1,800円以上の注文で送料無料

われわれの戦争責任について ちくま学芸文庫
  • 中古
  • 書籍
  • 文庫

われわれの戦争責任について ちくま学芸文庫

カール・ヤスパース(著者), 橋本文夫(訳者)

追加する に追加する

われわれの戦争責任について ちくま学芸文庫

定価 ¥1,210

1,100 定価より110円(9%)おトク

獲得ポイント10P

在庫なし

発送時期 1~5日以内に発送

商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 筑摩書房
発売年月日 2015/03/01
JAN 9784480096692

われわれの戦争責任について

¥1,100

商品レビュー

4

3件のお客様レビュー

レビューを投稿

2015/12/22

「私は戦争が起こる前に、反対し、みんなにも警告しておいた。だから、私には戦争の責任はない」――さて、万が一にも戦争が起きてしまったとして、こう主張することは正当なことでしょうか?そもそも、「戦争責任」とは何なのだろう?第二次世界大戦の直後に、この問いに真正面から向き合った著作が、...

「私は戦争が起こる前に、反対し、みんなにも警告しておいた。だから、私には戦争の責任はない」――さて、万が一にも戦争が起きてしまったとして、こう主張することは正当なことでしょうか?そもそも、「戦争責任」とは何なのだろう?第二次世界大戦の直後に、この問いに真正面から向き合った著作が、敗戦国ドイツの哲学者ヤスパースによって発表された本書です。日本でもかつて『戦争の罪を問う』というタイトルで出版されていた著作ですが、戦後70年を機に復刊されました。 さて、ヤスパースは本書において罪の種類を四つに分類します。たとえば、侵略行為や殺人などの戦争犯罪を犯した 人間に該当する「刑法上の罪」に関して言えば、大多数の国民は責めを免れることになるでしょう。しかし、だからといって、国民がまったく罪を逃れることにはなりません。というのも、政府によって犯罪がなされたとき、国民はその国家の公民であったからです。こうした「政治上の罪」に関しては、すべての国民が責任を感じなければならないとヤスパースは考えます。彼はこの罪を扱うにあたって、次のように言います。 「近代国家においては誰もが政治的に行動している。少なくとも選挙の際の投票または棄権を通じて、政治的に行動している。政治的に問われる責任というものの本質的な意味から考えて、なんぴとも、これを回避することは許されない」。 またナチス政権下では、「生きるためには、本心ではなくともナチスに忠誠を誓うしかなかったのだ」という人々が少なくなかったはずですが、そうした「仮面をかぶった生き方」は「道徳上の罪」に該当するとヤスパースは考えています。「仕方なかったのだ」と言って「責任逃れ」する態度にある種の「罪」を見出すヤスパースの鋭さには、感銘を受けます。本書は直接的には、第二次世界大戦という「戦争」に対してドイツ人が負う「責任」を主題としています。しかし、「戦争責任」ないし「責任」について、現代にも通じる多くの普遍的な洞察を含んでおり、一読の価値ある著作として推薦したいと思います。 (ラーニング・アドバイザー/人社 KURIHARA) ▼筑波大学附属図書館の所蔵情報はこちら http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1667342

Posted by ブクログ

2015/10/12

第2次大戦の敗戦直後に、カール・ヤスパースがふだんの哲学領域内に限定された思考から踏み出し、ドイツ国民としての「戦争の責任」を問うた本。 この本はかつて読んだような気がしていたが、どうもはっきりしない。未読だったかもしれない。 ヒットラー、ナチスによる激烈に暴虐な数々の行動が、終...

