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老いと病でみる幕末維新
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老いと病でみる幕末維新

家近良樹(著者)

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老いと病でみる幕末維新

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 人文書院
発売年月日 2014/07/11
JAN 9784409520604

老いと病でみる幕末維新

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2021/07/03

歴史上の有名人について、健康状態の良しあしが政治的決断に与えた影響をみる。また庄屋を務めた中村平左衛門の日記を通して、市井の人物の健康状態と村の様子を考察。 光明天皇、島津久光、小松帯刀、西郷隆盛、木戸孝充、などの病気、健康状態を考察し、最後に慶喜はなぜ長生きしたのかを考える。...

歴史上の有名人について、健康状態の良しあしが政治的決断に与えた影響をみる。また庄屋を務めた中村平左衛門の日記を通して、市井の人物の健康状態と村の様子を考察。 光明天皇、島津久光、小松帯刀、西郷隆盛、木戸孝充、などの病気、健康状態を考察し、最後に慶喜はなぜ長生きしたのかを考える。健康状態はけっこうその人の一生に影響を及ぼすのだなという気がした。新たな視点。 <光明天皇> 家近氏の前の著書「光明天皇と一会桑」(2002)を読むと光明天皇は視野の狭い攘夷主義者と映った。また一般にもそう思われているが、実は、そうではなく鎖国体制下、いままで続いた平穏な日本の生活が、自分が開国の勅許を許可することで、どう変わるかと逡巡したというのだ。その逡巡を天皇は攘夷を望んでいると拡大解釈され、広範な追従者を生んだという。また幕府も大政委任の原則の下、開国通商を独断で決定していたら、天皇もそれほど悩まなかった。なまじっか幕府首脳が同意を求めてきたために、動乱の時代を迎えたとする。  また死亡については毒殺説も戦後現われたが、原口清氏は戦後公刊された「光明天皇記」や「中山忠能日記」や医学的知識をもとに、死は出血性痘瘡によるもの、と断定したとあり家近氏はそれを支持している。 <西郷隆盛> その性格は正直すぎる。それゆえ人への好き嫌いも激しい。そして島津久光には疎んじられたゆえに、久光に対するストレスが尋常ではなかった。 <明治三傑の死で長州の天下に> 明治10年5月26日木戸孝允死亡:木戸は不調をさかんに訴えていた。脳痛、胸痛、歯痛、腫れもの、左足の麻痺など。明治期にあって戦力にならない時期が長く、真面目かつ神経質で時代の先見性もあったゆえ政局では浮いていた。次いで西郷隆盛が明治10年9月24日に自刃、大久保利通が明治11年5月11日に暗殺されると薩摩は次期の人材がいなくなり、伊藤博文が一歩抜きんでていた存在であったため、次期リーダーとなる。・・だからいち早くお札に登場していたわけか。 <慶喜の長寿は鈍感さがあったこと> 慶喜は鳥羽伏見の戦いのあと、征討の対象となり死への恐怖があった。それが4カ月後の慶応4年(1868)4月4日、死一等減(死罪を免じる)となり水戸へ退去謹慎。この間、天璋院や和宮らは慶喜の妻(美賀子)を介して切腹を進めたが慶喜は断った、と言う一幕もあった。この死ぬか生きるかの4カ月間の死の恐怖、そして免れた後の解放感がのちの慶喜の生活を方向づけたとする。  長寿の要因として第一には好奇心が強い。それゆえ多趣味にもなった。また慶喜の柔軟な考えや開明性と表裏の関係にあるが、冷たさとある種の鈍感さがあったとする。この鈍感さ、が長寿につながったとする。  家近氏は長年慶喜を研究しているが、慶喜は一般大衆への配慮が生涯を通じて著しく欠けているとする。少なくとも為政者として世論の支持を失うことを避けようとする姿勢は微塵もないという。これは慶喜の出自のエリート意識と愚民観によるのではと言う。 また幕末の武士たちには、日本が「小国」であるとの認識があり、また清やインドが列強の支配下になってしまったという情報も入ってきていて、この小国日本がそうならないための方策として、尊皇攘夷運動につながった、とあった。そして運動が進むうちに、自分たちが藩や幕府を超えたもの(当時の言葉では「日本」「皇国」「神州」)に属しているとの考え方が急速に優勢になっていった。そして天皇の下に強固な統一国家を形成し、欧米列国による侵略を防ぐべきだ、との思想になったという。 2014.7.10初版第1刷 図書館

Posted by ブクログ

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