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創造性はどこからやってくるか 天然表現の世界 ちくま新書1742
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 筑摩書房 |
発売年月日 | 2023/08/07 |
JAN | 9784480075758 |
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創造性はどこからやってくるか
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椅子を机としてつかう。肯定的矛盾と否定的矛盾が同時に成立する。椅子であり、机である。見た目、用途。椅子でなく、机でない。用途、見た目。 椅子と机の意味の脱色と記号としての成立。トラウマ構造が開かれた。 天然表現……外部を開くための表現? 「日常は経験的(一回切り)でありながら...
椅子を机としてつかう。肯定的矛盾と否定的矛盾が同時に成立する。椅子であり、机である。見た目、用途。椅子でなく、机でない。用途、見た目。 椅子と机の意味の脱色と記号としての成立。トラウマ構造が開かれた。 天然表現……外部を開くための表現? 「日常は経験的(一回切り)でありながら、繰り返し可能な概念とみなされる」 音楽にもトラウマ構造を感じる。過去の自分の気持ちを再現させられる。現在であり、過去である。 川の始まりか。
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筆者は外部から想定もしない何ものかを受け入れる知の在り方を「天然知能」と呼ぶ。 それは得られた知識やデータの範囲で考える「人工」的な知のありかたと対置される。 からっぽの「わたし」の中に、外から霊感がもたらされる。 「天然表現」は、その外部に接続するための装置であり、その接続が作...
筆者は外部から想定もしない何ものかを受け入れる知の在り方を「天然知能」と呼ぶ。 それは得られた知識やデータの範囲で考える「人工」的な知のありかたと対置される。 からっぽの「わたし」の中に、外から霊感がもたらされる。 「天然表現」は、その外部に接続するための装置であり、その接続が作品化したものとされる。 「外部」の一つの例として挙げられるのは死だ。 たしかに存在するけれど、生きている誰にも知覚できないもの。 「わたし」の内側にある価値は、この外部と接触することにより無際限化し、質的に変化する。 これが創造であるという。 こういう考え方は、なんとなくなじみがある気がしてしまうのは気のせいだろうか? デリダとか思い出してしまう。 死に近づくような体験により、人はトラウマを心に抱える。 生と死、内部と外部などの二項対立の構造がもつれ、入れ子構造となり、共立する矛盾状態(肯定的矛盾)を経て、意味は不確定なものになり、無際限に広がるものとなる、という。 この両立しえない二つのものが存在する矛盾の中で、二つの存在の意味が脱色される。 (筆者はこの辺りを、ラーメンかそばか迷った末に、どちらも食べずに帰ってしまう、といった例でも説明している。) この意味が脱色された状態とは、対立する二項の二つともがないという状態(否定的矛盾)となる。 そして、肯定的矛盾と否定的矛盾が共立する状況を、「トラウマ構造」と名付ける。 この構造の中に「わたし」があるとき、トラウマ構造が「わたし」に外部にふれさせ、創造につながる、と述べている。 ここまでいくと、なかなか腹落ち感がない…。 もはや読書が修行に近くなる。 が、他の部分は、こういった構想によりながら、筆者の「天然表現」創作の様子が説明されている。 段ボールを水に浸した後、べりべりと破って丸め、巨大な蚕のような形のものが無数に床に落ちている、といったものである。 創作も写真で紹介されているが、なかなか面白いというか、風変りというか、なんというか。 こういったものと併せて何度も例のトラウマ構造の話が繰り返されていくので、なんとなくわかったような、洗脳されたような気がしてくるのが不思議。
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台風のため、戻りを1日延期して妻の実家にいる。そして、本書を読みきった。自然現象は思うようには行かないものだ。「ああすれば、こうなる」とはならない。向こうから勝手に「やってくる」ものを受け入れるしかない。作品が完成するというのも、何かやってくるものに作者が気付くということなのだろ...
台風のため、戻りを1日延期して妻の実家にいる。そして、本書を読みきった。自然現象は思うようには行かないものだ。「ああすれば、こうなる」とはならない。向こうから勝手に「やってくる」ものを受け入れるしかない。作品が完成するというのも、何かやってくるものに作者が気付くということなのだろうか。創る側も、鑑賞する側も、何か「府に落ちる」ということがあるのだろう。作品を見たときに、ふっと心が熱くなるものがあって、「これだ。これを見たかったのだ。」なんて思えた日は1日幸せな気分になれる。本書を読んで、やはり哲学的な部分はよく分からないままだが、製作や展示の過程は楽しめた。そりゃ、実家に帰った妹さんは驚くはなあ。水漏れを確認に来た2人はプロに徹して、家の中のものは見て見ぬ振りをしたわけだなあ。ということは、誰かが点検とかで家の中に入って来るとしても、部屋をあわてて片付ける必要もないのだな。郡司さんのなにやら虫のような作品も見てみたい気はするが、中村恭子さんの「書き割り少女」を実際に見に行きたいと思えたのが、本書を読んでの収穫であった。9月に中之島に行きます。
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