しており、この手の入門書としては出色の出来と言える。特に西田が自己の哲学体系を自ら何度も否定し、乗り越え、深めて行くプロセスを、...
西田幾多郎を中心とする京都学派の哲学者から、西田の他に田辺、和辻、九鬼、三木といった個性的な面々を選び、「無」をキーワードに分かりやすくコンパクトに解説しており、この手の入門書としては出色の出来と言える。特に西田が自己の哲学体系を自ら何度も否定し、乗り越え、深めて行くプロセスを、これだけの小著で明快にあとづけた手腕は見事である。 しかし本書全体を貫くモチーフにはどうしても違和感が残る。「無」を五人の哲学者の共通項と見るのはいいとしても、一方の極に「無」の形而上学化ないし実体化を避け得なかった西田を、他方の極に「無」の形而上学化を徹底的に排除して虚無にはまり込んだ三木を配し、その中間に、田辺、和辻、九鬼を位置づけるというアイデアは面白いがやや図式的ではないだろうか。彼らにもつきまとう西田的な形而上学の残滓を取り去りさえすれば、現代哲学として活かせる余地が大きいというのは、少々安直な結論に思える。 西田の最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」が形而上学を払拭できていないという著者の指摘は誤りとは言わないが、それは西田が真の実在を求めて論理に論理を積み重ねた果てに、最後に残るどうしても論理化し得ない「何ものか」ではないのだろうか。この否定し得ない根源的なものを、形而上学と切り捨てることはたやすいが、それは西田の思索の大切なリアリティーを手放すことにはならないか。九鬼にせよ和辻にせよ、極めてユニークで天才的な思想家であることは間違いないが、その「二元性の哲学」なり「否定の否定」も、西田の「悪戦苦闘」の一歩手前の議論にとどまっているような気がする。西田が「観想的」で現実との接点を持たない「静寂主義」であるとの田辺の批判を意識して、絶対的な否定的契機である他者を持ち込み、自らの哲学を練り上げたプロセスをもう少し内在的に読み解く必要があるのではないか。勿論著者はそのことに気づいてはいるのだが、肝心なところで通俗的な西田批判に寄りかかってしまったのは残念だ。ちなみに西田の最大の批判者田辺は最後の病床でやっぱり自分が間違っていたと語ったという。(『 物語「京都学派」 - 知識人たちの友情と葛藤 (中公文庫) 』より) 評者としては「空を空ずる」動性にニヒリズムの克服を見据えた西谷啓治『 宗教と非宗教の間 (岩波現代文庫―学術) 』や、神秘主義を突き抜けたところに真の平常心の境地を求めた上田閑照の仕事『 哲学コレクション〈4〉非神秘主義―禅とエックハルト (岩波現代文庫) 』に、西田の最良の継承のかたちがあると思う。
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西田幾多郎、田辺元、和辻哲郎、九鬼周造、三木清らによる「無の哲学」の系譜をたどり、彼らの限界とその思想を現代に生かす道筋を論じた本です。 西田は、われわれの意識の根底に「絶対無の場所」が存在すると考えていました。後期になると、この「絶対無の場所」は、具体的な現実における人間と世...
