商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 嵯峨野書院 |
発売年月日 | 1985/04/01 |
JAN | 9784782300824 |
- 書籍
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日本憲法史と日本国憲法
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日本憲法史と日本国憲法
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大石義雄と言えば「押し付け憲法論」で有名な元京大教授だが、弟子の佐藤幸治を含め、今や憲法学者で「押し付け憲法論」を積極的に主張する者は殆どいない。政治論としてはともかく、法律論としては元々「押し付け憲法論」は危うさを孕んでいた。大石自身むしろ政治論として持論を展開したとみた方がい...
大石義雄と言えば「押し付け憲法論」で有名な元京大教授だが、弟子の佐藤幸治を含め、今や憲法学者で「押し付け憲法論」を積極的に主張する者は殆どいない。政治論としてはともかく、法律論としては元々「押し付け憲法論」は危うさを孕んでいた。大石自身むしろ政治論として持論を展開したとみた方がいい。と言うのも「押し付け」と言うからには、立法者に自由意思がなかった、つまり立法過程に瑕疵があったということになり、法理的につきつめるなら日本国憲法は無効という他ない。 大石が厳しく批判した宮沢俊儀の「八月革命説」は、改正の限界を超えた新憲法を有効たらしめるために捻り出した窮余のウルトラCだが、新憲法起草に関与し、GHQの圧力を目の当たりにしていた宮沢その人は、大石以上にそれが「押し付け」であり、「八月革命」など作り話に過ぎないことを自覚していた筈だ。宮沢と同じように大石も新憲法を有効と看做したが、宮沢が旧憲法との断絶においてその有効性を論理化しようとしたのに対し、大石は旧憲法との連続性において、即ち旧憲法の改正として新憲法を位置付けた。宮沢とは違い大石は憲法改正に限界はないという立場なので、憲法の根幹を変えるものであっても改正自体は可能だが、文字通りの「押し付け」であっては無効論に対抗できない。そこで大石が依拠した論理が「主権の自己制限」だ。「押し付け」は「押し付け」でも同意された「押し付け」であって立法過程に瑕疵はないと。どっちもどっちだが、同意があったと言う以上、もはや純粋な「押し付け」とは言えないだろう。 その後の実証研究を踏まえれば「押し付け」か否かはどちらとも言えないというのが事実に近いが、今となってはこの議論に大した意味はない。法理的には無効論が首尾一貫しているが、サンフランシスコ講和条約で主権を完全に回復した後も改正しなかったのであり、新憲法は追認され、立法過程の瑕疵は「治癒」されたと見做すのが自然だ。改善の余地はあるにせよ、戦争放棄を掲げた9条は自衛権行使と両立し得る(ちなみに大石は政府見解のように自衛権行使と自衛戦争を区別しない)し、致命的な欠陥があるわけでもない。立法意思より条文そのものの客観的解釈を重視する京都学派の方法論からしても、「押し付け」だから改正すべしということには必ずしもならない。 「押し付け憲法論」自体は過去のものだが、大石憲法学が忘れ去られてよいわけでは決してない。本書は大石の骨太の憲法観が法律家の文章とは思えない直截な文体で説かれていて新鮮かつ説得的だ。「国家対国民の関係は、本質的には、昔も今も、権利関係ではなく、義務関係である・・・国家というものは、本質上、国民が国家意思に服従する義務を負うということなしに存続しえないからである。」これを時代錯誤と切って捨てるのは、偽善でないとすれば空論だ。国家権力が究極的には物理的暴力によって担保されているという現実を見ない幻想である。だが法の実効性を担保するのは単なる物理的暴力ではない。法が法として権威を持ち得るのは、それを支える道徳、宗教、習俗が前提になければならないと大石は言う。そうした精神的基礎の上に国民の「祖国意識」があり、それが国家存立の根本条件なのだ。だから憲法が保障する「信教の自由」とは、あくまで個人の内心における神の選択の自由であり、国家の精神的基礎たる習俗としての信仰とは何の関係もないとの指摘は重要だ。言うまでもなく靖国が念頭に置かれているが、国家の犠牲になった人々に、国家として祈りを捧げることを忘れた国に未来はない。そういう当たり前の常識に立ち帰るなら、「制度的保障」であるとかないとかという議論は本質から逸れた些末な解釈論に過ぎない。
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