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カフェ・シェヘラザード 境界の文学
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カフェ・シェヘラザード 境界の文学

アーノルドゼイブル【著】, 菅野賢治【訳】

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カフェ・シェヘラザード 境界の文学

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 共和国
発売年月日 2020/08/12
JAN 9784907986728

カフェ・シェヘラザード

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2023/02/09

『こうして、また一夜が矢のように過ぎていく。入り口の上のネオンサインが、ライラック色、青、バラ色と、交互に《シェヘラザード》を照らし出す。近隣の店主らがシャッターを下ろし、店じまいにかかる。残っていた常連客たちも、よろよろと《シェヘラザード》の扉を押して家路につく。「マーティン、...

『こうして、また一夜が矢のように過ぎていく。入り口の上のネオンサインが、ライラック色、青、バラ色と、交互に《シェヘラザード》を照らし出す。近隣の店主らがシャッターを下ろし、店じまいにかかる。残っていた常連客たちも、よろよろと《シェヘラザード》の扉を押して家路につく。「マーティン、言っておくけどね」とマーシャ。「この話には終わりがないのよ」』 常々いわゆる「歴史」というやつは信用できない、と自分自身に言い聞かせてきたつもりだが、「ユダヤ人 => ポーランド => アウシュビッツ => 数少ない生存者」という学習指導要領に出てきそうな連想に、未だに縛られていることに気付く。少し前に読んだベーツァ・カネッティの「黄色い街」でもそうだったし、イージー・ヴァイルの「星のある生活」でも「歴史」という正史に掬いあげられない個人の人生やその人生観でしか解釈され得ない物語というものがあるということを痛感した筈だったけれど、「ユダヤ人の受難」と一括りにされることを拒絶する程の個人差のある物語があることを、本書で改めて知る。 ビクトール・E・フランクルの「夜と霧」や「アンネの日記」の印象がどうしても支配的になっている頭の中。それは詰まるところ、ユダヤ人 => 受動的な被害者、という図式。その構図の中で、ユダヤ教の特徴(神の不在((不存在、ではない))を受け入れる)だの、バビロン捕囚だの、余計な知識を元にした「大括りの」解釈を勝手に頭の中で拵えてしまいがちになる。でもユダヤ人の中にだって、性悪な人も居れば、目先のことしか考えられない人も居れば、生き馬の目を抜くように世渡りを熟す人も居た筈という当たり前のことを、「最終計画」を前にしたユダヤ人全体に対して抱いてしまう「無垢の被害者」というラベリングが上書きしてしまう。そのことをこの「カフェ・シェヘラザード」の個人史に基づくオムニバス的な逸話の端々から再認識する。 再認識と言えば、杉原千畝の為したことについても「シンドラーのリスト」が映画化されてから日本人にもそういう人が居たんだという再認識、というのが一般的ではないかと思うけれど、そこには史実としての順番があって、在リトアニアのオランダ名誉領事ヤン・ツヴァルテンダイクによる最終目的地(オランダ領キュラソー)への査証発給があり、その通過点として日本通過査証を杉原千畝が捺したということだったのを初めて知る。欧州から東回りで日本を経由してヴェネズエラ沖合の島まで行くというとんでもない旅程にも驚くが、よくよく考えて見ればそもそもそんな旅程に要する費用を出せる人々しか杉原は救っていないのだということがすっぽりと認識から抜けていた。ツヴァルテンダイクと杉原の当時の認識については、訳者の学術的専門分野でもあるようで、あとがきのこの部分だけでも読むに値すると思う。ホント、歴史的解釈って単純な判り易い話にまとめられがちだ、ということが判るだけでも価値がある。もちろん、そのお陰で助かった人々にとっては命の恩人以外の何者でも無い訳だけれど。 とはいえ、そんな東周りの脱出旅に出た人の話を聞いていると、ふっとJ・G・バラードの「太陽の帝国」を思い出す。幼少期に対する郷愁もあってか、バラードの上海、日本人に対する思いは単純なものではないのだけれど、本書に登場する架空の登場人物たちの思い出話の中に登場する日本や上海、蘇州に対する見方は、一人ひとりの話の中で微妙に変化する。その色調の違いから、改めて、歴史とは個人のもの、という認識を強くするのだ。史実の語られ方、とでも言ったらいいのだろうか。そこにバラードの自伝的物語と似たような「歴史認識に対する曖昧さ(中和)」を感じる。そもそも、著者アーノルド・ゼイブルの筆致は単純に善悪の白黒を付けるような語りではないのだが、それは作家に思い出を語ってくれた経験者の心情を反映してのものというよりは、作家本人とも読める登場人物が物語に介在することによって醸し出される中和効果だ。しかし間接話法による効果だけではない。夜伽話を千一夜聞き続けた王が改心したように、故郷を遠く離れたメルボルンで余生を送る人々が昔話を繰り返す内に怒りや悲しみや憎しみといった激しい感情を徐々に鞣して辿りついた境地というものを巧みに表現する手立てとなっているように思う。そして、オムニバスの最初と最後を締める章の主人公であるカフェの経営者夫妻各々の苦難と、常連客の苦難の対比。訳者が「ポリフォニー」と呼ぶその構成は、だがしかし、同じ旋律を同調あるいは転調しての追唱では決してなくて、敢えて音楽的比喩に拘るならバリの「ケチャ」のように家々が代々受け継いだ独自の旋律と拍子を謡い合う、むしろ「ポリリズム」と呼んだ方が相応しい多様な響きの集合だ。その変拍子的余韻に暫し痺れる。

Posted by ブクログ

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