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ナラティヴ・セラピストになる 人生の物語を語る権利をもつのは誰か?
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ナラティヴ・セラピストになる 人生の物語を語る権利をもつのは誰か?

S.マディガン(著者), 児島達美, 国重浩一 , バーナード紫, 坂本真佐哉

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ナラティヴ・セラピストになる 人生の物語を語る権利をもつのは誰か?

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 北大路書房
発売年月日 2015/08/28
JAN 9784762829017

ナラティヴ・セラピストになる

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商品レビュー

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2024/05/29

"ポスト構造主義"とか…。"脱構築"とか、現代哲学(…といっても、一昔前だが)が好きな人には、ナラティヴ・セラピーはウケるのかもしれない。 けど、クリアーカットには理解できないな、やっぱり。そもそも「ディスコースとは何なのか?」からして、...

"ポスト構造主義"とか…。"脱構築"とか、現代哲学(…といっても、一昔前だが)が好きな人には、ナラティヴ・セラピーはウケるのかもしれない。 けど、クリアーカットには理解できないな、やっぱり。そもそも「ディスコースとは何なのか?」からして、イマイチよくわからない。 余談。株式投資には"テクニカル派"と"ファンダメンタル派"というのがあり、小難しい議論が好きな人(MBAホルダーとか)は、財務分析とかをこねくり回す"ファンダメンタル派"を好む。 では、投資のリターンとして"ファンダメンタル派"のほうが儲かっているかというと、必ずしもそうならない。相手は"相場"という"生き物"だからだ。 心理療法もまさしくそれで、相手は"生き物"だ。"社会構成主義"うんぬんを緻密に積み上げても、効果的なセラピーになるとは思われない。第一、他職種を説得して、同意をとるのが面倒そうだ。 フーコーとかベイトソンとか過去の叡智が、最近のクライエントにどれだけ通用するかもわからない。 ただ、心理療法を"クライエントの可能性を広げる作業"と定義するならば、セラピストが用意する"仮説"は、多ければ多いほどいい(と私は考えている)。そういう意味では、小難しい哲学議論に付き合ってみるのも一興かと思われる。

Posted by ブクログ

2018/10/17

日本語タイトルは、「ナラティヴ・セラピストになる」だけど、原題は単純に"narative therapy”ですね。さまざまな心理療法の大学院レベルの概論をまとめたシリーズの1冊という位置付けかな? だが、これをよむとナラティヴ・セラピーはそもそも心理療法ではないのでは...

日本語タイトルは、「ナラティヴ・セラピストになる」だけど、原題は単純に"narative therapy”ですね。さまざまな心理療法の大学院レベルの概論をまとめたシリーズの1冊という位置付けかな? だが、これをよむとナラティヴ・セラピーはそもそも心理療法ではないのではないかという感じがしてくる。 心理療法というよりミクロレベルで行われる社会変革活動? なのでその理論的な根拠は、心理学のなんらかの流れからくるものではなく(それらは結局のところ近代的に構成された主体を前提とした本質主義なのだ)、フーコーなどのポスト構造主義の議論からきている。 これまで読んだナラティヴ関係の本では、ポスト構造主義との関係がなんだか中途半端にしか書いてないものが多い気がしていたのだが、この本でその辺がしっかりとつながった感じ。 わたしは心理学に興味を持ち始めたのは比較的最近なんだが、フーコーとかはわからないなりに結構前から読んでいる。 多分、フーコーとかの議論が頭のどこかにあるので、心理学は面白いと思っても完全にそのとおりだという気持ちになれなかったんだなと今になって思う。 つまり、これまでの心理学や心理療法は、何らかの意味で自立した個人、主体を実在論的に設定して、そのなかで意識か、無意識かはわからないが、本質的ななにかが外にむけて表現されたり、されなかったりする、という仮定のもとになりたっていたというわけ。 ここの仮定が、人を独立したものというより、関係性のなかにあって、変わりゆくものという仏教的な人間観、そしてポスト構造主義的な人間観とあわなかったわけだ。 この本は、ナラティヴとフーコーの関係がわかりやすく、そしてある程度の分量をもって議論されていて、よかったな〜。 実をいうと、他のナラティヴの本では、ポスト構造主義と構造主義の比較がちょっと雑な議論になっていることが多い。つまりこの2つは対立的な概念として整理してあることが多いのだが、実際には、構造主義があったから「ポスト」構造主義があったわけで、この2つの差はそこまで大きくない。実際、フーコーは構造主義に整理されることも多かった。 いずれにしてもフーコーがこういうかたちで「役に立つ」のは驚きである。 フーコーを読むと知的な楽しさはあるものの、基本、現代社会への批判ということで、なにをやっていいのかわからなくなってしまう感じがしていた。 それが、ナラティヴという形をとることで、フーコーが問題にするミクロ権力のなかで、具体的に関係性に働きかけていくことができるのはすごいな〜、と感無量だ。 というわけで、これは哲学の実践であって、心理学の実践ではないんだな、と思った次第。 徹底した反個人主義、反本質主義でありながら、ナラティヴ・アプローチの一人一人の人間に対する眼差しは限りなくやさしく、敬意にみちている。 マイケル・ホワイトは、「僕たちの仕事の相手になる人たちは、いつだって自分で認めるよりずっと面白い人たちなんだよ」といっていたそうだ。 ナラティブ・セラピーとは何よりもまずアプリシエーション(好意的理解)のセラピーであるということなんですね! おお、ここでやっぱりアプリシエイティブ・インクワイアリーとつながるんだ。 そう、わたしが求めているのは、反本質主義、反個人主義でありながら、アプリシエーションにもとづくものなんですね。 ここんところが、どうつながっているのかが、もう少し知りたい!

Posted by ブクログ

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