第2次大戦の敗戦直後に、カール・ヤスパースがふだんの哲学領域内に限定された思考から踏み出し、ドイツ国民としての「戦争の責任」を問うた本。 この本はかつて読んだような気がしていたが、どうもはっきりしない。未読だったかもしれない。 ヒットラー、ナチスによる激烈に暴虐な数々の行動が、終戦後どんどん明るみになっていく。それと同時に、ドイツに対する世界の世論が極めて非難の度合いを強めてゆく。 ヤスパースは、ドイツ国民として、ナチスの犯した罪の責任(の一部)を受容する事を宣言する。 さすがにヤスパース、ここでの論述には哲学者らしい深みに溢れている。たとえば「民族を誤って一個の実体と見ること」は「個人としての人間の尊厳を奪うことになる」といった明快な指摘を、注目しなければならない。 そのように、集団と個人とを明確に区分してもなお、個々のドイツ国民はナチス的なるものの責任を負わねばならないというのである。 端的に言えば、通常の民主国家の法的手続きを経てヒトラー政権を誕生させたのはドイツ国民であり、この政権がいよいよ独裁ぶりを発揮しはじめたときも、国民はこれをどうしようもできなかったからだ。 隣家の友人であったユダヤ人が虐殺されたとき、なぜ大声で喚いてこれに抗議しなかったのか、とヤスパースは問う。そんなことをすれば反体制者として直ちに射殺されたろうが、もしすべての国民が命をかけて抗議したとき、ナチスはすべての国民を射殺できたか。 本書の最も重要な指摘は、ヤスパースのような哲学者であっても、 「近代国家においては誰もが政治的に行動している。少なくとも選挙の際の投票または棄権を通じて、政治的に行動している。政治的に問われる責任というものの本質的な意味から考えて、なんぴとも、これを回避することは許されない。」(P106) と断言せざるを得ないということだ。 僧侶、隠者、学識者や科学者、芸術家のような「政治と没交渉をまもっているかのような」人々であってさえも、「政治的に負わされる責めは向けられる」のである。 「近代国家においては、『局外に立つ』ということはない。」(P107) 読んでいてつくづく不気味なのは、ヒトラー政権誕生の情況と、現在の日本における安倍自民政権の情況が呼応しているようにしか思えないことだ。 ヤスパースのこのような激越な「責任」意識は、日本人にはない。「責任」の重要性は、たぶん、西ヨーロッパの近代において、「個人の自立」が重視され、個人の自由と権利が確保されると共に確立された概念だろう。私の考えでは、それはキリスト教、特にプロテスタンティズムに由来している。キリスト教は個人(自分自身)と神とが、一対一で向き合って対話する宗教なのだ。神の裁きにあっては、集団も国家も関係ない。問題なのは徹頭徹尾、個人なのである。 そう考えると、明治以降も日本人が「個人の自立」や「責任論」にうとかったわけがわかる。 日本では太平洋戦争は「軍部の暴走のせいだった」という一般認識で終わっており、しかも原爆を投下されたという被害者意識が強い。パールハーバーでいきなり攻撃したのは日本だったのに。 そして、政治は政治家さんに任せて、自分たちはのほほんとしているというのが戦後ずっと一貫した、日本庶民の姿であった。長年の自民党政権がいかに金権腐敗に陥り、スキャンダルが明るみに出ようとも、国民はその政治家に投票した自分たちに責任があるとは思いもせず、相変わらず政治から逃避した生活を続けた。 しまいには南京虐殺はなかっただの従軍慰安婦はなかっただの、自虐史観がどうのとかいう、偽物のニーチェ模倣者が跋扈し始め、ネットを介して偏ったオタクどもが好き放題な言説を弄するようになった。 こうしたネトウヨから出現してきたのが安倍、麻生らである。 この極めて非-知性的でずさんな政権にはさまざまな暴言や愚行があるにもかかわらず、インターネットによって知的に劣化した少なからぬ国民は支持を続けている。 それでも、安保法制に関して突如大学生や高校生が立ち上がって、日本には希な巨大デモ運動が誕生したことは、ささやかな希望の光である。 それでもいまだに、自分は政治に関係ないという考えの国民が大半であり、教養層ともいえる文学・芸術愛好家でも沈黙のうちに逃避している連中が圧倒的に多い。 ヤスパースのような「責任」意識は、まだ日本には根付いていない。この国は、実際のところ、精神的には近代以前の国なのだ。表現の自由、報道の自由がおびやかされてなお安穏としているのだからたいしたものだ。 そういうお気楽な方々に、このような本を読んでもらいたいものである。

Posted by ブクログ

2015/08/19

第二次世界大戦でのドイツ敗北から捉えなおすドイツ人としての責任論。草稿は1945年に書かれ、1946年にかけて大学で講義されたという。 責任の分析は多岐にわたり、それを受けて贖罪のあり方を一人一人のドイツ人に問うという、人間としての内面へ照射するものとなっている。 まずヤスパース...

