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晩年の美学を求めて リベラル文庫
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晩年の美学を求めて リベラル文庫

曽野綾子(著者)

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晩年の美学を求めて リベラル文庫

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 リベラル社/星雲社
発売年月日 2023/09/19
JAN 9784434327131

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晩年の美学を求めて

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2024/01/11
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曽野綾子さんの晩年の生き方についての考えを綴ったエッセイ。 大体が晩年って幾つから?その考え方ホントに正しい?自分に正直って?孤独って? 広範囲を事例や生い立ちを挟み語りかける。 曽野綾子さんはクリスチャンであり、聖書の一節に触れることも多い。押し付けの宗教ではないので、とても素直に聞き深く考えさせられる。 どんな生き方をして老年を過ごしたら穏やかに死に迎えるか、そんなことを真面目に例をあげ語りかけてくれる。 中でも、日本という国は社会的保障という憲法である「基本的人権」の保障によって、家族に捨てられても国や社会がてを差し伸べる。海外では姥捨山のように阻害されたら物乞いして生きるだけという現実が…この2024年の今でもあるというのだ。 国家なんか当てにしちゃダメ!と言う人もいるが屋根がる部屋は提供されるし、生活保護で食べるものや環境も揃えられる。 特に勉強になった部分を取り上げると ✴︎ギリシャ神話では、人間の命はクロト(つむぎ手)、ラケシス(配り手)、アトロポス(切り手)の三姉妹の女神たちにより決められることになっている。ゼウスが、まず一人ひとりの人間の生命の重さを測って、それを姉妹に告げる。すると、つむぎ手が命の糸を紡ぎ、配り手がその長さを測り、切り手がその糸を断ち切る。気まぐれなゼウスが時々自分のお気に入りの人物には少しだけ長い命をやることもある。しかし通常はこの3姉妹が毎日、黙々と人間の生涯を紡ぎ、図り、切る仕事をしていると言う。その長さを、人間が知らないだけなのである。 これは知らなかったなぁ。面白い!なるほど!だった ✴︎私が結婚した相手は私に対して寛大である。私の失敗には大抵笑っている。寛大についても人は複雑に考えなければならない。失敗に終わっても決して意外に思わないで「やっぱりまずかったか」と思うだけで、怒れないのだそうだ。 三浦さんのその人間性が曽野綾子という人をまあるくしていったんじゃないかと…羨ましい! ✴︎「人の世にある事は、全て自分の上にも起こり、人の中にある思いは、全て私の中にもある」と私は思っているから、何事にも悲しみはしても驚かないのである。 どこか自分だけはと言う感覚がある。ワタシは特にそう思っていると、この本で実感した。これからは世に起こることは明日は我が身と思ったら気構えが変わるかな。 ✴︎私の家は、父母の中が悪くて硬くだったから、当時の私はいつもハリネズミみたいに、心理的な防御の棘を逆立てて生きていたように思う。 ✴︎父に暴力を振るわれる、母をかばうために父に抵抗して、その結果、私の顔が腫れ上がるほど殴られた日には私は学校に行けばそれなりの嘘をつかねばならなかった。夜中に寝ぼけて柱にぶつかったとか、漆にかぶれたとか、何とかその時々で精一杯の嘘を考えたのである。嘘をつかねばならない暮らしをしていると、できるだけ嘘をつきたくなくなる。嘘をつくという行為にはそれなりの努力がいるから、つくづく面倒だと言うことがわかるのである。 火宅の人といえば、沢木耕太郎が「壇」で記した壇一雄。火宅という言葉を知ったのは沢木耕太郎の壇だが、その火宅というフレーズが曽野綾子からも出たのはショックだ。そして何?父親が母親に手をあげるそれを庇い曽野綾子の顔が腫れるほど… 泣きそうだ。ワタシの中のワタシが泣いている。ウチの父母も夫婦仲が悪く火がつくと暴力を目の当たりににした。 この部分は、そうだったのかという現実を受け止め、曽野綾子にも起きた火宅が辛いものだったと想像する。 ✴︎愛とはいかなるものかと言う定義。聖書には「愛」と訳されている。ギリシャ語の言語が2つある。アガペーとフィリアである。世間が考える。愛はフィリアである。相手に信頼、尊敬移動しさを感じ、相手もまたこれに応えるだけの体制にいる関係である。聖書世界では、これを厳密な意味では「愛」だとは認識していない。本当の愛はアガペーで相手がそれに答えようが拒否しようが、関係のない誠実である。だから、本当に愛する人に対しては、私たちは相手にそれが通じようが通じなかろうが、いやときには憎まれようが尽くすべき誠実を尽くす。ときには「あんな奴は死んでしまえ」と思っても、救いの手は止めない。それ以外はすべて情報的行為であって、本当の愛ではないと言うのであるこれは見方を変えれば、本当の愛は作為的なもの作ったものであって良いのだと言うことになる。正直など何ほどの美徳かと言うことだ。 愛は二種類あり、その考え方はもっと深く掘り下げ、ワタシの中にもその二種類を植え付けたい。

Posted by ブクログ

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