商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 新潮社 |
発売年月日 | 1999/12/25 |
JAN | 9784104061037 |
- 書籍
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ひらがな日本美術史(3)
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ひらがな日本美術史(3)
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商品レビュー
4.3
3件のお客様レビュー
3巻目。今回も頭を使い疲れましたが面白かった。 「実は私は、この『ひらがな日本美術史』のラインナップに「曜変天目茶碗」を入れたかった。素性を明かせば、この私は、『窯変源氏物語』の作者でもあるので、″窯変″の一つでもある「曜変天目」をここで紹介しちゃおうかなと思ったのである。そ...
3巻目。今回も頭を使い疲れましたが面白かった。 「実は私は、この『ひらがな日本美術史』のラインナップに「曜変天目茶碗」を入れたかった。素性を明かせば、この私は、『窯変源氏物語』の作者でもあるので、″窯変″の一つでもある「曜変天目」をここで紹介しちゃおうかなと思ったのである。そしたら、編集部は「だめ」と言うのである。理由は、これが『ひらがな日本美術史』だからである。曜変天目茶碗は中国のものだから、「日本美術」ではないのである。「あ、そうか」と、私はその意外な事実に気がつくだけである。 中国の天目山にあった禅寺で用いられた茶碗が「天目茶碗」である。「曜変天目」というのは、その「天目茶碗」の一種で、現在は日本にしか残っていない。なぜかというと、中国人にとって「曜変天目」というのがなんの意味もないものだったからである。「窯変」というのは、カマドの中で自然発生的に起こってしまう異変のことで、日本人はこれに「類まれなる美」を発見してしまうけれども、中国人にとってこれは、単に「失敗した奇形」でしかなかったからだ。「曜変天目」の美は、日本でしか評価されない。 豊臣秀吉の妻・北の政所がこの「曜変天目」を持っていたかどうかは分からないが、彼女が晩年を過ごした高台寺には、ちゃんと「高台寺蒔絵」による「天目台」が残されている。天目茶碗は、底が尻すぼみになっている茶碗だから、これは「天目台」というものに載せる。その蒔絵の台の意匠は、純日本の「露を置いた秋草」で、上に載っかる茶碗は「中国美術」に属する天目なのである。これだって、日本人が発明した美しいミスマッチの一つだろう。第一、室町時代から安土桃山時代に完成される茶道では、茶碗も掛け軸もすべてを中国渡来の中国製品=「唐物」でかためるのが、一番の本式のやり方なのである。 日本人にとって、中国は「外国」でありながら「外国」ではなかった。これは、ヨーロッパ人が古代ギリシア・ローマを「自分達のルーツ」と考えるのとおんなじだろう。日本人にとって、中国は「自分達の正当なルーツ」となるよう宗主国だったのだ。ところがしかし、その日本文化に「南蛮美術」というものを存在させてしまうと、話はかなり変わってくる。日本人にとって、すべての「外国」は、「外国であって外国ではない」からである。だかこそ、純日本の高台寺蒔絵の台の上に、平気で中国の茶碗は載る。畳の部屋に「西洋人の王様の姿」を描いた襖が平気ではめ込まれる。しかもその歴史は、とても古い。なにしろこの日本には、正倉院というものがあるからである。日本のオバサンが平気でロココのティールームにいるように、奈良時代の聖武天皇は、平気で遠いペルシアの調度品に囲まれていた。それが日本なのだ。問題は、そのミスマッチを「すごいもの」「美しいもの」に変えてしまう、享受者の力量だったり審美眼でしかないのである。 日本人は、平気で「外国」というミスマッチを調和させてしまう。その外国が、あるところに限定されてしまった時、日本文化のせせっこましさが生まれる。近代日本の「欧米=先進国」と考えてしまう欧米第一主義は、その以前の、中国を「日本の宗主国」と考える中国第一主義の変形だろう。しかしヨーロッパからの「進んだ文化」を輸入していた安土桃山時代の人間にとって、別に中国はそうそう特別な国ではなかった。「進んだ文化」のヨーロッパ人だって、「南蛮」だった。こういう日本人にとって、「外国」というものは、すべて等分に「自分達が必要とするミスマッチを演出してくれるようなもの」でしかなかったのである。慣れていないと言えば、我々はこの偉大なる感覚に慣れていない。だからこそ見慣れない「南蛮美術」は、位置づけがしにくいゲテモノのようなものにもなってしまうのだろう。しかし、「南蛮美術」というもののあり方こそが、外国文化の摂取に関して偉大である日本人のすごさを教えてくれるものなのである。 まさしく上記の橋本さんの言葉通り、安土桃山時代と江戸時代初期のこの美術史には圧倒された。次作4冊目はどうなるのかな?
