商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 文藝春秋 |
発売年月日 | 2010/10/20 |
JAN | 9784166607747 |
- 書籍
- 新書
新約聖書(1)
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新約聖書(1)
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商品レビュー
3.8
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新共同訳の聖書を新書に収録し、佐藤優による解説を付している本です。第1巻には、四福音書が収められています。 巻末に収録されている「非キリスト教徒にとっての聖書」で佐藤は、「私は功利主義者だ。役に立たない読書は基本的にしない」とみずからの立場を明言したうえで、現代の世界が直面して...
新共同訳の聖書を新書に収録し、佐藤優による解説を付している本です。第1巻には、四福音書が収められています。 巻末に収録されている「非キリスト教徒にとっての聖書」で佐藤は、「私は功利主義者だ。役に立たない読書は基本的にしない」とみずからの立場を明言したうえで、現代の世界が直面しているさまざまな問題をより深く理解するために聖書が役に立つということを、「非キリスト教徒」の読者に向けて語っています。 ここで佐藤は、佐藤は、菅直人が掲げた「最小不幸社会」という国家像に対して、「政治に夢や理想、あるいはユートピアを託すことを初めから諦めている」という問題点を指摘し、いっさいの政治的判断が情勢論にもとづいておこなわれることになると批判しています。他方で、柄谷行人の『世界史の構造』を参照し、国家と貨幣が密接に結びついて人びとに対する支配を強化している現状から自由になるために、柄谷の議論を「21世紀の宗教論」として読むことができると主張します。そのうえで、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエスのことばに、国家と貨幣に対する警戒感が示されていることに注目し、その現代的な意義を論じています。
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はじめてキリスト教を知ろうと手に取った。 100分で名著の新約聖書と合わせ、挑んだが、やはり難解。わかるようで、わかったふりをしたくなるが、やはりよくわからない言葉が続く。 また時間を置いて、開いてみよう。
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生まれて初めて通読した聖書は、佐藤優氏による新書となりました。 現代語訳で書かれる、ここまでわかりやすくなるのか、と驚きます。 また、これまで忌避していたのは、その内容以上に 「版が古すぎて文字が小さ過ぎる」とか、 「かなの遣いが自分の感覚にしっくりこない」というような副次的な...
生まれて初めて通読した聖書は、佐藤優氏による新書となりました。 現代語訳で書かれる、ここまでわかりやすくなるのか、と驚きます。 また、これまで忌避していたのは、その内容以上に 「版が古すぎて文字が小さ過ぎる」とか、 「かなの遣いが自分の感覚にしっくりこない」というような副次的な要因だったかもしれません。 何より、読む理由がなかった。 今回は参加する読書会のテーマ本ということで手にしましたが、そうでなければ手に取ることも無かったでしょう。周りでも、読まずに一生を終える人も多いに違いありません。 読んでみてどうだったのか、と問われたら。 一番は、「宗教を信じるか、信じないか」という究極的な対決を始めるのではなく、彼の言い回し、人間への洞察が鋭い点にうなりました。 宗教書としてではなく、ビジネス書としての観点です。私がいま仕事をしているという理由もあるでしょう。 例えば、福音書の中に、「なぜあなた(イエス)は、人に話す時に例え話ばかり使うのか?」と聞かれる一節があります。 彼はこたえて、 「神(私は「真理」と書き換えたほうがしっくりきます)に近い人間は、それを言葉通り理解できるが、神(真理)に遠い人間にはそのまま話してもちっともわからない。自分たちが普段触れているモノを用いた例え話でなければ伝わらないのだ。」と弟子たちを諭す。 自分が葡萄やパンや、らくだを真理を伝えるための道具として使っていることを認めるのです。 その中でも、私の中では「時が経った葡萄酒が全て酸っぱくなるわけではない。」というセリフが心に残りました。自分に「酸っぱい」中年としての自覚があるからでしょうか。 相手の理解のために例え話を使う。宗教を抜きにして、コミュニケーションに必要不可欠な要素です。 概して宗教意識が低い私や身の回りの人間からすると、宗教書を眉唾なフィクションとして軽視してしまいがちです。しかし、そういう観点ではない見方がありました。 一人の人間は「人の生き方はかくあるべき」と万人伝える時。自らインフルエンサーを名乗る時の思想や手練手管は、東西問わず、学ぶことがあるのです。 そして、もう1つ。私の誤解として読んでいただきたいのですが、 新約聖書は、 「いい生活を送るための100の小さな哲学」 (ナザレ出身のイエス著・●婦の友社刊)と受け取っています。 すでに述べたとおり、聖書は、一般の人にもわかるように、例え話や、誇張したエピソードをふんだんに盛り込んでいます。 ただ、そのフィクションがあまり秀逸で、人の心に刺激的であったため、虚構が、実際の話と同等の価値をもってしまった。 結果、「実用書コーナー」に並ぶはずだった本が、「宗教書」に格上げされてしまったのではないか、と受け止めました。 余談ですが、「クトゥルフ神話」という概念は、ラブクラフトという人が基礎を組み立てた近代フィクションなのですが、本屋によっては、「神話・宗教」カテゴリーに関連本が陳列されている時があります。あれは冗談のつもりなのか、本気なのか・・・気になります。 さて、アドラー心理学本のベストセラー、嫌われる勇気の著者、岸見 一郎さんがこんな言葉を使っています。 「宗教が、ある1つの真理を見極めたら、そこから先には進まない。先の見えない橋を降りるような生き方だとしたら、哲学は少し違う。哲学は、先が見えない橋から降りず、ずっと歩き続けることである。」 聖書の言葉にも同じ感覚を覚えました。 新約聖書にテキストとして残っていることは、イエスが哲学をする上で用いたレトリック(手段)の切り抜きであって、それが宗教化している。実はその先にもっともっと深いなにかがあるのではないかと思うのです。 そして、もっともっと先の「何か」最後まで突き詰めようとするのが、「哲学」。逆に人にはわかりようが無いものとして受け入れるのが「神」という考え方。 こう自分の中で注釈をつけながら読んでいくと、初めて手にした聖書が少し飲み下せる何かに変わっていく気がしました。 この初めての1冊を通じて、「神」「真理」といった、知っているけれど、使いこなせていない語彙の意味が深まった気がします。よい1冊でした。 ちなみに続刊は、友人からは「難解だからあまりすすめない」と言われています。 どうなんでしょうか・・・気になります。
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