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そのたびごとにただ一つ、世界の終焉(1)
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 岩波書店 |
発売年月日 | 2006/01/20 |
JAN | 9784000237116 |
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そのたびごとにただ一つ、世界の終焉(1)
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(序文より) 「他者の死が告げるのは一つの不在、消滅、それぞれの生の終わり、すなわち、世界がある生者に立ち現われる可能性が終わりを迎えてしまった、ということではない、ということです。死がそのたびごとに宣告するのは世界の全面的な終焉、およそ考えられうる世界の完全なる終焉なのです...
(序文より) 「他者の死が告げるのは一つの不在、消滅、それぞれの生の終わり、すなわち、世界がある生者に立ち現われる可能性が終わりを迎えてしまった、ということではない、ということです。死がそのたびごとに宣告するのは世界の全面的な終焉、およそ考えられうる世界の完全なる終焉なのです。それはそのたびごとに、ただ一つの - それゆえにかけがえのない、果てしない - 総体である世界の終焉を宣告しているのです。」 「これは何年ものあいだ私の頭を離れることのないツェランの詩の一行をめぐる徘徊の記録です。『世界はなくなってしまった。僕はおまえを担わなければならない』」 //////// お盆である。「死者」について、考えるには、良いときである。ということで、デリダが16人の友人に捧げた追悼文を集めた「そのたびごとにただ一つ、世界の終焉」を読んでみる。というのは、全くのでまかせで、たまたま読んでるうちにお盆になっただけ。 さて、追悼文、弔辞というジャンルであるが、なんともいかがわしいものが漂うものである。例えば、清志郎の葬儀での弔辞なんかを思い出しても、話している人の誠意とか、愛情は疑いようのないものであるにも関わらず、なんだか「嘘っぽく」てしょうがーないのだ。死者への語りかけ、という作法。死者の自己愛への転化。などなど、「死人に口なし」ということで、自分の好きなように死者を利用しているにも関わらず、死者に対して、語りかけてしまう。という行為の奇矯さ。 こうしたいかがわしさを前に、真の友人はいかにふるまうべきなのか?友人の死に際して、何も語らないべきなのか? 語っても、語らなくても、どちらにしても、一つの社会的な紋切方にハマってしまう、気味の悪さ。 という逡巡のなかで、「友愛」の哲学者は、そうしたディスクールを巧みに「脱構築」しながら、「喪」の行為をなす、とともに「喪」とは?、「友愛」とは?、「死」とは?を投げかける。 という本である。 1冊目は、80年代と90年代初頭の追悼文をおさめる。 追悼された人は、ロラン・バルト、ポール・ド・マン、ミシェル・フーコー、ルイ・アルチュセールなど。 デリダの兄貴といった存在であったと思われるアルチュセールへの追悼の一節。 「友人の死に際して自分自身の死に同情する。こうした心の動きにある堪え難い暴力を見つけても、私はそれを慎む気になれません。これは私のなかで、ルイを保ち続け、私の中で彼を保ちながら私を保ち続けるただ一つのやり方であります。皆さんもそうしているでしょうし、私たち皆がそうしていると、私は確信しています。各々が、喪がなされてからしか存在されてからしか存在しない彼の記憶や引きちぎられた彼の断片の歴史と共に、そうしているのです」
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死。その素朴。通俗的で、卑近で、しかもどこまでも遠く、夢のような、現象、出来事、そんな何か。日常の意味が届かない、生々しい距離、その彼方へと超越した真の現実、そんな位相があるのなら、きっとそこで、死は揺らめいている。そんな風に思う。 例えば、ブランショが語った非-死を。例えば、...
死。その素朴。通俗的で、卑近で、しかもどこまでも遠く、夢のような、現象、出来事、そんな何か。日常の意味が届かない、生々しい距離、その彼方へと超越した真の現実、そんな位相があるのなら、きっとそこで、死は揺らめいている。そんな風に思う。 例えば、ブランショが語った非-死を。例えば、レヴィナスが語った死者を。そして、我々が通常考えるような死の有様を、デリダは語ろうとしない。死者を語ることは、死者を召喚することであり、それは、死を不可能にする。その不実を、その誘惑を、その罪を犯さないことを、死を死者として語らないことを、デリダは強く自らに課し、長く慎み深い沈黙を守ってきた。 名。そして、固有の名。その上に濃く刻まれた死の痕跡に触れることを拒み続けてきた彼が、初めてそれを語り出したのは、ロラン・バルトの死に際してのことであった。『ロラン・バルトの複数の死』と題された言葉の群れ、断簡の集合は、バルトの名、もはや指示対象を失い、死の虚無をしか意味しないシニフィアンを、その周辺を、惜しむように、撫でるように、何度も何度も巡り廻る。 ここから、彼の弔いが、喪の政治学が、始まった。次々に訪れる、友の死、友愛の終わり。その度にデリダは、死を語ること、死について語ることが孕む全ての罪、全ての欺瞞、全てのナルシシズムを一人称で引き受け、その渦中で喪を行った。「語ること・黙ること」の意味を誰よりも切実な問題として考えてきたデリダから発散する喪の言葉は、ひび割れそうなほど薄く乾燥している。結局、彼は何も、何をも語ろうとしていない。ここで彼が語るのは、まさにこの語りの挫折、喪の失敗であり、その不能と不実である。 語ることの、書くことの本質は、誰かに意思を届け、伝えるという郵便的な作用である。その限りに於いて言葉とは、およそ考え得るあらゆる誤謬を孕んだ、とても厄介な代物である。ゆえに人は、言葉の呪われた作用を知る人は、時にその郵便を沈黙に託すことをする。雄弁な沈黙は、言葉以外の全てを運ぶ、極めて洗練された修辞であるのだ。デリダが頑なに守ってきた沈黙は、この気高く誠実な沈黙であった。 ならば、そんな彼が語り出した意味は明らかだろう。彼は沈黙を目指した。死について、死者について、一人黙すること。それこそが喪であり、弔いであり、分別のある政治であると信じていた。だから、彼は語った。雄弁な沈黙の裏側で、消失した雄弁を行った。空疎に語ること、語りで語りを否定し、漂白することを通して、デリダはこれ以上無いほどに、徹底して沈黙した。 語りは実らず、その不実をして完全な、美しい沈黙を結実させる。それがデリダの死に対する実践であった。先に逝く者を眼差す仕方として彼が辿り着いたのは、この壮絶な沈黙だった。 友の死。愛する者の死。そのたびに終わるのは、死者の生ではない。死の当事者だけに固有の世界ではない。全てだ。全てが終わる。ある一つの死は、すべての世界の終焉である。我々は全員、例外なく、その終焉に立ち会っており、世界全体で反復する、かけがえのない、ただ一つの終わりの中では、誰も、何も語り得ない。かりそめの沈黙が許されざる何かを不意に語ってしまわぬように、我々は語り続けなくてはならない。その罪を引き受けて、罰を生きながら、それでも、なお。
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世界の終焉が繰り返されて、そのたびに私たちは、あ然として、呆然として、どうやって歩いたらいいのかよくわからない。 果てしなく豊かな世界が終わったことだけが事実だと思う。 世界の終焉ってほどぴったりな言葉はない。
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