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走ることについて語るときに僕の語ること
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商品詳細
| 内容紹介 | |
|---|---|
| 販売会社/発売会社 | 文藝春秋 |
| 発売年月日 | 2007/10/15 |
| JAN | 9784163695808 |
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走ることについて語るときに僕の語ること
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商品レビュー
4.2
303件のお客様レビュー
作家の本音
この本は、エッセイではなくメモワールなのだと、村上氏は言う。作品を生み続けるために、小説家としてあり続けるために、走り続ける彼。「走ること=創作」に対して真摯に向かい合う姿が、作家の本音が、見えてくる一冊。
yama
村上春樹が50代の時に書いたもの。小説家になっていくまでのエピソードや走りはじめた時期のことが書かれている。村上春樹の人間らしさが垣間見られて嬉しい。事務に追われていたり、緊張して過呼吸になっていたり、スピーチの練習をきっちりしていたり…親近感が沸く。 村上春樹がなぜ、走るのか。...
村上春樹が50代の時に書いたもの。小説家になっていくまでのエピソードや走りはじめた時期のことが書かれている。村上春樹の人間らしさが垣間見られて嬉しい。事務に追われていたり、緊張して過呼吸になっていたり、スピーチの練習をきっちりしていたり…親近感が沸く。 村上春樹がなぜ、走るのか。それは小説を書き続けるため。 ◯書くことと走ること 誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルに認識する。 長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。黙って呑み込めるものは、そっくりそのまま自分の中に呑み込み、それを(できるだけ姿かたちを大きく変えて)小説という容物の中に、物語の一部として放出するようにつとめてきた。 僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた。自然に、フィジカルに、そして実務的に。どの程度、どこまで自分を追い込んでいけばいいのか?どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか?どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか?どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、どれくらい内部に深く集中すればいいのか?どれくらい自分の能力を確し、どれくらい自分を疑えばいいのか? 小説を書くのが不健康な作業であるという主張には、基本的に賛成したい。我々が小説を書こうとするとき、つまり文章を用いて物語を立ち上げようとするときには、人間存在の根本にある毒素のようなものが、否応なく抽出されて表に出てくる。作家は多かれ少なかれその毒素と正面から向かい合い、危険を承知の上で手際よく処理していかなくてはならない。そのような毒素の介在なしには、真の意味での創造行為をおこなうことはできないからだ。それはどのように考えても「健康的」な作業とは言えないだろう。 要するに芸術行為とは、そもそもの成り立ちからして、不健全な、反社会的要素を内包したものなのだ。僕はそれを進んで認める。だからこそ作家(芸術家)の中には、実生活そのもののレベルから退廃的になり、あるいは反社会的な衣裳をまとう人々が少なくない。 それも理解できる。というか、そのような姿勢を決して否定するものではない。 しかし僕は思うのだが、息長く職業的に小説を書き続けていこうと望むなら、我々はそのような危険な(ある場合には命取りにもなる)体内の毒素に対抗できる、自前の免疫システムを作り上げなくてはならない。そうすることによって、我々はより強い毒素を正しく効率よく処理できるようになる。言い換えれば、よりパワフルな物語を立ち上げられるようになる。そしてこの自己免変システムを作り上げ、長期にわたって維持していくには、生半可ではないエネルギーが必要になる。どこかにそのエネルギーを求めなくてはならない。そして我々自身の基礎体力のほかに、そのエネルギーを求めるべき場所が存在するだろうか? 僕自身について言わせていただければ、「基礎体力」の強化は、より大柄な創造に向かうためには欠くことのできないものごとのひとつだと考えているし、それはやるだけの価値のあることだ(少なくともやらないよりはやった方がずっといい)と言じている。そして、ずいぶん平凡な見解ではあるけれど、よく言われるように、やるだけの価値のあることには、熱心にやるだけの(ある場合にはやりすぎるだけの)価値がある。 真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない。それが僕のテーゼである。つまり不健全な魂もまた、健全な肉体を必要としているわけだ。逆説的に聞こえるかもしれない。しかしそれは、職業的小説家になってからこのかた、僕が身をもってひしひしと感じ続けてきたことだ。健康なるものと不健康なるものは決して対極に位置しているわけではない。対立しているわけでもない。それらはお互いを補完し、ある場合にはお互いを自然に含みあうことができるものなのだ。往々にして健康を指向する人々は健康のことだけを考え、不健康を指向する人々は不健康のことだけを考える。しかしそのような偏りは、人生を真に実りあるものにはしない。
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本書はマラソンとの向き合い方やマラソンを通して作家としての自身がどういったことを考えているかが綴られている。 健康的な生活を送っていたら、小説が書けなくなるんじゃないか、というような質問に対し 「小説を書こうとするとき、つまり文章を用いて物語を立ち上げようとするときには、人間存在...
本書はマラソンとの向き合い方やマラソンを通して作家としての自身がどういったことを考えているかが綴られている。 健康的な生活を送っていたら、小説が書けなくなるんじゃないか、というような質問に対し 「小説を書こうとするとき、つまり文章を用いて物語を立ち上げようとするときには、人間存在の根本にある毒素のようなものが、否応なく抽出されて表に出てくる。」 と述べ、作家はその毒素を手際よく処理していかなければならない、長く小説を書こうとするなら毒素に対抗できる自前の免疫システム、すなわちエネルギーに対応できる体力が必要であると語る。実にユニークな考えである。 こういった独自の考えに多くの読者が著者に魅了されているのだろう。物事の捉え方に我々は無意識的に論理性は求めておらず、鮮やかな独自性、特異性を望んでいるのかもしれない。それが作家としての魅力になるのだろう。 もうひとつ、共感した記載を紹介する。 (トライアスロンに取組む自分も含めた人たちを客観視して) ーーー そんな人生がはたから見てーーあるいはずっと高いところから見下ろしてーーたいした意味も持たない、はかなく無益なものとして、あるいはひどく効率の悪いものと映ったとしても、それはそれで仕方ないじゃないかと僕は考える。たとえそれが実際、そこに小さな穴のあいた古鍋に水を注いでいるようなむなしい所業に過ぎなかったとしても、少なくとも努力をしたという事実は残る。効能があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。 ーーー プライベートな時間を割いてトライアスロンに取組み、仕事とを両立している過酷な生活に対し、客観的に見ればその取組みが無意味や非効率として捉えられていることを自覚している。しかし、本当に大事なことはそういった無意味や非効率の中から生まれるということを主張している。 昨今のコスパ、タイパを重視する風潮に本当にそうかと首を傾げる。器用に生きれるかもしれないが、価値ある人生になっているのかと問いたい。 結局、実感として心に刻まれるのは、遠回りしたときに得る経験ではないか。
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