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人間のしわざ
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 集英社 |
発売年月日 | 2015/04/03 |
JAN | 9784087716016 |
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人間のしわざ
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2015.7記。 むごたらしい殺戮の現場を撮りつづける戦場カメラマン、息子はその写真をネットで売りさばき、原発へのテロを夢見ながら引きこもっている。 広島で教皇が演説した時にいったという「戦争は人間のしわざです」という言葉は、原爆さえ神の御心による試練だと信じようとしていた長崎...
2015.7記。 むごたらしい殺戮の現場を撮りつづける戦場カメラマン、息子はその写真をネットで売りさばき、原発へのテロを夢見ながら引きこもっている。 広島で教皇が演説した時にいったという「戦争は人間のしわざです」という言葉は、原爆さえ神の御心による試練だと信じようとしていた長崎出身の主人公に動揺をもたらす。 主人公がみる幻覚の形で描かれる江戸期のキリシタン弾圧のすさまじさ、島原の乱における籠城戦の悲惨さ(これはバルガス・リョサの「世界終末戦争」を彷彿とさせる)。 そして息子とともに撮影に赴いたぬかるんだ干潟に溢れる生命。 表面的なところでいうと、意外と文体に村上龍との共通点がある気がした。すなわち、グロテスクを正面から強調する表現、句点ではなく読点でつなぎながら延々と長い一文。 「干潟に流れ着いた兵士たちのうつぶせの死骸もだんだんと崩れてしまい、シオマネキが毛の生えた耳をつついて、流れていく皮膚や体液をバクテリアはさらにこまかく崩してしまい、シャミセンガイやふしぎなかたちの二枚貝も融けた肉をすすり、ひとつの死とひきかえに微細な数億、数十億、数え切れないいのちが沸騰してきて、あれらが氾濫して、それは潟のなかの兵士の亡骸だけのことでなく、世界中でぼくが見つめてきた兵士たち―――すかっとした青空のもとにある後頭部が吹き飛んだ兵士の死体だけでなく、砂漠や、廃墟にいる彼らの身の上にも起きていたことで、あれは自然のしわざで、神のみわざであろうはずがない。」(P.163) 上手な朗読とかで聴いたらすごく感動するのではなかろうか。私としては、小説というよりは詩に近い感覚で読み終えた。
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「人間のしわざ」とは、ヨハネ・パウロ二世が戦争について語った時の言葉だ。 主人公、といってよい男は戦場カメラマンで、家族を顧みず、戦場で死体の写真を数多く撮り続けてきた。息子はそのことでおかしくなっている。 男とかつて「いい仲」だった女との逢瀬の中で、そうしたことが語られ...
「人間のしわざ」とは、ヨハネ・パウロ二世が戦争について語った時の言葉だ。 主人公、といってよい男は戦場カメラマンで、家族を顧みず、戦場で死体の写真を数多く撮り続けてきた。息子はそのことでおかしくなっている。 男とかつて「いい仲」だった女との逢瀬の中で、そうしたことが語られるのが、前半の「人間のしわざ」。後半は「神のみわざ」と題しているが、やはり戦争という試練は神のみわざではなく、人間のしわざ、なのだ。 前半は、性描写と登場人物達の壊れ具合とがヘビーであり、後半には多少の救いもあるが、神の救いではない。これも人間のしわざ。 過去と妄想と幻想が入り混じる。ただとにかくわかるのは、今もなお行われている残虐行為はみな人間のしわざ、ということだ。小さなしわざから大きなしわざまで。ああ、嫌だなあ…。
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『戦争は人間のしわざであり、誰も望まなくてと人間は秩序を求めるのと同じくらいに混沌を求めており、なにもしなくてもアンテナは錆びついていき、コンクリートは剥がれ落ちはじめ、土台の鉄骨でさえだんだんと傾いて、いつかは壮麗な天主堂の崩壊のときは必ずくるだろう…』ー『人間のしわざ』 青...
『戦争は人間のしわざであり、誰も望まなくてと人間は秩序を求めるのと同じくらいに混沌を求めており、なにもしなくてもアンテナは錆びついていき、コンクリートは剥がれ落ちはじめ、土台の鉄骨でさえだんだんと傾いて、いつかは壮麗な天主堂の崩壊のときは必ずくるだろう…』ー『人間のしわざ』 青来有一が書くことの根源には長崎という土地に幾重にも堆積した命と信仰するものへの揺れる気持ちがあるとは感じていたが、ここまで率直に語られるとは思わなかった。例えば「てれんぱれん」とこの「人間のしわざ」はほとんど同じことを書いているようにも思えるが、神のみわざを遥かに上回るかのような人の生み出す力、そしてその力が犯してしまうもの、そんなことを青来有一は書き続けていると思う。 自分は信仰を持たないモノ故、分かるとは到底言えないが、信仰心は時に神の不在によって掻き乱されるのだろう。何故この苦しい時に神は奇跡を起こして我らを救済してくれないのか。一方で、神は惜しみ無く与えもするが奪いもする。最初の殉教者であるステファノ以来、その人の死が信仰心の証しであると解釈され、苦しみに耐えることが信仰心を試されているのだと受け入れなければならないことまで、信仰の条件とされてしまうことに戸惑いもあるのだろう。始まりであり終わりでもある万能の神は何故人の信仰心を試す必要があるのだろう。そんな小さな躓きが信仰心を支えていた小さな小石の一つを動かしてしまう。そして人間のしわざは、想像を遥かに越えて残忍な結果をもたらす。それが本当に必要な死であったと誰が言えるのか。そこに作家の思いは常にあるのだろう。 信仰のもたらすものが地の平和であり心の平穏であるなら、この地で起きていることはどう解釈したらよいのだろう。心の平穏だけを大切にするのなら隠遁し、世の中の出来事から自分自身を隔離して、心の中の泉の水面に小波を立てさせないという選択肢もある。過去の歴史や遺跡を見れば、そのようにして篤い信仰心を保った集団もいたことは明らかだ。しかし、そこにあるのは矯正され矮小化された人間の姿であることも事実ではないのか、と青来有一は綴っているように思う。 ヨハネ・パウロ二世の長崎での殉教者記念ミサの言葉を巡り、信仰心を持つものの心の内を赤裸々に描いて見せた後半の「神のみわざ」は、遠藤周作の「沈黙」と同じくらい信仰心を持たぬモノにも信仰に内在する葛藤を描いた秀作であるようにも思うが、それはやはり前半のどこまでも一般人の視点による主人公の描写があってのことなのだろう。雷雨のエピローグが何も示唆しないことに好感を覚える。
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