西田幾多郎、田辺元、和辻哲郎、九鬼周造、三木清らによる「無の哲学」の系譜をたどり、彼らの限界とその思想を現代に生かす道筋を論じた本です。 西田は、われわれの意識の根底に「絶対無の場所」が存在すると考えていました。後期になると、この「絶対無の場所」は、具体的な現実における人間と世界との動的な関係を成り立たせる働きとしてとらえなおされていきます。しかし「絶対無の場所」は、意識の根底にある究極的な形而上学的原理という性格を払拭することはできなかったと著者はいい、なにものも前提してはならない「哲学」の立場にとっては問題だという指摘がなされています。 つづいて、田辺、和辻、九鬼といった哲学者たちによって、西田哲学の中心概念となっていた「無」についての思索が、どのようなかたちで変奏されていったのかを解説し、「無」の哲学の具体的な展開が論じられていきます。 最終章でとりあげられているのは、西田のもとで哲学を学びながらも西田哲学の問題点を克服することをめざした三木清です。三木は、動物とは異なって環境から解離しているために、たえず新たな「技術」をつくっていこうとする人間のあり方を「虚無」ということばによって表現します。しかし彼は、現実のなかでの人間存在のありかたを意味する「虚無」と、宗教性を帯びた「無」の思想とのつながりを明確にすることはできなかったと著者は考えます。本書では三木の遺稿『親鸞』についても言及されており、それまでの三木の思索のなかで十分に展開されることのなかった宗教哲学へと向かっていくような可能性があったことに触れられています。 かなりコンパクトな紙幅に、京都学派の主要な哲学者たちの仕事についての説明を詰め込んでいて、あまりていねいな説明がなされているとはいいがたいように思いますが、京都学派の哲学の全体像をつかむうえでは有益な本なのではないかと思います。
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京都学派哲学の入門書ということだが、哲学に本格的に触れたことがないとなかなか読むのは大変かと(つまり僕は大変だった)。西田幾多郎・田辺元・九鬼周造・和辻哲郎・三木清という五人の哲学者の思想の軌跡が「無」という共通項を軸に読み解かれている。 勿論、この五人の唱える「無」は...
京都学派哲学の入門書ということだが、哲学に本格的に触れたことがないとなかなか読むのは大変かと(つまり僕は大変だった)。西田幾多郎・田辺元・九鬼周造・和辻哲郎・三木清という五人の哲学者の思想の軌跡が「無」という共通項を軸に読み解かれている。 勿論、この五人の唱える「無」は完全に同じものではなく、それぞれの位置付けがある。 読後の所感を幾つかあげてみる。 ・まずは西田幾多郎に端を発した京都学派の哲学者達の、既存の西洋哲学を踏まえつつも鵜呑みにせず、形而上的原理を拒否し、批判と思索を尽くして真理を導こうとした生涯を賭した挑戦に、率直に敬意を抱かずにはいられない。 ・取り上げられた其々の京都学派哲学において、西田・田辺・九鬼・和辻については、思索の果てに「無」を結局は形而上的原理に基づく(発出論)と捉えられ得る地点に置いてしまっているのではという、著者(田中久文氏)の俯瞰した眼差しによる批判は、それなりに当たっているように思える。 ・哲学を限りない「知の運動」であるとするならば、発出論は媒介を許さない絶対的存在を要する点で「知」の終着点であり、帰納的に「信仰(宗教)」の始点なのではないかと思う。だとして、哲学者が哲学的思索と共に人生の苦悩に直面しながら、信仰に救いを求める要求がバックグラウンドとして醸成されていくのは、人間として不自然ではないと感じられた。 ・著者は三木清の「虚無の哲学」について西田幾多郎の哲学が持っていた「生きた力」を見失っているのではと説いているが、僕にとってはむしろ三木清の「虚無からの形成力」は非常に力強さが感じられるもので、ここ2年程の生きる糧の一つとなっていると言っても過言ではない。このことは、僕を含むこの21世紀初頭の現代人の抱える心底がより虚無的であり、不安と闇を増大させているからではないかと思う。故に、虚無の上に浮かんで自己を形成していくこと(構想力)が創造(技術)的だとする三木清の考え方に、リアリティのある生きる力を感じるのではないかと。 ・「虚無からの形成力」には個人的にサルトルの「実存は本質に先立つ」との親和性を感じる。ここでの実存は本質という意味付けが為される前は人の意識にとって「虚無」に等しいのではと思うからである。そのあたり、サルトルを読み進めて今後検証的に考えていきたいと思う。 ・九鬼周造の「いき」における「媚態」のくだりで、男女関係における距離感について考えさせられた。引かれ合う方向性を持ちながら合一には至らないといった在り方は興味深い。
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