![炎の陽明学 山田方谷伝](https://content.bookoff.co.jp/goodsimages/LL/001239/0012394956LL.jpg)
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 明徳出版社 |
発売年月日 | 1996/03/30 |
JAN | 9784896191288 |
- 書籍
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炎の陽明学
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炎の陽明学
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急速に崩れつつあるが、就職において日本特有の、転職を潔しとしない終身1企業主義は、武士道において孝以上に強調されるようになった 融通無碍のひらめきが勝利と敗北を、生と死を分かつ。見方が何万にいようとも司令官はただ1人、頼れるものは自分だけである。自分のわずかな怠慢、ちょっとした不注意が自らからのみならず、兵全体破滅を招く運命を背負っていた いかなる学問も自分の心に納得できなければ意味がない キリスト教には天国があり、仏教には輪廻天昇を説き、解脱によって極楽浄土に往生する お嫁の学問は誠意です 人間は人間が思っているほど本質的に合理的な存在ではない。権力の渇望と権力を忌み嫌う心理、自由への憧れ、服従の喜び、孤独を求める精神と孤独に対する恐怖感、社会からの逃避願望と社会でのへの帰属意識、いずれも矛盾する心の要素の両面を持ちながら振り子が揺れる。人間は相矛盾する心理の振り子をかかえた、薄い理性の膜で包まれた感情の動物なのである 歩き始めた継之助が再び振り返った。そして土下座した。三度の土下座を送り返し、河井継之助の姿は視界から消えた。生涯に二度と会うことない別れであった
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山田方谷。 山田方谷の決定版やね。 著者とは同じ市の生まれだとか。 矢吹内科医院は、たしかにあった。
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この本の著者は方谷と生涯を通じて深い親交があった矢吹久次郎の子孫にあたる矢吹邦彦氏が幕末期に備中松山藩の宰相を務めた山田方谷の生涯を詳細に追った本です。 方谷は当代きっての思想家であり政治家でしたが、その偉業はおろか、その名前さえも知らない人が驚くほど多いように思います。 方谷は農商の出身でしたが、幼いころより学問で身を立てることを志します。江戸の佐藤一斎塾では吉田松陰の師である佐久間象山と同門でしたが、兄弟子である象山を超えて、塾頭を務めるほどの学者でした。 方谷の偉大さは当代一の学者でありながら、松山藩の宰相に取り立てられると破綻寸前の松山藩の改革を短期間で鮮やかに成し遂げたことにあります。 その改革は経世在民の信念に貫かれ、厳しい質素倹約政策の中でも下級武士には減俸を及ぼさなかったり、領民からの饗応を一切禁止するなど弱者保護を一貫して行っています。 また、単に財再改革に留まることなく、軍制改革や教育改革にも取り組み、特に軍制改革においては農民に洋式調練を施し、これを見た長州の久坂玄瑞が大いに驚き、後の奇兵隊のヒントとなったとも言われています。 方谷は、その行動が示すように知行一致を旨とする陽明学の第一人者でしたが、自身は陽明学が非常に危険なものであることを熟知しており、王陽明の行動や言動をそのままま実践することをおろかなことであると述べており、安易に陽明学を講義することもなかったと言われています。 また、藩主が最後の筆頭老中である板倉勝静であったことから、松山藩は賊軍となり、藩主不在の中でその収拾にも見事な手腕を発揮しています。王政復古後は新政府から官に就くことを強く要請されますが、これを断り、在野にあって教育に力を注ぎ、多くの人材を育てています。 司馬遼太郎は方谷を評して「方谷は偉すぎる。偉すぎて小説にならない。」「木戸孝允より3倍ほど人間的に偉かった。河井継之助が、日本で一番偉い人だと考えていた。」 この本では方谷の偉業を称えるのみではなく、方谷の様々な苦悩についても述べられています。 著者はサラリーマン生活の傍ら、長い年月をかけ、このような大著をまとめられたことに尊敬の念を持つと同時に歴史愛好家としては非常に羨ましくも感じました。 山田方谷を知らない方はぜひ読んでいただきたい。一押しの本です。
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