商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 岩波書店 |
発売年月日 | 2014/12/01 |
JAN | 9784003580028 |
- 書籍
- 文庫
テアイテトス
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テアイテトス
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商品レビュー
3.5
6件のお客様レビュー
(01) 時間を主題とした哲学ではなく知識をテーマとしている.にもかかわらず,本書でいわれる「時間の余裕」はソピステスといわれる「智慧の指南者」のみに許される時間であるのだろうか. 本書の大筋は,知識と感覚を分け,要素の列挙に還元される知識を避け,虚偽の思いなしの例を挙げることで...
(01) 時間を主題とした哲学ではなく知識をテーマとしている.にもかかわらず,本書でいわれる「時間の余裕」はソピステスといわれる「智慧の指南者」のみに許される時間であるのだろうか. 本書の大筋は,知識と感覚を分け,要素の列挙に還元される知識を避け,虚偽の思いなしの例を挙げることで正しい知識を彫り上げようとするものである.しかし,その余談として,プロタゴラスやヘラクレイトスへの批判を加え,テアイテトスやテオドロスとの掛け合いをソクラテスの名で演じ,ホメロスを始めとする歴史を通じ,鳩がいて蝋がある生活を用いて,知識の指南を楽しむ著者プラトンがいる. 著者の余裕は,忙しさにかまけた弁論家や政治家,あるいは履つくりのようなビジネスからはほど遠い.この時間の余裕は,当然ながら本書に触れられる運動の問題に関係している. 集合の小題にもつながる変化と運動(*02)には,時間や空間の余幅が必要となる.ある時間的な連続性と間歇性,空間的な遊びの余地などが変化や運動の質と量と情態を左右する.著者の知的な運動は,本書のテキストの中で余すところを持ちながら動き,テアイテトスや読者の知に作用している. (02) 運動の結果や時間として,男女の交合と結合,摩擦(合性という訳語も関連して用いられている)の起こりを生成論に組み込み,出産に立ち会うだけでなく結婚を媒介する産婆をも演じている.著者は自らを歌舞の組仲間として任じており,相撲で裸でぶつかり合うことも潔しとしている.その多面的なソピステスの面持ちも愉快であるが,「川越え」のエピソードの引用にもあるような「足許にひっからまって」くる身体的で触知的な知との取っ組み合いが本書の魅力でもあろう.
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ソクラテス先生母直伝の産婆術を使うも失敗の巻。 知識とは何か?というテーマで議論をして、 仮説を立てて議論をするが結論は出ない。 「産婆術」という言葉の出典元であるが、 ソクラテスが他の本でも行っているやり取りであり、 しかも失敗に終わっているので、 産婆術を学ぶために読む本...
ソクラテス先生母直伝の産婆術を使うも失敗の巻。 知識とは何か?というテーマで議論をして、 仮説を立てて議論をするが結論は出ない。 「産婆術」という言葉の出典元であるが、 ソクラテスが他の本でも行っているやり取りであり、 しかも失敗に終わっているので、 産婆術を学ぶために読む本でも無いらしい。 テアイテトスの台詞にもある通り、 話がややこしくてわかりづらいし、 プラトンが好きな人以外にはおすすめ出来ない。
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プラトンということで。 「知る」ということがどういうことなのかを巡って数学者とソクラテスが考える。知るということがどういうことなのか、考えてみたくて読んでみることに。 プラトンのいわゆる主要な対話篇と異なり、その思想体系を突き詰めた対話篇では決してない。しかし、それはひとえに、「...
プラトンということで。 「知る」ということがどういうことなのかを巡って数学者とソクラテスが考える。知るということがどういうことなのか、考えてみたくて読んでみることに。 プラトンのいわゆる主要な対話篇と異なり、その思想体系を突き詰めた対話篇では決してない。しかし、それはひとえに、「知る」ということを考え続けていたからに他ならない。「知る」という行為が純粋に実践であると同時に、きわめて形而上学的な事態である。たぶん書いていたプラトンそのひともかなり難航したに違いない。 人間は流転すると言えば流転しているし、止まっていると言えば止まっている。ただのことばなのである。そんな風に存在はできてしまっている。なんとまあ不可思議な存在であるか。おそらく、あえて対話テーマを絞らないで、プラトンは考えてみたかったのだろう。風呂敷を拡げ考えては立ち止まり、別の風呂敷を拡げてはまた考え、どこか煮え切らない感じに対話が進んでいく。 プロタゴラスの原則は、万物の尺度は人間であるということである。ソクラテスはほんとうのことが知りたいから、はたしてすべての尺度であるのか考える。たしかに、痛みをはじめとする感覚というものをひとは誰かと共有することはできない。感覚とはどこまでも個人的なものだ。だが、その個人的な現象である感覚を、ひとはどういうわけか知っている。なぜだかことばにしたり、それでひとと話すことができる。真に個人的なものであるなら、どうして語ることができるのか。ここに、万物の尺度たる人間という原則がゆらぐ。あくまでプロタゴラスの原則は感覚に関することであって、知ることに関しては別なのである。感覚することと知ることは別の事態なのである。 では、「正しく考えた」ことが「知る」ことになるのか。そして、「知識」とは「正しく考えた結果として言語化されたもの」なのか。所有と所持の考え方を用いているが、時間的に考えれば、「知る」という行為自体どこまでも現在の行為であって、「正しさ・誤り」というのは知った後のことなのだ。知るということが先行しない限り、正しさどうこうも起こりようがないはずだ。 カントはこういうことをどこまでも概念の操作で詰めようとしていった。ソクラテスという男は学者でもなんでもないから、そんな頭の痛いことはしない。どこまでもこの生きている存在から連続した事態として考えていく。臨床哲学とかいう謎の学問を掲げるひともいるが、学問自体が生きている不思議から生じていなければ一体なんだというのか。産婆術とは、未知なる存在に対する探究心のことだ。知りたいから対話する。知らないから対話できる。
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