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すべての季節のシェイクスピア ちくま文庫
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 筑摩書房 |
発売年月日 | 2022/04/11 |
JAN | 9784480438072 |
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すべての季節のシェイクスピア
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すべての季節のシェイクスピア
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商品レビュー
3
4件のお客様レビュー
戯曲を読んで分からなかった箇所や巻末の解説には書いてなかった解釈など、なるほどと思うことが多い。シェイクスピア劇の演出を考えている人は読んでみるとよい。興味ない人には不要かと思われるので星2つ。
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タイムリーに文庫化されたので読んだ1冊。もともとは30年近く前に刊行されている。その後、著者はシェイクスピアの全作品を翻訳されている。そして僕は野田秀樹の「フェイクスピア」を観たのを機に、全集を購入。いまのところ刊行順に7冊を読み終えた。本書を読んだのをきっかけに、ちょっと飛ばし...
タイムリーに文庫化されたので読んだ1冊。もともとは30年近く前に刊行されている。その後、著者はシェイクスピアの全作品を翻訳されている。そして僕は野田秀樹の「フェイクスピア」を観たのを機に、全集を購入。いまのところ刊行順に7冊を読み終えた。本書を読んだのをきっかけに、ちょっと飛ばして、「ヴェニスの商人」「冬物語」「終わりよければすべてよし」を読んでみようと思う。そして、今年連載中の「文学談議」の1章としたい。さて、いろいろと謎であったことが、いくらか分かった。舞台では双子をどうするか。1人でやったり、本当の双子が演じるよりも、別人が双子として登場する方が良いようだ。それを観客は知っていて、舞台上の人物が翻弄されるのを楽しむということらしい。独白も含めて観客はみんな知っている。知らないのは舞台の上の人々だけだ。それはそうなのだろうが、シェイクスピアの時代、観客が皆、本を読んでいるとは思えない。事前にどういう筋書きかを知っているためには、あらすじだけでも書いたものが配られたりしていたのだろうか。いまでもパンフレットとかはあるけれど、皆が買うわけでもないし、舞台前に読んでいるわけでもないし。何回か見てやっとわかるということか。なんか不思議だ。それから、すぐ恋に落ちるという話。確かにロミオはジュリエットと出会う前、他の女性のことで友人に相談を持ちかけていたはず。それなのに、いつの間に、と不思議でならなかった。まあでもこれはお芝居なんだと思って納得しておくよりないのだろう。何度か引用されているが蜷川幸雄のことばがいい。「書かれている限りは全部やるけれども、書かれてないことは何やってもいいんだと思っている。」うーん、舞台を観てみたい。
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・松岡和子「すべての季節のシェイクスピ ア」(ちくま文庫)を読んだ。まづ書いておかねばと思ふのは、「文庫版あとがき」のちくま文庫版=松岡版シェークスピア全集誕生に至る、言はば裏話である。これを一言で言へば何と運の良い人だとでもなる。とにかく次から次へと運に恵まれて文庫版の全集が誕...
・松岡和子「すべての季節のシェイクスピ ア」(ちくま文庫)を読んだ。まづ書いておかねばと思ふのは、「文庫版あとがき」のちくま文庫版=松岡版シェークスピア全集誕生に至る、言はば裏話である。これを一言で言へば何と運の良い人だとでもなる。とにかく次から次へと運に恵まれて文庫版の全集が誕生した。具体的にはかうである。この人はテネ シー・ウィリアムズから始まつてゐるらしい。初めはさうした現代劇に関はつたり訳したりしてゐたのだが、ある日、串田和美や東京グローブ座からシエークスピア翻訳の依頼が来る。続いて蜷川幸雄を紹介されたことから「ハムレット」訳 の依頼が来る。ここで筑摩書房に訳した3冊だけでも出してもらへないかと尋ねると、「いっそ全集にしましょうというちくま文庫からの有り難い申し出」 (346〜347頁)があり、続いて装幀の安野光雅にも関係ができ、更には蜷川からシェークスピア全公演の訳は松岡でと言はれる。「運命としか思へない。」(347頁)かくして全集となつたのである。もちろんここに至るまでには現代劇の訳業や、演劇評論等で培つてきた人間関係が大きく物を言つてゐるであらうことは想像に難くない。それ以上に多くの訳業が優れてゐたからこそ、依頼も次々とやつてきたのであらう。こんな運命によつて誕生した松岡訳シェークスピア、小田嶋訳はおもしろいが、それ以上に松岡訳はおもしろいとも言はれる。ほとんど読んでゐない人間には分からないことである。しかし、そんな人がどのやうにシェークスピアを考へているのかには興味があると思つて読んだのが本書であつた。 ・本書には松岡のシェイクスピア観劇体験が綴られてゐると言つても過言ではなからう。とにかく誰某の演出ではといふのが続く。観てない人間にはよく分からないことばかりなのだが、それでも読ませる。例へば「夏の夜の夢」、「内容が 荒唐無稽でファンタジー性が強いため、メタシアター的な枠を設定しないと今日に舞台では成立しにくいという見方があり」(33頁)、「たとえば出口典雄演出による」公演では云々、「木野花演出の舞台も云々」と記した後、RSC版で は「そういう仕掛けなしでズバリと正面突破。」(同前)とくる。「ただし衣装は現代風で、すでに陽気で華やかな音楽のバイブレーションに感染している私達の意識は(中略)難なく眉唾の壁を飛び越えてしまう」(同前)。しかも「ヒポ リタは見るからに不機嫌」(34頁)である。かうして妖精界と人間界で舞台は進んでいく。その間、具体的な演出にも触れてゐるから、観たことがなくとも何か観てゐるやうな気になつてくる。基本的にかういふ書き方である。舞台は観な ければおもしろくない。これはまちがひない。しかし、観てゐない舞台を、このやうな演出を読むことによつて観たやうな気になるといふのもありであらう。これは本当に実に残念なことなのだが、観てゐないものは観てゐないのである。イ ンターネットでさがせば、部分的にでも舞台の様子を知ることができるかもしれ ない。しかし、それをしない私はかうして読んでその気にならうといふのである。本書のほぼ全体はこのやうになつてゐる。実に多くの舞台を観てゐる人だと 思ふ。劇評なども書いてきた人だから当然ではあらう。こんな人が訳したのであ る。実は松岡版シェークスピアを一つだけ観たことがある。「終わりよければすべてよし」、吉田剛太郎演出であつた。ここでは「この作品の本質的な深部を照射するいくつもの鮮やかな解釈が見られた」(290頁)さうである。もちろん 私には分からない。松岡訳を読んで、今一度舞台を思ひ浮かべてみようかと思ふ次第である。
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