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アカシアは花咲く 東欧の想像力15
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商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | 松籟社 |
発売年月日 | 2018/12/01 |
JAN | 9784879843715 |
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アカシアは花咲く
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商品レビュー
3.8
5件のお客様レビュー
文学ラジオ空飛び猫たち第24回紹介本。 ラジオはこちらから→https://anchor.fm/lajv6cf1ikg/episodes/24-1930-endq1c ダイチ ラジオではお互いに好きな文章を朗読して感想を述べているのですが、詩的に綴られる文章がとにかく美しいです...
文学ラジオ空飛び猫たち第24回紹介本。 ラジオはこちらから→https://anchor.fm/lajv6cf1ikg/episodes/24-1930-endq1c ダイチ ラジオではお互いに好きな文章を朗読して感想を述べているのですが、詩的に綴られる文章がとにかく美しいです。《人間がコーヒーを飲むのは黄色い灯りのともる灰色の夕方、またもや何かがだめになってしまった夕刻。》この文章なんかすごく好きです。訳の力もあると思いますが、まったく古びた印象はなくて現代に書かれたものではないかと思うくらいです。二度読みましたが、《アカシア》は何を意味するか、《灰色》とは何か、わからないことは多々ありましたが、それでも心に残る言葉やこの本から得たイメージがあって非常におもしろい読書体験になりました。読む度にイメージが変わるのではないかと思います。 万人に合う本ではないと思いますが、好きな人にはたまらないと思います。美しい文章に触れたい人や、ゆっくりとした読書を好む人はかなりはまると思います。 ミエ ページをめくると不意に出会う文章に魅せられます。例えば、《路上へ、十月の琥珀色の夕闇に出れば十分だ。午後四時と五時の間のそのひととき、人生はいつも「壊れてしまって」いて、どんなことも私たちには起こりえない。》《ふいに、広場のアカシアが花開いた。そのあと、起こらなかったけれども起こりえた物の哀しい匂いで、あらゆる街路を満たした。》読んだもののよくわからない、けれども不思議な感覚の美しさがあった、というのが率直な感想です。今の日本からは遠い時代の遠い国の話ですが、どこか通じ合うところがありました。1930年代、ポーランドのリヴィウに住んでいたデボラ・フォーゲルは30代半で書いています。戦時中の厳しい時代に書き留めたのが、伝統的な小説ではなく、人物の個性を消した散文だったのは考えさせられます。 このような文学作品があったことがおもしろいと思えましたし、今の時代に翻訳されて読めるようになったのも感慨深いと思いました。文学作品が好きな人は試しで一度読んでみてもおもしろいと思います。
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横溢。あてどない生の横溢。 そもそもイディッシュ語とは、ユダヤ人が自国でない場所で暮らしていて使っていた、弱い立場の人達の無くなりかけた言葉であったと記憶している……文字を持たない、手掛かりの極少ない言葉。シマジーという、イディッシュ語がある。これは、「慢性的に不幸な人」という意...
横溢。あてどない生の横溢。 そもそもイディッシュ語とは、ユダヤ人が自国でない場所で暮らしていて使っていた、弱い立場の人達の無くなりかけた言葉であったと記憶している……文字を持たない、手掛かりの極少ない言葉。シマジーという、イディッシュ語がある。これは、「慢性的に不幸な人」という意味である。要するに、著者もそのような人の一人ではないかと思う……あるのは、あてどない生の横溢。例えばそれは、家を出てすぐのあの通りに、あの灰色がかった青空に、過去の粘つく記憶に、金属質の平たい花に、矩形のドレスに。著者は、あてどない上に、どこにも行けない、ただそこにいつつ、しかしながら、つねにすでに私はそこに存在しないのである。こんなに饒舌な換喩ばかりで驚くが、モチーフは繰り返されている。それが著者のどこにもあてどないという、ただ「そこでの」横溢ばかりがあることの何よりの証左である。詩情があるのではなく、換喩がある。これは、詩情すら持てないほどの、何者でもない、空虚にこだまする、魂の花=言葉の横溢なのである。
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付箋が全然足りない!まったくもって「引用師」泣かせの本だ。 そうだ!読書メーターと本が好き!とブクログ、twitterで、引用する箇所を変えてみよう! 我ながらなかなかいい考えではないか。 フーコー『性の歴史Ⅱ 快楽の活用』のびっしり書き込まれた文章を読んだ後だけに、自由に想像...