第二次世界大戦でのドイツ敗北から捉えなおすドイツ人としての責任論。草稿は1945年に書かれ、1946年にかけて大学で講義されたという。 責任の分析は多岐にわたり、それを受けて贖罪のあり方を一人一人のドイツ人に問うという、人間としての内面へ照射するものとなっている。 まずヤスパースは、それぞれの立場にあったドイツ人がみな語りあうことで、人としての結びつきを強調する。(対立する意見ほどよく聞けともいっている)敗戦により全てが崩れ変わってしまった人間関係の再構築を、この時点で呼び掛けることができるとは、本論を将来への確固とした道しるべにしようとする力強い決意であるようにも思える。 次に敗戦国ドイツに認められる罪を規定し、①刑法上の罪②政治上の罪③道徳上の罪④形而上的な罪の4つに分類できるとした上で、実際、悪の組織ナチスから自分らを「解放」したのは戦勝国なのだから、苦渋の判断とはいえ、戦勝国に裁きを任せるべきだとする。但し、その戦勝国による裁判は今後の世界法成立への足がかりになるという理想をも思い描いている。 それからそれぞれの罪の分類に従って、様々な関与・不関与のレベルにおいてさえも罪は成り立つとし(命令した者・されて実行した者、邪悪なナチス政権を認めた者・傍観していた者・単なる職員として働いた者・抵抗しなかった者、国外に逃げ出した者・国内にいても何も言えなかった者などなど)、さらにそれら立場の反論や弁解も想定した上で、ことごとくそれを論破し、全てのドイツ人は政治上の罪についてはきっちりと認めよと訴えかけている。さらに、ドイツ人だけではなく戦勝国側にも彼らの罪も提示し(特にナチスの侵略をしばらく傍観していたこと、非戦闘地域での破壊行為など)、世界大戦の罪の総決算をも見据えているのだが、人間の内面からの贖罪を求める趣旨ゆえに、他者を非難する前に自らの贖罪を第一に行うべきとしている。また、「ドイツ人」などのような集団の括りとしての罪ということではなく、あくまでも個人個人としての罪の認識が重要であり、さらに「万人の罪」のようにそれを一般化すべきでないとする。 最後に、各人の罪をどのように清めるかという課題を展開し、罪のなすり合いや偽善に陥ること、横柄な態度、運が悪かった、歴史の流れから仕方が無いなどの罪の回避を戒めた上で、政治的な責任には政治的な終結があるかもしれないが、道徳上の罪や形而上的の罪には罪滅ぼしということはないとし、罪の清め=償いを人間の人間としての道であるとしている。清めは外部から押しつけられるものではなく各人の内面の問題であり、そうしてなされた清めは政治的自由の条件であるとして、そこから共同体への責任意識が始まるのだとする。いわく「謙虚と節度はわれわれの守るべき分である。」 少しの難を言えば、ナチスの絶対悪ありきで論が始まっているのと(もちろんそうに違いないのだが、段階的な展開があったはず)、敗戦に直面した人のみへの提言にとどまっていて世代を跨いだ一般化がどうにもしにくいこと、絶対的な独裁への対比を想定していること(日本の敗戦に当てはめるのは難しい)、ともすればキリスト教世界としての罪に還元されがちな議論であること(日本の宗教観に当てはめるのは難しい)、などが気になった。 翻って敗戦の状況を知る世代が交代しつつある現在の日本。 敗戦の政治的意味合いも、政・戦略的分析も、道徳的謙虚さも、戦争そのものの意味や様相も全て忘却のかなたに葬り去ろうとする現在の日本。小説やドラマや通俗的読み物のみで第二次世界大戦の日本の敗北を理解しようとし、歴史修正主義者の耳触りのよいいい加減な言説を信じ込み、認識だの史観だの自虐だのと主観の問題にすり替え(自慰史観、自慰主義と呼ぶことにしています)、アホなマスコミのヨタ話を鬼の首でも獲ったかのように騒ぎ立て、世界の日本研究者にたしなめられるような井の中の蛙状態に陥ってしまった現在の日本。 終結より70年を経た過去といえども「深く反省」しなければならないことをしでかしたことを、率直に認めることができなければ、もはや人間の魂を持っているとはいえない「人でなし」であり、またそのような視点がなければ権力を持った者に、また騙された!と愚かな反省を繰り返すばかりとなりかねない危ない状況であるともいえる。 あれは自虐だと言う輩がいる以上、真の「自虐」として後世に伝える必要があるし、というか、そういう信じたいことをすぐに信じてしまう人はオレオレ詐欺などに容易に騙されやすい人だと思うので日常生活でも気を付けた方がいい。

Posted by ブクログ

関連商品

最近チェックした商品