商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 名古屋大学出版会/ |
発売年月日 | 2001/02/28 |
JAN | 9784815804015 |
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小説の考古学へ
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子規らの「写生文」の試み、そして自然主義の「客観描写」論に代表される、客観的な描写を追求する運動が、明治末には変質し、主観との融合を遂げてしまうこと。 そして、「主観」は、「自我」とも、「印象」「感覚」とも境を接しながら、大正文学を準備していくこと。 その辺りの整理はとても分かり...
子規らの「写生文」の試み、そして自然主義の「客観描写」論に代表される、客観的な描写を追求する運動が、明治末には変質し、主観との融合を遂げてしまうこと。 そして、「主観」は、「自我」とも、「印象」「感覚」とも境を接しながら、大正文学を準備していくこと。 その辺りの整理はとても分かりやすかった。 その流れの中に漱石を置くと、どうなるかというお話も、興味深かった。 「同時代の読み」を再現すべきだという筆者の見解には、半分では納得するが、半分はどうにも腑に落ちないところがある。 同時代の読み、同時代の読者が持っていた知識や常識の枠組みを推定し、そこからどんな読みができるかということのようだ。 古典文学の研究だって、きっと概ねそういうことをやっている。ただ、時間の経過とともに資料が少なくなり、同時代的なコンテクストの再現が難しくなっていく。 つまり、明治・大正文学も、古典文学同様の方法論をとるべき、「昔のもの」になってきたということなのだろう。 研究が、同時代コンテクストを探る意味は理解できる。 ただ、思うのは、同時代の読みを再現するといっても、その妥当性はどう判断できるのかということ。 筆者は、同時代の読みを特権化するつもりではないらしい。 また、同時代の読みといっても、いろいろなものがありえたことも認めている。 それは寛容な姿勢ではあるけれども、では結局研究として文学を読む意味とは何か?と疑問にも思ってしまう。
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