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柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震 ちくま学芸文庫
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 筑摩書房 |
発売年月日 | 2017/01/10 |
JAN | 9784480097736 |
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柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震
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難しかった。前提知識が全然足りてない。笑 ただ、「日本人はなぜデモをしないのか」はとても面白かった。 ニュースでも今の若者は、と言われるし、自分自身も自分含めてダメだな、デモって怖そう、なんで一生懸命やってるんだろ(他人事)、SEALDsでやってたことはすごいとは思うけどどう...
難しかった。前提知識が全然足りてない。笑 ただ、「日本人はなぜデモをしないのか」はとても面白かった。 ニュースでも今の若者は、と言われるし、自分自身も自分含めてダメだな、デモって怖そう、なんで一生懸命やってるんだろ(他人事)、SEALDsでやってたことはすごいとは思うけどどうなん?…てか民主主義ってなに… って思ってたけど、別に今が特別どうとかじゃなかったんだ。安保闘争の時だって、最初の勢いが過ぎると過激派に押されて一般の?人は離れていった。 選挙の結果が全てとか、デモは正しい正しくないとか、その考え方自体が間違い。どっちも大事なんだ。 知識人といわれている人やテレビのコメンテーターの言うことをまるっと信じちゃいけない、とはよく言われるけど、そのためには自分の中で確信が持てる知識が必要なんだと思った。 その確信のためには、言葉の意味の理解や歴史の歩みを知ること。 今当たり前に行われている選挙は民主主義的にどうなのか、議会制民主主義とデモは両立するのか。いろいろ脱線したけど、「日本人はなぜデモをしないのか」はその問いに答えてくれたように思う。
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タイトルが思想的「地震」と書かれているのは、そして1995年からの講演を集めているのは、柄谷が生まれた神戸の地を襲った阪神大震災と無関係ではないだろうと考えてみる。 20年は長いようで短い。自分が柄谷を読むようになったのが、おそらく1990年頃であったので、これらの講演はそれ以...
タイトルが思想的「地震」と書かれているのは、そして1995年からの講演を集めているのは、柄谷が生まれた神戸の地を襲った阪神大震災と無関係ではないだろうと考えてみる。 20年は長いようで短い。自分が柄谷を読むようになったのが、おそらく1990年頃であったので、これらの講演はそれ以降の話であり、中期の主著『探究I・II』がすでに出た後の話だ。それ以降も柄谷行人の足跡は多様で、講演の期間の中で変わっていく中でも変わらないものがあることがよくわかる。 ひとつは「他者」の問題であろう。特に『探究II』の頃より「他者」の存在と他者とのコミュニケーションについて傾注していた時期が確かにあった。そこではヴィトゲンシュタインの教える-学ぶ関係や、コミュニケーションとしての資本-商品-資本の動きなどが思考されていた。柄谷によると、他者とはまだ生まれぬ人であり、死者である。その他者の定義と視線は、どこか高橋源一郎の観点と重なるのである。 文学に対する姿勢についても興味深い発言が読み取れる。柄谷行人を世に出さしめたのが『日本近代文学の起源』であることはいうまでもない。国木田独歩の『忘れえぬ人々』を取り上げて、小説における「風景」の発見を論じた印象的な文芸批評が含まれる論文集である。柄谷がそのキャリアをスタートさせたのは文芸批評だった。その柄谷は講演の中で、文芸批評を選んだのは、それがテキストで書かれたものであれば何であれその対象になるからであったという。「文学批評では、対象としては文学でないものを論じることができます。例えば、哲学や宗教学、歴史学といったものも、文学批評の対象になる。文学批評は何を扱ってもよいのです。それが書かれたテクストであるならば。もし哲学や経済学、歴史学といった何かを専門にすると、それ以外のことができなくなる。が、文学批評であれば、それができる。私は欲張りなので、文学批評を選んだのです」というとき、その自信家であるところが伺うことができる。 その柄谷が、近代文学は死んだという。いわゆる近代文学は、文学が小説であったような時代にあって成立したと。いま、小説はそのような位置を占めえない。逆に、なぜ小説が特殊な位置を占めるようになりえたのかということの方が問われるべき問であるように思われるのである。 「私は自分が日本で文芸批評をやってきた経験からいうのですが、近代文学は一九八〇年代に終わったという実感があります。いわゆるバブル、消費社会、ポストモダンといわれた時期です。そのころの若い人たちの多くは、小説よりも“現代思想”を読んだ。いいかえれば、それまでのように、文学が先端的な意味をもたなくなっていました」 その移り変わりは、その外にいてもよくわかる変化であったように思う。 日本のある種の文学は、中上健次で終わったと。中上健次のようなものから村上春樹のようなものへと移行していったのだという。柄谷は村上春樹も文学の線上においては比較的評価をしているのであろうか。 「近代文学が近代ネーション形成の基盤であったことは否定できない事実です」 しかし、そのような時代はすでにして過ぎ去ったのである。そのことが色濃かったのは文芸批評をしていた初期柄谷も着目した明治時代である。高橋源一郎も明治時代の日本文学に殊更執心であるが、同じような観点で明治文学を見ているように思われる。 デモに対する姿勢など、個人的な観点から賛同しないとこともあるのだが、それも含めて『探究』から、柄谷行人の最近の代表的な仕事である『世界史の構造』につながる足跡が少し垣間見えて興味深い。
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ブログ更新:『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』 http://earthcooler.ti-da.net/e9341506.html この20年とは、かつての文学批評の仕事をやめて哲学的なそれへ移る時期に重なる。しかし、その「変遷」が時系列でグラデーションのよう...
ブログ更新:『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』 http://earthcooler.ti-da.net/e9341506.html この20年とは、かつての文学批評の仕事をやめて哲学的なそれへ移る時期に重なる。しかし、その「変遷」が時系列でグラデーションのように読み取れる、というわけにはいかない。それが本書の魅力といえる。
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