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農本主義のすすめ ちくま新書1213
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 筑摩書房 |
発売年月日 | 2016/10/01 |
JAN | 9784480069221 |
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農本主義のすすめ
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農本主義のすすめ
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農本主義といえば戦後、政治学者・丸山真男氏が陸軍暴走の根源にあった思想として批判したところから、長らく公に語られることはなくなった経緯があるそうだ。 また当時、農本主義のその中心的な人物であった橘孝三郎(立花隆の叔父にあたるらしい)が、5・15事件を引き起こした青年将校に共鳴し...
農本主義といえば戦後、政治学者・丸山真男氏が陸軍暴走の根源にあった思想として批判したところから、長らく公に語られることはなくなった経緯があるそうだ。 また当時、農本主義のその中心的な人物であった橘孝三郎(立花隆の叔父にあたるらしい)が、5・15事件を引き起こした青年将校に共鳴してクーデターに参加した(実際には変電所爆破未遂に終わっている)ところから、農本主義者とは極右的な急進改革的な勢力として退けられることも多いという。 ただ、宇根さんのいう「農本主義」は、拍子抜けするほどに、とても素朴なものだ。 農本主義とは、そのまま「農を基本において社会を設計をしていく志向」のことであり、現代でいえば、資本主義や合理主義からこぼれ落ちてしまう(あるいは「情緒」としかいいようのない)価値を、いかに計量(可視化?)し、これを表現していくかを考えること。そのチャレンジの総体を指す、やや輪郭のはっきりしない言葉にもみえる。 ともかく、資本主義や共産主義、あるいは社会主義など経済イデオロギーと対置されるほどに偏りや強度を持ったものではないようである。 どんな思想も急進的、暴力的になる危険性はあるし(古くは延暦寺の僧兵や日本赤軍、あるいは議会に乱入したトランプ主義者まで)、当たり前だが「農を社会の基本に据えて考える」という考え方そのものが、ファシズムと等号で結ばれているわけではない。 本書で頻出する言葉は「忘我」、「天地」、「在所」あとは「赤とんぼ」。そしてナショナリズム(愛国心)ではなく、パトリオティズム(愛郷心)を、と著者は説き続ける。 人間の営みは、すべて社会の客体としての自然から資源を切り出し、加工/流通/消費することで成り立つ。これは農畜産物だけを指すのではなくて、林産資源もそうだし、化石燃料やその他の地下埋設資源の掘削もこれにあたるわけで、もとを辿ればすべて人知を超えた自然による変成プロセスからのギフトをいただくこと(これを「農」といっていい)がなければ、社会は成り立たない。 そういう意味では、自分が農本主義者を自認するかかどうかは横に置いておいたとしても、社会はいつだって農本的で、これは否定のしようもない事実として受け入れる必要がある。 農本主義は自然科学や人文科学より、むしろ伝統宗教のほうに近接している感じもある。 農本主義はなにかを否定するものではなく、イデオロギーとして対立を煽るものでもなく、月並みにいえば、当たり前の現象にどれだけ意識的であれるか、また意識的であればこそ……あとは皆までいうな、ということになるだろう。 今日も私は天地の間で我を忘れて草をとり、ある人は昆虫の多様性に心を惹かれてこれを追い、またある人は鳥の声を耳をすませ、さらにある人は木々の年輪によりそい素晴らしい作品を生み出している。 そんな在所を懸命に生きている。おそらく、これもひとつの幸せといえるに違いない。
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経済的合理性を唯一の基準とする近代的な価値観によって、現代の日本における「農」の営みが危機にさらされていることを批判し、橘孝三郎、権藤成卿、松田喜一という三人の農本主義者の思想を新たに読みなおしつつ、資本主義に対するオルタナティヴとしての農本主義の可能性を論じている本です。 著...
経済的合理性を唯一の基準とする近代的な価値観によって、現代の日本における「農」の営みが危機にさらされていることを批判し、橘孝三郎、権藤成卿、松田喜一という三人の農本主義者の思想を新たに読みなおしつつ、資本主義に対するオルタナティヴとしての農本主義の可能性を論じている本です。 著者は、橘らの農本主義がファシズムの一種と目されてきたことについて再検討し、「天地有情の共同体」としての「在所」(パトリ)のなかに包まれて「農」の営みにたずさわることと、ファシズムとのあいだに一線を引こうとしています。著者の主張はある程度理解できるのですが、どうしても「自然」を実体的な「唯一者」のようにみなすことへの危惧を拭い去ることはできませんでした。 もっともこうした問題は、著者のいう「外からのまなざし」と「内からのまなざし」の差異に基づくものであるのかもしれません。著者は「農の表現が難しいのは、内からのまなざしの表現も、従来の外からのまなざしによる言葉を借用しないと言葉が足りないからです」といい、「内からのまなざしを外部の言葉で語ったとしても、それは内と外の両方のまなざしが交わっていると自覚すること」が重要だと述べています。しかし、そうした言葉の「交わり」を自覚できるのは「内」に住むひとであり、それが「思想」として自立するとまったく「外」の言葉として流通してしまうことへの歯止めがどのように担保されているのかと問われなければならないように思います。
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