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海市 P+D BOOKS
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海市 P+D BOOKS

福永武彦(著者)

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海市 P+D BOOKS

定価 ¥990

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 小学館
発売年月日 2016/06/12
JAN 9784093522694

海市

¥550

商品レビュー

3.8

5件のお客様レビュー

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2024/11/28

愛は、かげろう。 ずっと続く愛なんてないのに、同じことを繰り返している。 愛している、という言葉のなんと薄っぺらいことか。 物語の最後が冒頭の場面につながっているのは、そのことを象徴しているかのようだ。 場所も時間もバラバラのエピソードが積み重なっていって、彼とか彼女とかの人称...

愛は、かげろう。 ずっと続く愛なんてないのに、同じことを繰り返している。 愛している、という言葉のなんと薄っぺらいことか。 物語の最後が冒頭の場面につながっているのは、そのことを象徴しているかのようだ。 場所も時間もバラバラのエピソードが積み重なっていって、彼とか彼女とかの人称代名詞だけで語られるエピソードもあるので、誰と誰が同一人物で、どのように物語がつながっているのか、最初は謎だらけだった。 それが読み進めていくうちに、だんだんと全貌が明らかになっていくという構成は、意欲的だと思う。 内容的に、好きか嫌いかという基準で言うと、それほど好きな物語ではない。 澁太吉の身勝手さは昭和の男そのものだし、かと言って、安見子を始めとする女性陣にも共感はできない。 誰にも共感できず、図太くなければ死に向かい、それでも澁はしたたかに生き続けるのだろう。 過去に関係を持った女性たち、という霞みがかった美しい思い出だけを胸にしまって。

Posted by ブクログ

2021/11/28

『草の花』が好きすぎて、氏の他の作品も読んでみようと手にとった2作目。 文章がとにかく好きなので、蜃気楼を見に行く冒頭から世界観に浸らされて酔いました。 「私」こと画家の渋の視点で語られる一人称の合間に、「彼」「彼女」の三人称視点をはさむことによって、物語の全体像が少しずつ明らか...

『草の花』が好きすぎて、氏の他の作品も読んでみようと手にとった2作目。 文章がとにかく好きなので、蜃気楼を見に行く冒頭から世界観に浸らされて酔いました。 「私」こと画家の渋の視点で語られる一人称の合間に、「彼」「彼女」の三人称視点をはさむことによって、物語の全体像が少しずつ明らかになっていきます。『草の花』しか読んだことがなかったので、福永さんってわりと構成にこだわるんだな〜というのが新鮮でした。『草の花』のノートという構成もすごく好きですが。 さて、内容ですが。 安見子さんと接近してからは、やたらとホテルでいちゃこく渋さん‥‥‥。彼の悩ましい語り口と、そのいちゃこきっぷりのギャップに「うーん、これが昭和というものなのかしら」と古臭さを感じました。いや、時代的なものなのか、福永氏的なものなのか、わかりませんけども。『草の花』でプラトニックなボーイズ・ラブが描かれていたイメージが強かったので、渋さんのエロおやじっぷりに、あら意外とこういう感じも書くのね‥‥‥?とドギマギしながらも、これはこれで楽しめました(笑)でも福永さんはきっと超真剣に濡れ場を書いていたんだろうな‥‥‥。 とはいえ、濡れ場の中にも揺れ動く男女の心情が丁寧に描かれていて、読んでいるあいだは脳内でTHE YELLOW MONKEY『聖なる海とサンシャイン』が流れていました。愛と死、交われない孤独、記憶。歌詞がこの小説の世界観とピッタリです。 ダブル不倫、それも親友の妻、さらに過去の男女模様など、複雑な恋愛関係だけに、ハラハラしながら読み進めましたが、そのわりにラストはちょっとあっさりでした。あそこまで書いたなら、あえて匂わせずに最後まで書いてほしかったかな。冒頭に立ち返るラストというのは綺麗なおさまり方ではあるんですけどね。

Posted by ブクログ

2020/02/27

画家の渋太吉は一人で旅に出ていた。蜃気楼が見られると言われて行った海の街で若い女性に出会う。自由で陽気で掴みどころがなく奔放。渋はすぐに彼女に惹かれてゆく。渋にはかつて愛した女性があったが、彼女とは不幸に始まり不幸に終わった。その後妻と結婚したが、その愛情は幸福に始まり不幸に終わ...

画家の渋太吉は一人で旅に出ていた。蜃気楼が見られると言われて行った海の街で若い女性に出会う。自由で陽気で掴みどころがなく奔放。渋はすぐに彼女に惹かれてゆく。渋にはかつて愛した女性があったが、彼女とは不幸に始まり不幸に終わった。その後妻と結婚したが、その愛情は幸福に始まり不幸に終わりつつある。だから今度は幸福に始まり幸福に終わる関係を経験できるのではないか、そんな想いを持った。 だが彼女は安見子(やすみこ)という名前だけを伝えて去った。 (「安見子」は万葉集に出てくる「我もはや安見子得たりみな人の得がてにすとふ安見子得たり」という歌であり、「安見しし」というのは「心安く天皇が国を収めるという意味の枕詞」) 東京に帰った渋は思いがけず安見子と再会した。20年来の友人の古賀の妻として。 その関係を知っても渋は余計に安見子に惹かれていくばかり。愛情を訴える渋に安見子は近いようで遠い、かと思えばまた近づいてくる。  私たちは一緒に愛し合っているのではない、互いに自分のやり方で別々に愛していた。  愛の燃焼が極限までに達したなら、焼き滅ぼす以外に方法はない、死は完結で、あらゆる美しいものは死に終わる。 戦中派の渋の人生には死は切り離せなかった。彼は人間を3つのパターンに分ける。 確実に死ぬべき人間、死が通り過ぎて生き残った者、死とは無関係なる者。 そして渋が愛した3人の女性たちとの物語には精神の、肉体の死がつきまとっていたのだった…。 === 福永武彦の小説における、家族不全、愛の不在、孤独、死の影、というものが色濃く出ています。 構成としては、「私」という一人称で語られる渋太吉の現在の物語(安見子との恋愛、うまく行かない家族のこと、絵画のことなど)に、「彼」「彼女」として語られる男女の愛の断片が挿入されます。 読んでいくうちに、「彼女」とはそれぞれ渋が愛してきた三人の女性だとわかります。 一人はかつて渋が心中を誓ったけれどそれを破った ふさ という娘さんとの挿話。一人は別居中の妻弓子と彼女が昔好きだった男性との一こま。一人は安見子で、彼女の子供の頃のことやボーイフレンドや夫との生活。それらにはやっぱり死が近くて。 時代的なものもあるのか、女性が自立していないのでウダウダしていたり、男性が家庭に無関心だったり、やっぱりが「愛している」を連呼されるとなんかこっ恥ずかしいなあとか、恋愛を含む人間関係においても現代感覚では「はっきりしろ〜〜〜!」と言いたくなるような気もするんですが、まあ小説の筋や人物像より愛と死のテーマが重要だからそれはしょうがないか。

Posted by ブクログ