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橋本治による、日本美術史の第三巻。 時代区分は安土桃山時代である。 鎌倉時代に一世を風靡した、運慶・快慶に代表される彫刻はもうこの時代には影を潜めてしまい、代わりに勢いを見せるのが屏風絵、襖絵である。 彫刻はまず仏像であることが多い。 寺を建立して仏像を奉納する、その主はまず...
橋本治による、日本美術史の第三巻。 時代区分は安土桃山時代である。 鎌倉時代に一世を風靡した、運慶・快慶に代表される彫刻はもうこの時代には影を潜めてしまい、代わりに勢いを見せるのが屏風絵、襖絵である。 彫刻はまず仏像であることが多い。 寺を建立して仏像を奉納する、その主はまず貴族であった。 その貴族が勢力を失い、代わって武将が文化の担い手となったとき、彼等が建てたのは寺ではなく城だった。 そして彼等は広間の間仕切りとして使われる屏風や襖に美麗な絵を求めた。 美術を、歴史のひとつとして見ていくとき、それも世の流れに沿って移り変わって行くのだ。 さて、本書で建築物がふたつ取り上げられている。 ひとつは家康を祀った日光東照宮、もうひとつは名城と名高い姫路城である。 このふたつは、安土桃山時代と江戸時代という、ふたつの時代の特徴を色濃く反映している。 日光東照宮は、家康の死後、息子秀忠によって建立されたが、その後三代将軍家光の代になって改造が施され、現在の形になった。 つまり、最初に建立されたときはもっと地味な建物であったものを、家光が改造して「安土桃山風」の建物にしてしまったのだ。 どこもかしこも装飾と意匠に溢れ、隙というものがない。 それでいて破綻がなく、見るものを圧倒するほど美しい。 安土城は焼け落ち、豊国神社は家康が破壊してしまった。 今、安土桃山時代の建築様式を色濃く残すのは、高台寺と東照宮くらいかもしれない。 しかし、家康が目差したのは実用第一の管理社会で、それは江戸城に天守閣がないことに象徴付けられると橋本氏は言う。 高くて目立ち、敵の標的にされやすいにもかかわらず板壁で覆われて燃えやすい。 それが天守閣である。 そして、家康は焼け落ちた江戸城の天守閣を再建しようとはしなかった。 徹底的に無駄を排除し、危険性のあるものは芽のうちに潰す。 それが家康の目差した江戸時代という管理社会だった。 一方、姫路城は別名「白鷺城」とも呼ばれ、その白い漆喰壁を特徴とする城である。 日本で初めて城に天守閣を備えたのは織田信長と言われるが、彼が建てた安土城の復元模型と比較すると、姫路城がいかに洗練された形をしているかがわかる。 だが、この白壁こそ 「真っ白な漆喰で塗り固められた姫路城は、「耐火建築」なのである。当時の常識に従えば、これは、「美しさを排除した実用一点張りの建物」(P160) なのだと橋本氏は言う。 では、なぜ姫路城は美しいのだろう。 「姫路城は、奇跡のように出現した、「実用の美」なのである。「作る」ということになったら、昔の職人はいかに丁寧で見事な仕事をするかということの美をあらわすものが、姫路城なのであると、私は思う。」(P160) 遠い古代は無理でも、時代が現代に近づいてくると、それを作った、あるいは作らしめた人々の心理を測ることができる。 家光は尊敬するおじいちゃんの輝かしい業績を、なにより豪華な建物で、「おじいちゃんの頑張った頃の様式で」表したかった。 家康は、おのれが仄かに思慕する女性が亡き夫への愛を貫くための寺を破壊しなかった。 「とにかく焼けない城を作れ」と命じられた職人達は、知恵を絞ってその命に従いながらもかくも美しい城を作った。 過ぎ去った日々を懐かしむために、あるいは未来への備えとして、時に「うつくしいもの」が生まれることがあるのだと、私は思う。
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3巻目。 記録に残る史実が多くなってくると、厚みがでますね。 女のものとカッコいいものがハイライト。 北の政所がカッコイイ。
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