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不安の精神療法
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 醍醐書房 |
発売年月日 | 2000/07/31 |
JAN | 9784925185080 |
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不安の精神療法
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現存在分析のツートップとしては、ビンスワンガーとボスが有名であるが、ビンスワンガーはハイデガーから攻撃され、他方でボスはハイデガーに好かれていたという。この両者の違いはどこから生じるのか? ビンスワンガーにとっての現存在分析とは「ありのままに捉える」という意味なのであろう。例え...
現存在分析のツートップとしては、ビンスワンガーとボスが有名であるが、ビンスワンガーはハイデガーから攻撃され、他方でボスはハイデガーに好かれていたという。この両者の違いはどこから生じるのか? ビンスワンガーにとっての現存在分析とは「ありのままに捉える」という意味なのであろう。例えば、フロイトは過去に遡って精神分析をする。エディプスコンプレックスなどどいった具合である。患者が、20歳でも、現在の問題は彼が物心がつくかつかないかの頃のエディプス期をうまく乗り越えられなかったことに問題がある、と決め付けられるわけである。だが、ビンスワンガーはそうではない。例えば、今、彼が苦しんでいるとするならば、「彼が今苦しんでいる」という事実を大切にしよう、と考えているのであり、「現存在分析」とは、言い換えれば、「現在分析」なのであろう。だが、ボスはそうではない。ボスは「現存在」として、存在を捉えようとしている。それは、現象学的に捉えられた現在を生きる存在であり、すなわち、単純な主観的に存在している存在者というよりは、むしろ、「間主観的に」=「他者と共存する主観を持った存在者」なのである。そのような存在者は、心身を「統合」できる存在者であり、身体や精神に分極して症状を捉えるのではなくて、両者を統合的に捉えていこうとする姿勢なのである。精神病なるものがあれば、それが「心」に現れてくる面と、「脳内異常」として現れてくる面とを両方ともに対応していかなければならない。だが、この場合に、心=機械、装置として物理的身体的に捉えることや、脳内異常=機械の故障として捉えること、更には、脳内異常を無視して全てを心理的な問題とするこどなどへボスは警鐘を鳴らしているのであろう。人は生きた人間であり、それを機械的に捉えてはいけないが、かといって、生理学的な側面を無視してもいけない。つまり、人間は「生きた身体」なのであり、そこには能動性があるのだから、積極的にそこへと関わっていくべきなのである、と。 ちなみにボスは「不安」と「罪責感」こそが、人間にとっての根源的な状態であるといったことを述べている。人間はあれこれに埋没して不安を忘れているけれど、「ただ存在している」といわれれば誰しもが不安になるだろう。だから、我々は元来不安なのである。だが、その不安が捻じ曲げられる=たい落する=非本来的に生きる=大多数の人間の生き方=の結果、「恐怖」などへと変わってしまうが、その根源には不安がある。罪責感もやはりボスは根源的なものと考える。我々は世界に開かれており、開かれているということは、ありとある可能性に囲まれている。だが、その可能性の多くを我々は選択しないわけである。だとすれば、そこから罪責感が生じるのは至極自然なことに感ぜられる。と、くれば、不安と罪責感はより根源的な状態であり、そこへと立ち向かうことこそが「本来的に求められている」ことなのだろう。
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