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みんなで戦争 銃後美談と動員のフォークロア
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 青弓社 |
発売年月日 | 2019/03/26 |
JAN | 9784787220820 |
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みんなで戦争
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みんなで戦争 ~銃後美談と動員のフォークロア~ 重信幸彦著 2019年3月26日発行 青弓社 出征した夫に後顧の憂えがないようにと自刃した将校の妻、貧しくても気丈に軍事扶助(生活保護のようなもの)を申請しない(夫が戦死、息子が出征)ことにした女性、小商い(納豆売り)をして稼いだお金を軍に献金した女学生(姉妹)など、銃後の美談といえば、戦地に兵士を送り出した女性たちの話をイメージしがちだが、実はそれだけではない。 出征で働き手を失って困窮する母と子たちを周囲の者が協力して(男性含む)助ける、検査不合格で出征できなかったり即日帰されたりした男たち、傷痍軍人の銃後での協力話、はたまた取材中に殉職した記者の話などもあり、銃後美談は結構バラエティに富んでいる。 この本は、いくつかの銃後美談を紹介し、そこから読み取れる時代背景や当時の人々の意識、生活ぶりなどを分析している。銃後美談など戦意高揚のためのフィクションである、との一般的なイメージがあることを認めつつ、その検証をすることはひとまず置いておき、当時の日常的な人間関係の実態を示す一つの記録であることも確かであることから、その視点で分析を行っている。 非常に多くの資料を調べ上げ、内容も細かな字で400ページほどの読み応え。銃後美談もいくつも引用されているが、とくに大日本雄弁会講談社が出していた「キング」という大衆文化雑誌の付録の美談集からの引用が多い。それと、東京朝日新聞だ。ただし、他にもいろいろな美談集が出版されているが、吉川英治、直木三十五、川端康成、菊池寛、尾崎一雄、柳田國男、山本有三、折口信夫はじめ、当時の著名作家が軒並み書いているのは驚く。社会主義文学者もいて、言論の自由がない中でそれなりの“主張”をしていたようだ。 美談というと、納豆を売って小さくてもお金をつくり軍に寄付する子供たちや、献身的に軍の手伝いをする女学生、子供と病気の舅、姑を抱えながら頑張る妻、そして強い軍国の母の美しい話ばかりかと思うが、実はあってはならない"美談”もあるところが恐ろしい。 病気の妻と1男4女を有する貧農の男性が、「低脳」で失明寸前の二女を手にかけてから出征した。もちろん、残していく家族の生活苦を考えてのことだ。彼は犯罪がばれ、軍法会議にかけられたが懲役2年、執行猶予5年で軍務についた、とそういう悲劇だ。事実にしろ、作り話にしろ、どうにも出口のない“美談”。 結局、著者の結論はなにか。 銃後美談をはじめとした総力戦体制という「動員」は、まさに、昨今のグローバリゼーションという市場主義の時代の鮮烈な「競争」の理論のなかに私たちの日常が根こそぎ包摂されていく状況そのものと言える、と締めくくる。 長々と読んだ最後にこの言葉があって、やっと落ち着けた本だった。 ********************** 銃後とは、もともとは小銃を構える兵士そのものを意味する言葉として使われていたが、満州事変が始まったころから、戦闘が行われている前線に対して、直接は戦闘に参加はしないがその背後で前線を支援する立場を意味するようになり、日中戦争期前後には、戦争を支える国民の日常生活全域を意味するようになった。 「堅忍不抜」(若貴の若乃花が横綱昇進時に発した言葉)は、1937年10月に結成した国民精神総動員中央聯盟の標語の一つだった。 「欲しがりません、勝つまでは」を考えた作者の少女は、当時、非常にもてはやされたが、実は標語をつくったのは父親で、その事実を背負いながら生きた自らの人生について後に語っている。 「千人針」の歴史は日清戦争にまで遡る。 銃後美談から、「善意」という形をとった周囲の圧力に追い詰められた人たちがいたことが分かる。一見すると「小集団」のなかの抑圧的な「小天皇」や「狼」に変貌した隣人と、「善意」を形にして他人と関わろうとした人々は対照的に見えるが、実は両者には共通性がある。双方とも動員の時代の価値観に沿って「役に立つ」ことをしていると自覚しているのである。
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亜細亜太平洋戦争中、いわゆる銃後の庶民がどれほど戦争に入れあげていたかを、実際に報道されたものから紹介し考察している。もちろんプロパガンダで誇張されたものも有るかもしれないが、当時は実名も出ており、強ち作り話でもなかったようだ。 招集されていない老人と女性と子供は銃後の名の下に、...
亜細亜太平洋戦争中、いわゆる銃後の庶民がどれほど戦争に入れあげていたかを、実際に報道されたものから紹介し考察している。もちろんプロパガンダで誇張されたものも有るかもしれないが、当時は実名も出ており、強ち作り話でもなかったようだ。 招集されていない老人と女性と子供は銃後の名の下に、献金し、戦時国債を買い、お金のない家は梅干を戦地に送り、更に慰問袋を送る。米国と開戦する前ですら、献金で何十機もの戦闘機を献納し、一家の働き手を招集されても、補助金は申告制。戦死し少し纏まったお金が渡されても、近所からは嫌味を言われる始末。中国戦だけでも既に経済・財政的に相当厳しい様相だが、この後、米英と戦闘状態に入れり…となる。そんな状況で勝てると本気で思っていたのか? なにしろ現代でもそうだが、全体的に”空気”に流されやすい。多くの人が同じ方向を向いているときに、逆の方向を見ることも大事だと感じる。 また、その裏で内務省の記録を見ると、報道管制で当時は伝えられていないが、招集兵や戦死者の家族への見舞金・一時金等を狙って、現代の振り込め詐欺的に金銭を騙し取る詐欺士、立場を悪用し残された妻を強姦する役人などが後を絶たず、モラルも何もあったものではない。 しかし、世の中の雰囲気も、これら犯罪にしても、昔も今も根本は同一であり、この国は何も変わっていないと感じざるを得ない。
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