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小池昌代(著者)

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 鳥影社
発売年月日 2023/01/26
JAN 9784862659934

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商品レビュー

3.7

3件のお客様レビュー

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2023/11/10

単行本の雰囲気から、なんとなく手に取って読んでみた。 小池昌代さんも初めてでなんのジャンルか、どういう雰囲気もわからないけど、なぜか表紙の刺繍(というか背表紙の裏から見た刺繍)に目を引かれた。 これは家族の話だけど、物語は終始佐知の目線で進んでいく。麦の怪我によって、そして小磯...

単行本の雰囲気から、なんとなく手に取って読んでみた。 小池昌代さんも初めてでなんのジャンルか、どういう雰囲気もわからないけど、なぜか表紙の刺繍(というか背表紙の裏から見た刺繍)に目を引かれた。 これは家族の話だけど、物語は終始佐知の目線で進んでいく。麦の怪我によって、そして小磯の生活への侵入によっていろいろな変化が訪れるけど、大事件のように書いているわけではない。大きな変化が起こる中で、自分の気持ちをおいてみんなだけが変わっていくことの諦めというか、静かな反発が感じれた。 自分のアイデンティティって、結局自分だけで定めることはできないと思う。自分が重要視している関係性から生まれるものなんだと思う。 佐知はナヲの娘であり、麦の母であることが一番自分を表すものだったけれど、 生活の変化によってそれがどんどんはがれていってしまう。周りが変化していくから。 変化を望まない佐知にとっては、ある意味小磯を拒む自分というのが最後の確固たる自分だったのかな。

Posted by ブクログ

2023/04/20
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

父親のマッサージ師だった胡散臭い小磯という男。死にそうな老人に取り入り慕われ頼りにされる。主人公佐知の母、娘ともに小磯に感化されていく。彼が善人か悪人かの判断はともかく、頼れない子どもより看取ってくれるマッサージ師の方が確かに良いかもしれない。

Posted by ブクログ

2023/03/24

『人間の肉体には、いろいろな穴があいている。その穴を通して、人は他者と交流するしかないのだと、唐突に佐知は思った。目も一つの穴だったし、声もまた、口という穴から出ていって誰かに届く。下半身にもさまざまな穴があった。そこを他人が出入りする。誰も通らないとき、風が通った。ひゅーい、ひ...

『人間の肉体には、いろいろな穴があいている。その穴を通して、人は他者と交流するしかないのだと、唐突に佐知は思った。目も一つの穴だったし、声もまた、口という穴から出ていって誰かに届く。下半身にもさまざまな穴があった。そこを他人が出入りする。誰も通らないとき、風が通った。ひゅーい、ひゅい。虚しい音をたて、実体のない、存在の影が通り抜ける。ひゅーい、ひゅい。死者も通る。死んだ父も。死んだ夫も。そのとき、人は笛と化す。虚しい音をたてて鳴る』―『帯の声』 「くたかけ」は古語で「腐鶏」と書く。愚かなトリ、と鶏を罵って言う時に用いた言葉だと辞書は教える。転じて鶏そのものを指すようになった、とも。果たしてそう愚弄されたのは誰なのか。それがこの小説のテーマなのだろう。三歩歩けば何もかも忘れることは、潔いのか、愚かなのか。あるいはそんな風に考える小賢しさこそが愚かなことなのか。当たり前のことだが単純な答えはない。 前作が3.11の残響に満ちた作品であったことを考えると、差し詰め今回はすわ新興宗教かと身構えてしまうけれど、この作品の元の連載は2018年8月から2021年10月と巻末に記載がある。とすれば「あの」事件とは無関係である筈なのだが、出版までの間にそれは起こってしまったわけで、出版に際しては色々あったのではないか等と勘繰ってもみたくなる。そう言えばかつて「infection」という曲の歌詞が9.11を予見(事件の四日前に発売)していたかのようだと言われプロモーションを自粛した歌手がいたことを思い出した。 拭っても払っても、いつの間にか自分のパーソナルスペースに侵入してくるもの。そのどす黒さが小説を通底する。気付けば、身内、であった筈のものとの間にもいつの間にか隔たりができ、こちら、ではなく、あちら、に属してしまったかのように思えてしまう。あるいは自分自身があちらから離れてしまっただけのことなのか、そんな風に考えてしまう居心地の悪さがつきまとう。その平衡感覚を狂わされる状況に、判り易い解決策は見当たらない。それどころか、飼うという意思表示をしたつもりのない鶏が、いつの間にか自分の領域に巣食い、気付けば世話までしている。生真面目に論理を保とうとする理性を小馬鹿にしたように鶏は首を振り、混乱した心は身体の平衡感覚を更に崩壊させる。その身体の急所を男の指が突いてくる。突かれれば、身体は思考に逆らって安らぎを覚えてしまう。そんな風に要約してしまえば身も蓋もないのだが、元々小池昌代はそんな女の性[さが](という表現も今や禁忌に値するだろうけれど)のようなものを言葉にして捉えるのが上手い詩人であったのだ。 例えば、小池昌代に「あたりまえのこと」という詩がある。 『 男の大きな靴をはいてみた。ら、あまってしまって。   それがまた、がぽがぽ、というような、えらくひどいあ   まりかた。なので、あまってしまう、ということは、こ   んなにも、エロティックなことだったか、と思うのだ。』 ―『あたりまえのこと/青果祭』 ここで、違和、を受け止めている詩人の心の動きと、この小説の主人公が、違和、を感じていることの根本には同質のものがあり、きっと何処かで記憶が繋がっている。もちろん、エロティックなことだったか、と思う女と、虚しい音をたてて鳴る、と呟いている女の間には歳月が流れている。その時間の隔たりが一見異なる反応となって現れる。けれど、その抗いと言い切れないような抗いが、この作家の中には常にはっきりと存在している。そして、その居心地の悪さを受け止めた後の、一瞬の抵抗の遅れの危うさを自覚する小説の主人公は今の詩人でもあるからこそ、答えは容易には出せない。歳を重ねた主人公と詩人を重ね合わせてみるなら、抵抗を軽々と言葉にして放り上げた若さを、今となっては恨めしく思うのが主人公であるかも知れない。そんな風にも思えてくる。 『 そら豆はすぐにゆであがり   わたしは「待って」といった。   湯をこぼして   「食べていって」   流しのステンレスが、ぽこん、と鳴った   それなのに   行ってしまったのは。』 ―『そら豆がのこる/永遠に来ないバス』 句読点のありなしが、妙に心をざわつかせるこの詩には、はっきりとした意思表示があった筈なのに、と、今の詩人は思い返すのかも知れない。

Posted by ブクログ