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動く遺伝子 トウモロコシとノーベル賞
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 晶文社 |
発売年月日 | 1987/11/01 |
JAN | 9784794958204 |
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動く遺伝子 トウモロコシとノーベル賞
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商品レビュー
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※このレビューにはネタバレを含みます
バーバラ・マクリントックは、トランスポゾンを発見した細胞遺伝学者。まあ、女性科学者のパイオニアだが、その末裔が「STAP細胞は、ありますっ!」じゃあねえ。。。 とは言え、この本のキモは、悪いけど女史の歩みや業績そのものじゃなくて、彼女の研究者人生とその時代背景の絡み具合。 ジャストフィットではなかったにせよ、細く長い研究者人生(1919年コーネル大学入学〜)が分子生物学の誕生と交錯し、最晩年にノーベル賞受賞(1983年)の形で花開く。良かったなあ。 更に悪いけど、個人的には、誕生時には“概念”でしかなかった「遺伝子」を抱えた遺伝学が、進化論や発生学と折り合いをつけようとした苦労を描く「第6章 正統性の内外」と、科学の要求するビジョンの共有レベルの高さを描く「第9章 通じる言葉と通じない言葉」が印象的だった。
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『ダニエルのふしぎな絵』の作者と同姓同名? バーバラ・マクリントックといえば、生物学のあのトウモロコシの人よな~と、バーバラ・マクリントックの絵本を見るたびに思い、ケラーの『ジェンダーと科学』なんかを久しぶりに読んだりして、昔はうちにあったはずのこの本を図書館で借りてきた(近所の...
『ダニエルのふしぎな絵』の作者と同姓同名? バーバラ・マクリントックといえば、生物学のあのトウモロコシの人よな~と、バーバラ・マクリントックの絵本を見るたびに思い、ケラーの『ジェンダーと科学』なんかを久しぶりに読んだりして、昔はうちにあったはずのこの本を図書館で借りてきた(近所の図書館にはなくて、ヨソからの相貸)。 久しぶりに読んだけど、やっぱりおもしろかった。生物学、遺伝学、細胞学というような点でもおもしろいけど、「型にはまらない人」というマクリントックの生き方、研究のスタイルのことも、対象をよく観察すること、時間をかけてものを見るということ、そういう時間をかけた観察と実験と思考から見えるものという話も、マクリントックを育てた両親の話も。 生物学にあまり興味がない人には、途中の章は読むのがちょっとハードかもしれないが、理科のなかでも生物がとくにスキだった私には、読んでいてわくわくと楽しかった。 マクリントックは、トウモロコシという世代交代に時間のかかる植物を相手に、トウモロコシの気持ちが分かるくらい芽のうちからよくよく観察し、ちょっとした違いを見のがすことなく、そういう発現はどういうことか?と考え続けた。トウモロコシ一本一本の伝記が書けるというほどだった。 そんなところは、『金沢城のヒキガエル』の奥野さんや、奇跡のりんごの木村さんに通じるものがあるなと思う。たとえばダーウィン、たとえばラマルク、たとえばファーブル、そういう先人の説がもちろんあてはまる事象もある、けれど、あてはまらない事象もあるのだという簡単なこと。 マクリントックは、研究の対象がわれわれに語りかけるとしたら、それを受け入れるべきだという。その道のすぐれた研究者であっても、自分たちが暗黙の仮定にとらわれていることに気づかないことがある。これは例外だ、だって学説と違う、そんな風に脇へやってしまったりする。理論やモデルは、絶対のものではなくて、それは産まれもすれば消えもするのだとマクリントックは真っ当に考えていたが、周りからすればマクリントックのほうが変人で、わけのわからん人になるのだった。 マクリントックはこんなことを語っている。 ▼「私には多くの研究が、答えを研究のなかに押しつけるために行なわれているように感じられます。…(中略)…望んだこと以外のことが起ると、これをそのあるがままには認めないか、あるいは間違いであると考えて捨て去ってしまいます。…ただ対象に語らせることさえできれば」。(pp.282-283) ▼「自分の扱っている対象が語りかけるところに耳を傾ける辛抱強さを持たねばならない」「生物と心が通い合っていなければならない」。(p.308) ▼「世界は科学的な方法によって私たちが理解しているものよりも、はるかに素晴しいものなのです」。(p.316) 植物は、たとえば「植物人間」とか「植物状態」という比喩で使われる、受け身であまり動きがないというようなものではないのだというところは、古いブルーバックスの『植物的生命像』をまた読みたくなった。 ▼ 「植物が[あらゆる]種類の感受性をもっていることは疑問の余地がありません。そしてとりまく環境に対してさまざまな反応を示します。われわれの考えの及ぶほとんどすべてのことが可能です。しかしただじっとしているために、道をゆく人の植物に対する目の注ぎ方は、植物が本当に生きていないかのようであり、まるで生命の通っていないものに対するときと同じなのです」。(p.311) こういう植物観をもとに「植物人間」とか「植物状態」と言っているなら、それこそは「本当に生きている、生命の通っている」ことをあらわしているのだと思う。 そしていま、マクリントックのこんな言葉が心に響く。 ▼ 「私たちは環境を恐ろしく損ないながら、それでも平然と構えています。というのは私たちが科学の技術を用いていたからです。しかし科学の技術が工業の段階を迎えると、十分に先を見通していなかったためにしっぺ返しをうけます。私たちは仮定を立ててはならないことについて仮定を立ててきました。全体が実際のところどのように動いているかという観点から見ると、ほんのある部分がどうなっているかしか知らなかった。…私たちは残る部分がどのようになっていたかを理解することはなかったし、問題にもしなかったのです。ありとあらゆることが起っており、ただ私たちにはこれがわからなかったのです」。(pp.320-321) この本は手放してしまった気がするが、もしかしたらどこかにしまい込まれているか?近所の図書館になくて相貸でしか読めないので、どこかにあるなら探し出したい。
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