付箋が全然足りない!まったくもって「引用師」泣かせの本だ。 そうだ!読書メーターと本が好き!とブクログ、twitterで、引用する箇所を変えてみよう! 我ながらなかなかいい考えではないか。 フーコー『性の歴史Ⅱ 快楽の活用』のびっしり書き込まれた文章を読んだ後だけに、自由に想像を書きなぐれる余白がふんだんにあるのが嬉しい。 清岡卓行の『アカシアの大連』は、清岡の詩が散りばめられた小説だったが、これは詩で書かれた小説だ。 イマージュの物語であり、万華鏡の世界だ。 いつかまた、「砕けた心」を抱えて、この通りに佇んでみたい。たぶん、その時見える風景は、今見ているものとは異なっているだろう。 そこで僕は、七色のステンドグラスのかけらと会話するフラヌール(遊歩者)となる。 この街は、世界中のどこにもない「カメレオンの街」なのだから。 この小説は如何なる解釈からも屹立するが、また一方、幾千の誤読をも許すだろう。 決してたどり着けないカフカの「城」のように。/ また、本書は、第六回日本翻訳大賞の受賞作でもある。 巻末の訳者解説も、ボリューム、熱量ともに読みごたえがある。 《帽子と女性服を包む淡い黄色のボール紙や大箱、袋といった紙類がありとあらゆる歩道と通りを埋めた。薔薇色のマロニエの葉っぱが六月の灰色の街路を埋め尽くすように。歩道と緑地帯には女性のトルソーが連なる。髪にウェーブをかけた、目のない古代のトルソーだ。みずみずしい緑のうねりを見る目も持たず、周囲で生起してはすぐに過ぎゆく珍しくも繊細なありとあらゆる問題の集積を見る目もない(古代のトルソー、美容院のウィンドウの半身像、通りの女の胸像についた盲目の眼窩が人生をじっと窺う。穿たれた穴は、幸せという未知の戦慄とその未体験の可能性に向けて張り詰めていた)。》(「アザレアの花屋」四 春と帽子のボール箱) 《人生はそのとき、こういうふうに進んだ。誰もが知っていたわけではないが、その方向を定めたのは矩形、それは人生と灰色の冒険という英雄的なかたち。まるで、凝縮された硬い動きと甘いメランコリーの単調さに満ちた長い平面のようだ。しかしながらこの年、丸さという要素が許容され始めた。それは柔らかな人間の体のようなかたち、懐かしさや待つことのかたち。それは、意味のない出来事でも必要なのだという必然として現れた。そしてふいに、人生には幸せが必要なのだということが明らかになる。同時に、「砕けた心」を抱える人がいっぱいいることもわかった。》(同 十一 「永遠に砕けた心」) 《そのとき、人間にも物質の魂が発見された。不器用な磁器の魂。紙と木の魂。鉄の魂。金属板の魂。同時に、ショーウィンドウから街路に、人形たちと様々な人形の概念が飛び出した。こちらには、磁器製の悲しみや放埒の一滴を抜かりなく、オーダーメイドのように備えた女性の頭。その先をメランコリーが半分占める人形がゆく。》(「アカシアは花咲く」三 新しいマネキン人形たちがゆく) 《自分の詩は新しいスタイルの試みだと思っている。そこに近代絵画との類似を見ている」(フォーゲル『日のかたち』序文、一九三〇)。》(解説 デボラ・フォーゲルーー東欧モダニズム地図の書き換え) 《フォーゲルの一貫したテーマは生であった。「モンタージュの特権的なテーマとはーー生のポリフォニー性」(「文学のモンタージュ(序)」)であり、「モンタージュの真の主人公は二つの主たる傾向性ーー生物学的(で継続的)傾向と社会的(でアクチュアルな)傾向ーーを備えた、それ自体の弁証法に基づく生のプロセス」(「文学ジャンルとしてのモンタージュ」)なのである。モンタージュは、フォーゲルの捉える「生」のあり方をそれ自体として伝えるメディアであった。》(同) 蛇足だが、僕がなぜ本が読めないのか分かった気がする。たぶん、読書は自転車に似ているのではないだろうか?自転車は、こぎ始めほど大きな力が必要で、フラフラする。いったん走り出してしまえば、こぐほどにスピードが出て、走行は安定し、ペダルは軽くなる。だが、あまりこがなければ、いつまでたってもフラフラしたままだ。 つまり、僕は、あまり読まないから読めなかったのだ。 遅まきながら、「生の技法」ならぬ「読書の技法」を発見したような気がする。
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